『6.約束』








「お前だけじゃないよ」
 しばらくの沈黙のあと、広哉が静かに言った。
 広哉が日向に手を差し出す。
 日向は手を借りて半身だけ起き上がった。
 不思議そうに涙でぐしゃぐしゃになった顔で広哉を見上げる。
「由奈だって、嵐だって後悔してるよ」
 広哉は日向の目を見つめ、言った。
「自分が『秘密』を作ったせいで――――――お前が死んでしまったんだ、って」
 驚きに涙が止まる。
「なん…でっ。2人のせいじゃないじゃない…。ただ私が……」
 上擦った声で言う日向。
 広哉はぽんぽん、と優しく日向の頭をたたく。
「そうだな、ここまできたのはお前自身の責任だ。でもな」
 ぱちん、と広哉が指を鳴らす。
 その瞬間、立体映像のように由奈と嵐の姿が浮かび上がった。
「2人だってお前になんで言わなかったんだろう、なんで伝えられなかったんだろうって、思ってる」
 日向は微かに疼く胸の痛みに、胸を押さえながら広哉を見つめた。
「さっきお前、嵐と由奈にあっただろう?」
 日向は目を眇め、微かに頷いた。
「あれは幻だけど、全部が『嘘』ってわけじゃないんだよ」
「………うそ……じゃない?」
「そ。あの二人はこの『世界』にはいない。でも心に空間なんてないんだよ」
 解るような解らないような、複雑な表情をする日向に広哉は笑う。
「あんま、深く考えなさんな。なにせここは『あの世』だしな」
 軽い口調でいう広哉は初めて会った時と同じような、いやあの時とは違う屈託のない笑みを浮かべて言う。
「とにかく嵐はお前に言えばよかったって、なんであんな嘘ついたんだろうって伝えたかった。由奈は言いたいけど大切だからこそ言えなかった、ってことを伝えたかった」
 日向は透けて見える嵐と由奈の幻影を見つめる。
「だから―――――――繰り返さないように」
 その言葉に広哉に視線を移す。
「さっきお前が2人に出会った時の二人の行動はちゃんと2人の『心』の真実なんだ」
 後悔だけとは違う涙が日向の目にうっすらと浮かぶ。
 無性に嵐と由奈に会いたくなった。
「とは言っても、まぁあの2人がここでのことを知っている、覚えてるわけでもないしな」
 日向は潤みっぱなしの瞳を広哉に向けて、思いをこめて訊く。
「あの2人にしてあげられることは………、嵐と由奈の後悔を…なくしてあげることは………できないの…?」
 逃げ続けてきた自分。
 今さらだということは痛いほど良くわかっている。
 もう自分は死んでいるのだから。
 伝えたくても伝えられないということも。
 広哉はじっと日向の目を見つめた。
 そしてふっと笑った。
「まぁ、完全にすべてを払拭するっていうのは無理だな。お前は死んで、あの2人は生きている。その分お前にたいする後悔もでかいし、簡単には立ち直れるはずもないし」
 自分がしでかしてしまったことの大きさを噛み締め、日向は視線を伏せた。
 でも、と広哉が日向の額を小突く。
 悲しそうな日向とはうってかわって、楽しそうな嬉しそうな表情をしていた。
「でもまぁ、夢の中で話をするってのはアリだな」
 夢? と怪訝そうな日向。
「ほら、よく聞くだろう。死んだ人間が夢に出て、なんか喋ってくるって」
 広哉は言いながら、言葉が出てこない、といったように頭をたたく。 そして思い出した、とポンと手を打った。
「あれだ『あなたの知らない世界』だ!」
 日向は一瞬ポカンとして、吹き出した。
「なによそれ」
 笑い声を立てる日向。
 広哉は「アレ?」と首を傾げる。
「いや、でもそうなんだよ! 向こうの人にとっちゃあさ。それに『あなたの知らない世界』は怖い話ばっかりじゃねーんだぞ。いい話もあるんだ」
 慌てて言う広哉の姿が面白くて、初めて見たその姿に日向は久しぶりに楽しく笑っていた。
「詳しいんだねぇ」
 目の端に滲んだ笑い涙をぬぐいながら言う。
 広哉は曖昧な笑みを浮かべて、気分を変えるように真剣な表情をする。
「ま、というわけでだ。夢であの2人に会うぐらいしか出来ないが、そこでお前があの2人になにを出来るかってことでもあるんだからな」
 ニヤッ、と脅しをかけるような口調で言うと、広哉は日向の手をつかんだ。
 パチン、ともう片方の手で指を鳴らす広哉。
 すると次の瞬間、すべてが一転した。
 なにもなかった空間が、変わっている。
 上には星空。下には無数のネオン。
 そして冷たく吹く風が、日向と広哉の髪を揺らした。
「――――――――ここ…」
 日向ははるか下の小さな小さな街並みを見つめ、呟く。
 地上から遠く離れた夜空に浮かぶ二人。
「お前の住んでた町」
 寒さなど感じないのに、広哉は寒そうに身をすくめポケットに手を突っ込みながら言う。
「そして、嵐と由奈の住む町」
 髪が風に流される感覚が、なぜかとても懐かしく感じる。
 広哉は呆然としている日向の背中を暖かく力強くたたく。
「ちゃんと、文句言って来い」
「え?」
 文句? と広哉を見た日向の背をさらに強く押す。


