『sideA  nightmare-6』











 外では雪が降り出していた。
 肩にわずかに雪のかけらをのせ、シュッドが帰ってきた。
 コートをソファーに放り投げる。
 夕食を食べていたグライスは久しぶりに見る叔父に、小さく「おかえりなさい」と声をかけた。
 シュッドはなにも言わずにテーブルへと来て、そして一つの箱を置いた。
 白い箱。
 シュッドはキッチンへ行き、ナイフとフォークと皿を持ってくる。
 きょとんとしているグライスにシュッドが開けろ、と言う。
 言われたとおりに箱に手をかけると、甘い香りが鼻を掠めた。
 中には小さめのワンホールのケーキ。
 生クリームと薄く切られたイチゴが敷き詰められていて、そして中央には『happy birthday』と書かれた板チョコ。
 今日はグライスの誕生日でも、シュッドの誕生日でもない。
 不思議そうにケーキを見ているグライス。
 シュッドは脇からケーキをとり、ナイフで手早く切り分ける。
 6等分されたうちの一つがグライスの目の前に置かれた。
 この家で初めて目にするケーキ。しかもバースディケーキ。
 シュッドはグライスにオレンジジュースを自分にシャンパンをつぎ、そしてケーキを食べ始めた。
 グライスはまだ困ったようにケーキを見ている。
「食べないのか」
 シュッドが短く言った。
 うん…、とグライスは柔らかいスポンジの中にフォークを入れる。
 一口食べ、その甘くとろけるような味に、頬を緩ませる。
 美味しさにケーキがなぜあるのかという疑問も消えうせる。
 どこにでもいる幼い普通の子供のよう。
 どこにでもあるような普通の家庭のよう。
 シュッドは無心にケーキを食べているグライスを感情のない目で見つめていた。
 小さな音をたて、シュッドの手から皿へとフォークが置かれる。
 食べかけのケーキを眺め、彼は呟いた。
「今日は両親の命日なんだ」
 生クリームで口の中が一杯になっていたグライスは頬を膨らせたままきょとんとする。
「16年前……おれが11歳の時…」
 シュッドの両親。つまりグライスの母親の両親であり、グライスの祖父母。
 いままで知らなかった祖父母。
 そう言ってシュッドは沈黙した。
 その顔が強ばっている。
 遠くをみるような眼差しに、グライスがいままで見たことのない、強い感情を見つける。
 その感情がなんなのか。
 それを教えるように、シュッドが言った。
「俺も……父親に虐待を受けていた…」
 ビクン、と身体が震える。
 予想しなかったシュッドの告白に、グライスは言葉を失くす。
「俺の父親は酒癖が悪くて…毎日毎日飲んでは俺と姉貴に暴力をふるっていた……」
 テーブルの上で握られた拳が微かに震えている。
「蹴られて、殴られて…毎日毎日、よく飽きもせずあの男は暴力をふるってたよ」
 淡々とした口調。
 だがはっきりとした憎しみが溢れている。
「いつも顔は腫れ上がってて、ろくにメシも食えなかった。姉貴も綺麗な顔をしていたのに、関係なく殴られてた」
 なぜこんなことを話し出したのか、わからない。
 いつになく饒舌なシュッドは熱に浮かされたように続ける。
「母親は姉貴に…お前の母親によく似てた。線が細くて、静かで…。俺たちを守ろうとしてたけど、無理だってことわかってた。あの男は陰湿で残酷で、最低の人間だった」
 シュッドはそっと息を吐く。
「母親が俺たちをつれて、逃げたことがある。すぐ見つかったけどな。その時は殺されるかと思ったな」
 暗く淀んだ瞳。
「…俺はあの男が大嫌いだった。憎くて憎くてたまらなかった。理由のない暴力。なぜこんな思いをしなけりゃならない。なんで、こんな男にねじ伏せられるんだ」
 目が合う。
 過去に虐待を受けてきた男。
 そして今、虐待を受けている子供。



