『blue of sky』




『1.終わり、そして始まり』


 


『死んだら、すべてが終わる』
 って、誰かが言ってた。
 だから私は、手首を切って、死んだ。








 走馬灯と、呼ばれるものだろうか。
 目も開けてないのに、何も見えないはずなのに、小さい頃からのたくさんの思い出が目の前を駆けていく。
 ああ、こんなこともあった。ああ、こんな幸せなこともあった、と胸が切なくなった。
 でも、私は今日自殺したんだ。 
 お父さん、お母さん、ごめんね。
 もう明日からの思い出には私はいないの。
 身体が空気になってしまったように、意識だけがどこかでそう考える。
 ふわふわふわふわ……、漂っていく。
 何処までも。
 天国ってあるんだろうか。
 死んだ後ってどうなるんだろうか。
 きっとこの『私』の意識もなくなっちゃうんだろうなぁ。
 ふっ、と景色が明るくなった。
 銀白の光が輝きだす。
 私の意識を包み込む、優しく暖かい光。
 私の意識がだんだんと、消えてゆく。
 そして最後の瞬間、私は『呟いた』。
『これで、終わり』と。












『2・デジャヴュ』


 ピピピピピ…。
 聞き覚えのある音。
(目覚ましの音だ…。あ〜、もううるさいなー。誰か止めてよぉ。せっかくいい気分で寝てんのにぃ)
 ひなた
 日向は目を開けずに、手だけをぶんぶん動かした。
 だが何もあたらない。
(…?? どこにあるの? 目覚まし)
 …ピピピピピ。
 大きくなるデジタル音。
「おいっ!! とっとと起きろッ!」
 耳元で叫ばれる少年の声。 
 日向はビクン、として目を見開いた。
 起き上がればそれはちょうど机から顔を上げた状態。居眠りから覚めたような態勢を日向はとっていた。 
 日向は目を点にして、ワンテンポ遅れて自分を見下ろす。
 手・腕・足・お腹…全部自分の、十六年間付き合ってきた身体だ。
 着ている制服には見覚えないが、夏服の綿の肌触りは良く知っている。
(え…、え……? 私…?)
 ぼうっとしている日向の耳に、目覚ましだと思っていた音が聞こえなくなった。
 そして日向は、思い出す。
「私……自殺…した」
 はずなのに、なんで生きてるのか。
 そして知らない制服を着ている自分に困惑する。
(なに…? 私…助かったの? もしかして助かって、どこかに転校させられた? え? でも、なんにも覚えてない…。どうなってんの…?) 
「楠木日向っ」
 振り向く。
「起きんのがおせえんだよっ。ったく。そんじゃ、えーっと生年月日1985年7月7日生まれ。双子座。血液型A。両親の名前は楠木靖人、久美。2002年10月20日、自殺。間違いないな?」
 窓際の席に座っている日向を見下ろしながら、その少年は一気にまくし立てた。
窓に光を反射させながら、教室内に入ってくる陽射しに少年の影が薄くのびている。
 黒い髪も栗色に変わって見える。
 日向は突然のことに、混乱して、その果てにボーっと少年を見ていた。
 少年は片手を腰に当てて、眉を寄せ日向を見る。
「おいっ、聞こえねーのか?」
 少年は苛立ちを隠さず、言った。
「…………」
 日向は何か言わなければと思って、口を開きかける。だが声がちゃんと出るか心配で、喉をさする。そしてか細く声を出した。
「あ…の……。私…どうしたんですか…。ここ…いったい…どこなんですか?」
 声を出してみれば、それにつられて次々疑問がわいてくる。
 少年は髪をかきあげ、ため息混じり、面倒くさそうに日向を見る。
「あんた、死んだの。そりゃわかるでしょ? 自殺なんだからさ」
 うっすら少年が笑みを浮かべた。
 それが嘲笑のように感じた日向は、顔が燃えるように赤くなるのを感じた。
「そんで、ここはあの世ってわけ」
 言って少年が指を鳴らす。
 と、窓が開け放たれ、乾いた風が入ってきた。
 蒸し暑い空気。突然聞こえ始めた、うるさいセミの声。
 日向は立ち尽くしたまま、顔だけを横に向ける。
眩しすぎる太陽。
「…………夏…?」 
 無意識に口元に手を当てる。
 唇を押さえた指が、震えた。
(私が死んだのは……もう秋で………。もう寒くって…)
「だーかーら。あの世って言ってるっしょ。あーんま、深く考えんなって」
 驚きの表情を見せる日向を、少年はおかしそうに笑った。
「……あなた天使かなにかなの? 神様とか?」
(ぜんぜん見えないけど…、心が読めるんでしょう?)
 日向は念じるように心で考える。
 少年の顔色をうかがっていると、少年は笑ったまま首をかしげた。
「さあ、ね。そんなご大層に命名されるほどのもんでもねえよ。好きなように思ってれば?」
 少年は前の席のイスをうしろに向けて腰掛ける。
 うながされて日向も座った。
「それで、……日向」
 名前で呼ばれて、日向はドキッとした。