「ちゃんと―――――――終わらせろよ」


 笑って広哉は言い、そしてパン、と大きく手を打った。
 待って、と言いかける日向。
 広哉は手を振っている。
 戸惑う日向。
 そして次の瞬間、夜空から日向の姿が消えた。
「がんばれよ」
 広哉の声が、だれもいない夜空に吸い込まれていった。




















 由奈と嵐が、暗闇の中にいた。
 二人は離れた場所で口も聞かず、座り込んでいた。
 日向はなぜかものすごく寂しくなって、2人の姿をじっと見つめた。
『あの2人になにを出来るか』
 広哉の言葉を思い出す。
 それに背を押されるように、ゆっくりとだが一歩一歩近づいていく。
 近くに行って初めて日向は由奈が泣いていることに気づいた。
(…由奈………)
 泣きそうになる。
 だがここで自分が泣いてはいけないのだ、と気持ちを入れなおす日向。
 どうすればいい。
 どう声をかければいいのだろう。
 日向はしばらく逡巡し、そして思い至る。
 大きく息を吸い込むと、声をかけた。
「ちょっとー?!」
 大きな声。
 だがわずかに震え、やや裏返りかけた声。
 ビクッとして由奈と嵐が顔を上げた。
 日向は激しく動悸するのを必死で我慢する。
「なんなの〜? この辛気くささは〜??!」
 両手を腰にあて、仁王立ちしている日向。
「………日…向」
 2人が同時に呟いた。
「わざわざこんなところまで来てあげたのに! なんなのよーっ、この暗さ!」
 日向は口を尖らせて言う。
 そして笑った。
「2人とも久しぶりー……」
 笑いながら軽く手を振って…。
 だがその動作は途中で止まる。
 日向の言葉が終わらないうちに、その身体は嵐に抱きしめられていた。
 胸が、痛い。
 ほんの数秒で嵐は身を離し、顔を背ける。その横顔に一筋、涙が落ちる。
 そして入れ替わりに由奈が日向に抱きついた。
 ギュッと日向にしがみつくようにして泣き出す由奈。
「…ひ…なっ……、ごめんなさ…い……っ。……わたし…が…」
 2人の体温、気持ちが痛いほど胸に響いてくる。
 懐かしくって暖かくって優しくって、懐かしい。
 また涙が出そうになって、日向は広哉の言葉を思った。
 由奈の頭をぽんぽんと叩く。
「そんな泣かないの〜! 私は2人に『文句』を言いに来たんだから〜!」
 その言葉に2人は、暗く神妙な顔をする。
 日向は思わず心の中で苦笑しながら、ゆっくりと由奈から離れた。
 そしてビシッと嵐を指差す。
「まずは嵐!」
 ビクッと顔を強ばらせる。
 だがそこには罪の意識を抱え、すべてを受け入れようとする意志が見える。
 日向は深呼吸をすると、
「あんたねー!! 彼女に隠し事をするなんて一体どういうこと!? 言いづらいのはわかるけど、嘘は駄目でしょ!! それに由奈のこと心配して映画見に行った、って言えば私が怒るわけないでしょ! それとも、私ってそんな心狭そう?? 狭くないわよ! ったくも〜! 彼女のこと、ちゃんと信じなさいよねー!!!!」
 日向は息つぐ暇なく、一気にまくし立てる。
 迫力はあるがなにか予想と違って、嵐はポカンとしている。
「いい!? わかったの??」
 怒ってるのかなんなのか、とにかく気圧されて嵐は何度も首を縦に振る。
