『3.終わる日』








 ケータイの着信に、もう入りきれないほど嵐からかかってきていた。
 着信音が消されているケータイは、その存在価値を失われるように床に放り出されていた。
 部屋には鍵がかかっている。
 部屋から出れば、廊下には母親の心配が詰まった食事がトレイに乗せて置いてある。
 その食事もまた、ここ2日ほどまったく手がつけられていない。
 自室に閉じこもり続ける少女に、父親はなだめ、時には怒るが何の返事もなく、今はそっと見守るしか出来なくなっていた。
 由奈が事故にあってすでに六日がたっていた。
 由奈はあの時の事故で、腕の骨折り、そして胸を強打していた。鎖骨あたりにヒビがはいったとかどうとか。
 母親が扉越しに詳細を伝えたが、日向はよく覚えていなかった。
 締め切られたカーテンに、真っ赤な西日が溢れている。
 暗い部屋の中に、ぼんやりとその光が染み込んでいた。
 日向はベッドを背にして、膝をかかえて座り込んでいた。
 顔を伏せ、なにも見ない。
 カタン…。と扉の向こうで音がした。
 母親がおそらく夕食を置いたのだろう。
 まだ夕方の5時過ぎ。普段なら夕食は7時過ぎに食べるが、なにも食べようとしない娘に母親は焦り、そして食事をもっていく時間は早くなっていっていた。
 日向はわずかに顔を上げた。
 扉の隙間からわずかに漏れてくる温かな匂い。
 それは日向の大好きなハンバーグとシチューの香りだった。
 日向は眉を顰め、鼻と口元を押さえた。
 現実の匂い。
 それを吸い込むととたんに吐き気がした。
 見ないように、考えないようにしているから、現実を目前にすると怖くなる。
 またうつむこうと、自分の中に閉じこもろうとした日向の目にケータイが映った。
 青白く光を発する画面。
 音も振動もないのに、その気配はなぜか伝わってしまう。
 それは本能が逃げ切れずにいるからか。
 日向はすべてを追い出したくて、這いずるようにケータイのそばにいくとそれを手に取った。
 嵐。
 そう着信画面にでている名前。
 日向の指がわずかに震え、受話ボタンに触れる。
 なんどもそこに手をかけては、放り出す。
 それの繰り返しだった。
 だが今日はなぜか、押していた。
 疲れていたからかもしれない。
 もう全部を無視することが疲れたからだろうか。




「―――――――――」





 しんとした。
 向こうも出るとは思っていなかったから、とっさのことに言葉を出せずにいた。
 日向は耳にケータイを当てるでもなく、通話時間を表示する画面を見下ろしていた。





「―――――――ひなた」





 小さく声が漏れた。
 久しぶりに聞くその声。
 急激に動悸が激しくなる。
「日向…?」
 日向はゆっくりとケータイを耳元へともってきた。
「……ちゃんとメシ食ってるか……?」
 数日振りに聞くその声が、自分のことを心配している。
 その時、日向は現実を忘れた。
 涙が急に溢れてきて、嵐に会いたいという気持ちが胸を締め付ける。
 涙が頬を流れていく。
 そしてまた数秒の沈黙が流れた。
 日向の喉元を『嵐』という言葉がせりあがってきていた。
 だが、日向が言葉を発するよりさきに、再び嵐が口火を切った。
「………由奈の怪我なんだけど」
 ビクッと日向の顔が強ばる。
 一瞬で涙は止まり、日向はケータイを耳から引き離す。
 そして切った。震える手で慌てて電源もオフにする。
 ぎゅっと握り締めていたケータイを投げだした。
 足が震えだして、立っていられずに日向は座り込んだ。
 ドクドクと心臓の音が大きく聞こえる。
「………」
 由奈、そう呟こうとしたが、出来なかった。
 その名を思い出すと、あの瞬間のことがまざまざと甦る。
 宙に舞った親友の身体を。
 地面に叩き付けれた親友の身体を。
 命に別状はなかった、とかそういう問題ではないのだ。
 自分が、親友を突き飛ばした、という事実に間違えはないのだから。
 怖かった。
 自分が決定的な間違いを犯してしまったことが分かるから、怖くてたまらなかったのだ。
 だから、だから。
 あの事故の時から自分は逃げているのだ。



「どうしよう」





 それが最後の言葉。
 日向は、そして次の日、自殺したのだ。