 まるで、生きてた頃の学校生活のような感覚がする。
 日向は不思議な雰囲気に、戸惑いながら言う。
「なに…」
「俺の名前。なにがいい?」
「え?」
「俺、あんた担当でさ。名前は希望するもので呼べるようになってるんだわ」
 頬杖を付いて、少年がにっこりと笑う。
「なんに、する?」
 担当だとか、名前を決めろだとか、わけのわからないことばかり言う少年。
 次々出てくる疑問を口に出しそうになった日向に、
「ストップ! さっきも言っただろ? 深く考えんなって。ここはあんたが生きてた世界とは違うんだからさ。不条理だらけだよ」
 少年はイスに寄りかかり、イスの脚を浮かせながら、日向を見る。
 日向は崩れてきた前髪を、直す。
 横髪を押さえるように耳元へ手を持っていった。そしてそのまま頬に手を当てて、うなる。
(名前……。急にそんなこと言われたって…。うーん…と)
「誰でもいいんだぞ」
 日向は顔を上げた。
 ふと浮き上がってきた、懐かしい名前。
          こうや
「…………『広哉』」
 イスの脚が静かに床につく。少年は目をしばたたかせた。
 日向は机の上に身を乗り出して、少年を見た。
「『広哉』よ。ねっ『広哉』 いいでしょ?」
 少年は少し驚いたような表情で日向を見る。
「……ダメなの? ………初恋の人の名前なんだけど…」
 微かに頬を赤らめながら、日向は早口で言った。
「いや、べつにいいけど。………なんだ…てっきり俺は嵐だと…」
 語尾のほうは呟きだった。
 まったく聞き取れなくて、日向は怪訝な顔をした。
 それに気づいた少年が慌てて言う。
「わかった。『広哉』だな。よし、今からそう呼んでいいぞ」
「…うん」
 沈黙。
 そして、
「広哉」
 ボソッと言った日向に、広哉は吹き出した。日向も頬を緩ませる。
 と、広哉が腕時計に目を落とした。
 そのとき日向は初めて、広哉が制服を着ていることに気づいた。
 ダークグリーンのズボンに、襟元を無造作に開けたシャツ。
(こんな格好してたっけ…)
 無意識にそう思った日向の耳に、
「おはよう〜。日向、広哉」
女の子の声が聞こえてきた。
 振り向くと見知らぬ少女が立っている。日向と同じ制服を着ていた。
「おはよ」
 広哉が言う。
 笑顔を浮かべた少女は広哉を見て、そして日向を見る。
「どうしたの? ボケーっとして?」
 日向は戸惑ったように広哉を見た。
 が、広哉は窓の外に顔を向け、そ知らぬふりをしている。
 日向は黙っているわけにもいかず、ぎこちない笑みを浮かべた。
「おはよう。………早紀」
 自分の口から出た言葉に、日向は驚く。
 勝手に口をついて出た名前。
 目を見張っている日向に、早紀はお構いなしに話しかけてくる。
 広哉が、立ち上がって早紀に席を譲った。軽く手を振って、後ろのほうの席へと行ってしまう。
 それを目で追っていた日向は、教室の中の異変に思わず立ち上がった。
 教室の中に、人がいるのだ。
 さっきまではいなかった、たくさんの生徒たちが。
 楽しそうにお喋りをしている生徒たち。耳を澄ませれば、「宿題、してきた?」などのたわいない会話が聞こえてくる。
(なに…なんなのこれ…)
 思わず席を立った日向の頭の中に、
『死んでも終わりじゃないってことさ』
 広哉の声が、響いた。
「日向?」
 不思議そうな早紀の声に日向はハッとする。
「あ…ごめん…」
 ストン、とイスに腰を下ろす。
(死んでも終わりじゃない? どういうこと? あの世って…学校もあるの?? なになになんなのー…?)
「……た。ひ・な・た!」
 軽く頬を引っ張られて、日向は我にかえる。
 机の上に日向と早紀の影。そしてもう一つの影が混じっている。
「おはよう、日向」
 優しい声だった。
 見上げると微笑を浮かべた少女が、日向を見つめていた。
 日向の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「おはよ………凪」
 今度もまたすんなりと名前が出てきたが、日向は驚かなかった。
 ただ、胸の痛みにだけ戸惑いを覚える。
 凪は日向の隣の席に座った。
 教科書をかばんから机の中へ入れている凪に、視線を止める。
「なに? 日向」
 凪はすぐほつれてしまう細い髪にピンを止めなおしながら、日向を見た。
「……ううん…。なんでもない」
「変な子」
 クスッと笑う凪が自分の親友であることが、なんとなくわかった。
 教室の後ろのほうで、大きな声がした。
「よっ。広哉!」
 元気な声。
「おまえ、この間貸したビデオ、持ってきたか?」
 広哉と話すその声は、日向に気づき、大きい声で呼びかけてくる。
「おっはよ〜、日向」
 そして日向は、この声の主が自分の『彼』であることが、わかった。