「……は……はい。…すいませんでした…」
 日向は満足げに頷く。
「はい。わかればよろしい」
 そして今度は由奈に向き直る。
「次、由奈」
 こちらも気圧されて緊張気味。
「由奈の悪いところはいっつも自分一人で考えちゃうところ!! まぁ由奈は頭もいいし、性格もいいし、優しいけどね、一人で悩んでちゃだめ!! 一人でウジウジ悩んでたらネクラって思われちゃうわよ?!」
「…………ね…くら…」
 呆然としながら呟く由奈。
 そんな由奈に嵐が思わず吹き出す。
「そうよ! だいたい友達ってなんのためにいるか知ってる?? 友達っていうのはグチるためにいるの! いろんなことを分かち合うためにいるの。悩んで相談してグチってグチって! そんですっきりして楽しく毎日を過ごすためにいるの!」
 説教してる自分はまるで広哉のようだ、と日向は思った。
(…広哉もずっと励ましていてくれたのかな……)
 日向の顔に優しい笑みが自然と浮かぶ。
「だからちゃんと私にグチって嵐にグチって、悩みなんか吹き飛ばしちゃえばいいんだよ!!!」
 言って、日向は小首をかしげる。
 そして小さく笑う。
「とは言っても、私はもういないから、これからはい〜っぱい嵐に相談してグチってね」
 あくまで軽い口調。
 だがその言葉に由奈が目を潤ませて、口を開きかける。
 日向はそれを素早く制するように、さえぎる。
「それで、2人には謝らなきゃいけません!!」
 ドキドキする心臓を必死に押さえる。
 これだけは泣かずに笑って言わなければならない、強くそう思う。
 そして笑顔。
「ごめんね、勝手に一人で誤解して、勝手に…」
 深呼吸を何度もしないと、息が辛くて言えそうにない。
 日向はゆっくりと息を吐きながら、言った。
「死んじゃって――――――、ごめんね」
 しん、とした。
 笑えてるかどうかわからなかった。
 頬は緩んでるような気がするが、それが笑顔なのかただ引きつってるのか、日向にはわからない。
「ごめんなさい。私が一番友達信用してなかったってことだよね」
 由奈の目にたちまち涙が浮かぶ。
 嵐はただただ日向を見つめている。
 日向は由奈の手をとって、微笑む。
「ごめんね、由奈。痛かったでしょ? ごめんね、私のせいで」
 日向の首にしがみつくようにして、嗚咽を漏らす由奈。
「私…のことなんて…いいよ…っ。だって…怪我なんて…すぐ…治るし……でもでも」
 しゃくりあげるようにして言う由奈の声を聞きながら、日向は由奈の背に手を回した。
 心の中が熱くて、苦しくって、切なかった。
「…ううん…私が…馬鹿だったの。ごめんね。――――――許してくれる?」
 当たり前じゃない、と泣きながら由奈が言った。
 嵐が複雑な表情で日向を見つめ、日向も嵐を見つめる。
 そしてふと嵐が笑って、日向の頭を小突いた。
「彼氏になにも言わないで…。バカヒナ…」
 屈託なく笑う嵐を見て、ああやっぱり好きだなぁ、ってしみじみと感じた。
「バカップルだね」
 日向が冗談ぽく言う。
 嵐が笑いながら頷く。
 日向は逃げ回っていた自分を思う。
「ごめんね、2人とも…。でもさー…私……」
 全身が強ばる。
 言葉というものがこんなにも力を要するものだということに、日向は今更ながら思った。
 一瞬息を止め、



「生きてればよかった――――――――」



 我慢しているのに涙がこぼれた。
「生きて…二人とケンカすればよかったな…」
 笑っているのに涙が出るのは、晴れた日の雨に似てる…。
「もっと―――――二人と一緒にいたかったよ」
 それは身を切るような自分自身への贖罪の言葉。
 ほっと息をつき、涙を振り払い必死に微笑む。
「由奈も嵐も……私の大好きな、大切な友達だよ」
 心からの言葉。
 些細なことに心乱され、日向が忘れていたこと。
 ようやく帰り着いた気持ち。
「――――――うん。私も大好き」
 由奈が鼻声になりながら言った。
「俺も、俺も〜」
 三人で笑いあっていた頃のような、嵐の調子のいい声。
「由奈、ずっと友達だよ!」
 由奈の手をとって、笑う日向。
「日向、ずっと友達よ!」
 手を強く握り返して、笑う由奈。
 二人は嵐を無視するように、芝居がかった口調で言い合う。
「えぇー?? 俺はぁ??」
 嵐の寂しそうな声に、二人はとたんに笑い崩れた。
 懐かしいつい最近まであった三人。
 柔らかな空気が漂う。
 ずっと苦しかった心が、解きほぐされる。
「ね…日向…。また―――――――会える?」
 ふと由奈が不安そうに日向を見た。
 死んでしまった自分の立場を思い、一瞬止まる。
 だがすぐに明るい声で言う。
「ごめん、わかんないや。――――でもね、私ね『死んだら終わる』って思ってたの」
 微笑はとてもやわらかくて、嵐と由奈がその笑みに癒されていることを日向は知らない。
「でも、違った」
 短く、でも長かった道のりを思い出す。
「だから」
 それは願いであり、いつか来る『未来』。


「きっとまた、会えるよ」
「きっとまた、会えるよ」


 日向の言葉にかぶさるように、広哉の声が聞こえた。
 驚く日向。
 そんな日向に優しい笑顔を向ける嵐と由奈。
 そして次の瞬間、閃光が発した。
 強烈な光に思わず目をつぶる。
 そして目を開いた時、そこに嵐と由奈の姿はなくなっていた。
 白い何もない空間を見回すと、ニヤニヤ笑っている広哉がいた。
「なによ、その笑い方」
 決して嫌な感じではない。いたずらっぽい笑み。
 つられて日向も笑顔を見せる。
「やっと終わったな」
 広哉がしみじみと言った。
 日向はゆっくりと頷いた。
 広哉が手を差し出した。怪訝そうに日向はその手をとる。
 ふわっと日向の身体が宙に浮かんだ。
 そしてまた空間が歪む。
 また何もない。
 だがすべてが眩く、光っている。
 日向の身体もまた静かに光を放ちだす。
 驚いて自分を見下ろす日向に、広哉が優しげな微笑を浮かべた。
「日向。ここは魂の救済の場所なんだ」
 魂の――――?、日向は不思議な面持ちで広哉を見つめる。
「生きてた頃に心残りのあった者。深く魂に傷をつけてしまった者たちが来るところ。
 すべての魂は転生をする。
 そして転生をするために、魂の浄化をする。
 それがこの場所。
 そして、今までお前がここで見てきた『現実』の意味だったんだ」
 日向は少し目を見開いた。
「気持ちはすっきりしたか?」
 広哉の時に、日向はついさっきまで一緒にいた嵐と由奈のことを思い出す。
 もうあの時には戻れない。でも――――。
「――――――うん」
 こぼれる笑顔。
 広哉は目を細め、日向を見つめた。
「ねぇ、広哉。さっき私が二人と話したことって…」
 日向はふと気になった。
 広哉は安心させるように微笑む。
「いっただろ? 『あなたの知らない世界』だって。ちゃ〜んと、覚えてるよ。二人はこれからも生きていくから悲しみは残るだろうけど。
でも、ちゃんと傷は癒されるよ」
 日向はほっとして、頬を緩める。
 そして光を放っていた日向の身体がじょじょに透明になりはじめた。
 それを見ながら広哉は嬉しそうな笑顔を向ける。
「そして…魂の救済を行う者。お前の担当が俺だった、っていうわけさ」
 日向は透けている手で広哉の手をとった。
「私…あなたが担当さんでよかった」
 広哉は首を傾げて、
「あんなにいじめたのに?」
と、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「うん。………ありがとう」
 広哉はなにも言わず、微笑んだ。
 今までで一番優しい笑顔に、日向は一瞬胸が高鳴るのを感じた。
 広哉は目を伏せ、そして姿勢を正すと真剣な面持ちで日向を見る。
「それでは、楠木日向。最後の確認をする。
 生年月日1985年7月7日。双子座。血液型A。両親の名前は楠木靖人・久美。そして2002年3月6日自殺。間違いないな?」
 日向はしずかに頷いた。
「日向、お前はこれから『転生』の準備に入る。『未来』へ還っていくんだ」
「未来へ――――――」
「今度は殴られても踏みつけられても、図太く生きてけよ」
 笑いながら言う広哉に、日向は大きく頷く。
「もう、繰り返さないよ」
 その言葉がなにより広哉には嬉しかった。
 名残惜しい、そんな感情を噛み締めながら広哉は口を開く。
「それじゃあ日向、お別れだ」
 一瞬目を見開き、寂しそうに笑む日向。
「本当に………ありがとう」
 日向の全身が周りの色と同化し、消えていく。
 広哉は最後の言葉を噛み締めるように言う。
「来世において、あなたに幸福が訪れるよう心から願っています」
 それはこの空間の者、魂の救済者〈天使〉たちの最後の役目である。
 その言葉を聞き、来世へと旅たつ魂。
 日向の『形』も、もう消えていっている。
 微かに上半身が残っている状態だった。
「……ねえ」
 日向の肩が消える。
 広哉が日向を見る。
「あなたの…」
 日向の輪郭が霧のように消えかかる。
「あなたの…ほんとうの名前は……なんて言うの…」
 広哉はほんの少し頬を緩め、声に出さず口だけを動かした。
 そして、日向のすべてが、消えた。





