 ジャーッ…。
 蛇口から勢い良く飛び出してくる水。泡立った石鹸を洗い流す。と、その冷たさが、日向にこれが現実であることを実感させる。
 日向は口にくわえていたハンカチを手に落として拭く。
 隣では髪にブラシをかけ、リップぬりぬり早紀が鏡に顔を近づけている。
 湿ったハンカチをしまい、日向も鏡の中の自分に目を向けた。
 いつもと同じ自分。隣にいる友人は知らないけど知っている。わからないことだらけだが順応しているのも確かだ。
 だけど……。
 指先に水滴少し。
 それを毛先に湿らせ、整える。大きく髪を巻いて耳にかけながら、小さく息を吐く。
 だけど、何かが心に、頭に引っかかっていた。
 この新しい人間関係が。
(なんだろう…これ……。デジャヴュみたいな感じ…)
「……ねえ、早紀」
 日向は廊下に出ながら、言った。
「んー?」
「早紀はどうして…死んだの?」
 早紀が日向を見る。
「…………は?」
 ぽかんとした早紀に、日向も目を点にする。
 そして次の瞬間、はじけるように早紀が笑い出した。
「どうしたのよ〜! どっか頭でもぶつけた? 今日変だよ、ひなたぁ」
 クスクス笑いながら言う早紀。
 日向は頭の中が真っ白になるのを感じた。
 何も考えられなくて、視線を不安定に揺らす。
 その目の端に、広哉の姿が映る。日向が振り返ると、広哉は口元の端を少しだけあげて笑った。
「…こう………」
 胸が不安で一杯で呼びかける。
 しかし広哉は友だちと教室のほうへ戻っていってしまった。
 そのとき、日向の頭にぽんと手が置かれた。
「一樹……」 
 見上げると、プリントの束を持った一樹が覗き込んでいる。
 日向の『彼』だ。
「ふたりでおトイレ? 女の子ってトイレの後が一番可愛いよな?」
 日向と早紀をかわるがわる見ながら、一樹が言う。
 早紀は笑いながら、ちょっとだけ眉を上げる。
「なにそれー…。どうせ鏡の前に立つ時間が長すぎる、とか言いたいんでしょ」
 三人は歩き出した。
「まぁねー。でもデートのときは別。なー、日向」
 爽やかに、大きな目を細めて笑いながら、日向の頭をなでなで。
「…ちょっとー、イチャイチャしてんじゃないわよー。やぁねぇ、若い人は」
 大げさにため息をつく、早紀。
「いやいや、早紀さんもじゅうぶん若いっすよ」
「んー、でも最近腰痛がねぇ」 
 芝居がかった口調で腰をさする早紀に、こらえきれず一樹が笑い出した。
 日向もその和やかさに、少しだけ平静さを取り戻した。
「そんで、三木くん? 次の授業はもしかして?」
 早紀が一樹の持っているプリントに視線を移しながら、嬉しそうに頬を緩める。
「お察しの通り、次は自習です」
「やったぁ〜!」
 手を叩いて大喜びする早紀。
 そこはもう教室の前で、先は中へと走りはいる。そして大声で皆に自習だと伝えてた。
 歓声が上がる中で、一樹が課題のプリントを皆に配る。今度はげんなりした声が響く。
 日向は席に戻った。隣でプリントを見ていた凪が顔を上げる。
「ひ〜なた。一緒にしよ」
「うん」
 机を寄せる。日向は前から渡ってきたプリントを受け取り、目を落とす。
「楽勝だね」
 日向はプリントを指ではじきながら言う。凪は頷いて、頬杖をついた。外に視線を移しながら、かったるそうに口を開く。
「どうせなら図書室でしたいなぁ」
「凪、図書室好きだもんね」
 日向は自然に微笑を浮かべて相槌を打った。
 凪はうん、と目を細めて頷く。
 日向はさりげなく視線を逸らし、プリントに目を落とした。
 プリントの端を、ちぎりそうなほど強く力を込め、握る。
 口を開けば勝手に言葉が出てくる。話せば話すほど、見知らぬ友人の中にいる違和感が薄れていくのを感じる。
 しかしそれと同時に強烈にわきあがってくるのは、恐怖。
 既視感だけが頭を支配する。
 無意味に日向はシャープペンの芯を出し入れさせていた。