 しん、と静まり返った空間。
 さっきまで日向のいた場所を愛しそうに見つめている広哉。
 そんな広哉の傍らに一つの輝きが現れた。
 その輝きはじょじょに人型をとってゆく。
 そして、
「良かったですね」
広哉と同じ場所を眺め、静かな声が言った。
 広哉はほっと息をつき、横を向く。
 『その人』は眼鏡をかけていた。薄いグレーのスーツを着ている。見た目は20代半ば。
 全体の雰囲気が穏やかで、優しい存在。
 人の良い微笑を浮かべ、佇んでいる。
「……長い間、つき合わせてすみませんでした」
 その口調はさっきまでの広哉とは別人のようなものだった。
 優しく誠実な声色。
「いいえ。ここには時間などあってないようなものですから。でも…」
 『その人』は昔を思い出し、失笑する。
「でも日向さんがここへ来ることになった時…、まさかあなたが救済の役をさせてくれ、なんて言うとは思いませんでしたよ」
 広哉は照れ笑いを浮かべ、髪をかきあげる。
「………だけど…ずっと不安でした。『僕』が本当に彼女を救えるのか…、と。この方法で本当にいいのか…、って」
 広哉は日向とのことを思い出しながら、目を細めた。
「いや、なかなかでしたよ」
 『その人』は広哉を優しく見る。
「確かに少々荒っぽいところもありましたが、初めてとは思えないほどでしたよ。もしあなたがこれから転生でなければ、ぜひスカウトしたいくらいですよ」
 『その人』がそう言って、微笑んだ。
 広哉もまた笑む。
 『その人』は姿勢を正して、穏やかな眼差しを広哉に向ける。
「あなたの前世での心残りは、楠木日向さんのこと。彼女の人生を見守ることでしたが、もうそれも浄化できましたか?」
「………はい」
 『その人』は感慨深げに広哉を見つめた。
「それにしても…。あなたほど優しい人を見たのは久しぶりでしたよ。
 ――――高木広哉さん」
 穏やかな笑みが浮かぶ。
「そして、日向さんがあなたのことを『広哉』と呼ばれたのも、驚きでしたね」
 そうあの時、どれほど驚き、嬉しかったか…。
「それじゃあ、広哉くん。最後の確認をします。
 生年月日1985年11月10日生まれ。さそり座。血液型A。両親の名は高木達之・由利。
 1998年、当時12歳、通学中車の衝突事故に巻き込まれ、死亡。
 間違いありませんね」
「はい」
 その声はさっきまでの広哉と同じようで、微妙に違った。
 『その人』の前にいるのは背が少し低く、幼さの残った少年。
 当時中学に上がったばかりだった、高木広哉の姿。
「それでは、高木広哉さん。
 来世において、あなたに幸福がおとずれるよう、心から願っています」
 『その人』は深くお辞儀し、長く担当だった広哉へ笑みを向けた。
「僕も本当にお世話になりました」
 幼い広哉の姿が日向の時と同じように透明になってゆく。
「来世で、日向さんと出会えるといいですね」
 頬を少し染めて、小さく頷く広哉。
 『その人』が消えてゆく広哉に、思い出したように好奇心の眼差しでたずねる。
「そういえば最後に、日向さんがあなたの本名を聞いていましたが、教えてあげたんですか?」
 広哉は微笑んで、そして言う。
「秘密、です」
 そして広哉の姿が、消えた。
 『その人』は眼鏡をはずし、ハンカチで拭く。かけなおして、その空間を微笑で眺め、
 そして、消えた。
 すべてが消え、その空間もまた消えていった。