 カチカチカチカチ……パキッ。
 芯が折れて、凪の手元に飛んできた。朝から様子のおかしい友人に、凪は必死に話題を探す。
 そしてふと英語の辞書を取り出した。
「ね、日向。今度一樹に注意して」
「なに?」
「じーしょ」
 苦笑を浮かべながら、凪は辞書をパラパラめくる。
「ほら、たまに一樹に辞書貸すじゃない? そしたら私のなのに勝手にマーカーで記しつけちゃうの」
 辞書の中を見せながら、凪が首をかしげ日向を見る。
「日向のもでしょ? 一回ちゃーんと怒ったほうがいいとおもうの! 私がいってもぜんぜんダメだけど、日向ががつんって怒れば治るかもしれないじゃない?」
 微笑む凪の眼差しに、自分のことを心配している色がある。それに気づいて、日向も微笑を浮かべた。
「ほんと一樹って、そういうところ、ダメだよね。私もいっつも注意してるんだけどねー。おばかさんだから、一生治らないかも」
腕を組んで、困ったような表情。日向はちょっと大げさな口調を意識して言った。
 凪はほっとしたように、笑顔を見せる。
 そしてその自習の時間が何事もなく過ぎた。
 授業と授業の合間の10分休みに入って、凪は他のクラスに教科書を借りに行っていた。
 日向は授業の準備をしている。
「ヒナ、宿題写させて」
 前の席の千明がノート片手に振り返った。
「いいよ」
 千明の写す速度はとてつもなく速い。
 日向はノートを覗き込んでみる。乱雑な字が、まるで筆記体のようにうねうねとつづってある。
 日向は瞬きを数回した。
「…読めるの…? これ」
「うん」
「すごいね」
「そ?」
 千明はノートをにらんで、機械的に手を動かしている。
「……そういえば。この前の日曜は一緒じゃなかったの?」
「日曜?」
 千明は落ちてくる髪を押さえながら、わずかに視線を上げた。
「一樹と凪、見かけたんだけど。映画館で…。てっきりヒナもいると思ってたけど」
 書き間違えに手を止めた千明は下を見たまま消しゴムをつかんで、しばらく動かさなかった。
「……でも、ヒナたち三人て、仲いいからね」
「………」
 日向は蒼白な顔で宙をにらんでいた。
『嵐と由奈、見かけたんだけど。映画館で…』
 脳裏に繰り返される、一つの言葉。
 そのとき、日向はようやく気づいた。
 最初に感じたのはデジャヴュでもなんでもないということを。
 これは、実際に過去にあったこと。
 日向が自殺する一週間前に、喋ったこと。
(私……した。まったく同じ会話を…私はした…)
 これは過去にあった、こと。
(あったんだ…)
 ドンッ、勢い良く日向の身体がぶつかった。
 無意識のうちに、日向は走り出していたのだ。
 ぶつかったの相手は一樹。そしてすぐそばに凪がいる。
 二人と目が合って、日向の足がすくむ。
 だけど、日向は力を振り絞って、逃げ出した。
 この場所から、逃げたかった。











『嵐と由奈、見かけたんだけど。映画館で…。ヒナは一緒じゃなかったの?』
 そう言ったのは、やはり前の席の香澄だった。
 日曜日、日向は『彼』である嵐と遊ぶ約束をしていた。
 遊園地に行く予定だった。
 だが当日、嵐の親戚が急に亡くなり、中止になったのだ。
 だけど、その日曜日。
 嵐は、由奈と一緒にいた。
 それを知ったとき、日向の心に、小さな小さなトゲが刺さったのだ。
 ただひたすら走っていた日向は、校庭へ出る玄関の段差につまづいた。
 膝を打ち付けるように、短く刈られた草の中に転ぶ。
 鈍い痛みが全身を走りぬけ、日向はその場にうずくまった。
 生きていた頃と違うのは、季節と風景だけ。
 うるさくまとわりつくセミの声に、日向は耳をふさいだ。
 だが音を遮断したかわりに、今度は記憶ががんがんと思い出される。
 日向はあの日のことを思い出して、胸がキリキリと痛むのを感じた。