「こんな奴、殺してやる」



 重い声。
 グライスの心に鉛のようにのしかかる言葉。
 そういつも思って、いつか殺すつもりだった―――、そうシュッドは言った。
 そしてシュッドはまたケーキを一口、一口ゆっくりと口に運ぶ。
 グライスはただ呆然とシュッドを見つめる。
「それが16年前の今日…あっけなく死んだんだ。母親も一緒に…交通事故で…」
 嘲笑を浮かべるシュッド。
「酒の飲みすぎで、ハンドル切り損ねて、ドカーン…」
 琥珀色をしたシャンパンを眺め、甘くなった口の中を潤す。
 くつくつ、とシュッドの唇から笑いがこぼれる。
「ほんっとあっけない最期。母親まで死んだのは哀しかったが、それでもそれまでの生活とはおさらば」
 小さな笑みを浮かべたまま、シャンパンを一気にあおる。
「その後、施設に入って、新しい生活。暴力のない日々。でも俺は環境になじむことができなかった。
 せっかく神様が助けてくださったのに、道は開けはしなかった」
 シュッドは頬杖をつき、ため息をつく。
「虐待を受け続けたお子様は心に深い傷を負って、人間が嫌いになったらしい」
 他人事のように、ちゃかすように言う。
「そして…なによりそのお子様は…とても後悔をしたんだよ」
 空になったグラスをもてあそぶ。
 グラス越しにグライスを見る。
「なんで」
 シュッドはグライスのほうへと身を乗り出し、一転して真剣な表情で、呟く。
「なんで――――」
 陰鬱に輝く瞳。
「なんで、自分の手であの男を殺さなかったのだろう、と後悔した」
 ゆっくりはっきりと告げた声は、グライスの全身を締め付けるようだった。
「なんで、あんなにあっけなく死なせたんだ。
 なんで、苦しませて苦しませて、殺さなかったんだ。
 たとえ相打ちであったとしても、あの男をこの手で、切り刻まなかったのだろう」
 言葉は呪いのようにグライスを包み込む。
 グライスは息をするのも忘れ、叔父を凝視する。



「自分の手で殺してさえいれば、俺は幸せになれたのに」



「あの男を、この手で殺さなかったから、ずっと悪夢を見てるんだ」
 シュッドはグライスを苦しそうに見つめる。
「お前に初めて手を上げてしまったあの日から…また“あの夢“を見始めたんだ」
 また、あの夢、グライスにわからないことばかり。
「まさか自分が…誰かに暴力をふるうなんて思ってもみなかった。
 あんな男と同じことをしているなんて、今でも、信じられない」 
 いつも無口なシュッドは、ずっと喋り続けて疲れたように、大きくため息をついた。
 暗く陰を落としたシュッドの苦しげな表情に、グライスはようやく解った。
 いつか自分に暴力を奮っていたシュッドを見たとき、なぜあんなに辛そうにしていたのか、叔父もまた過去に同じ経験をして苦しんでいたのだ。
 でも今日、過去のことをシュッドは話してくれている。それは一歩前へ進むためのものではないのだろうか、とグライスは思った。
 シュッドは手で顔をおおって、再び口火を切る。
「あの夢…悪夢。
 頭から離れないんだ…」
 震える声は、まるで幼子のようだ。
「昔はいつもあの男に夢でまで暴力を奮われて、そして俺が殺される夢だった。
 だけど、あの日、お前に暴力を奮った日からみる夢は……」
 指の隙間から、怖いものでも見るようにグライスを見る。
「夢の中で俺はお前を殴ってるんだ。
 でも、いつのまにか…それは昔の俺になっている…。
 俺は自分自身を殴って、そして殺すんだよ。
 毎晩毎晩……」
 シュッドは雑念を払うように大きく頭を振る。
「きっと、全部あの男を殺さなかったからだ」
 グライスは首からさげたロザリオを洋服の上から握る。
 苦しむ叔父をどうやったら開放してあげられるのか?
「あの男を殺してれば、きっとこんなことにはなってなかったんだ」
 繰り返されるのは同じことだけ。
「だから」
 ふらり立ち上がるシュッド。
「だから、あの悪夢をなくすために、この虐待の日々を終わらせるために」
 真っ青な顔色で、わずかにシュッドは唇を歪めた。
「決めたんだよ」
 悪夢を断ち切る。
 この虐待を終わらせる。
 すべてはグライスとシュッドに共通する想い。
 だが。
「あの男を殺す、と」
 シュッドは笑って言った。


























 シュッドの言っている言葉の意味が、解らなかった。
 自分を見つめるシュッドに、グライスは困惑した眼差しを返すだけ。
 あの男?、あの男とはシュッドの父親のこと。
 父親はとうに死んだ、と言っているのに、いま確かにシュッドはあの男を殺すと言った。
 なにも言うことができないグライスに、シュッドは勉強を教えるときのような口調で言う。
「グライス。お前が…俺を殺せば、すべてが終わるんだ」
 目眩、がする。
 なにかが間違っている。
 理解がとうてい及ばない。
「俺を殴りつづけてきた父親。
 お前を殴りつづけている俺。
 俺はあの男を殺せなかったけど、でもお前が俺を殺せば、上手くいくんだ」
 何が上手くいくの?、グライスは泣きたくなる。
「俺がお前に殺されさえすれば、悪夢は終わる。
 そしてお前も幸せになるんだ」 
 強く言い切ったシュッド。
 違う、違う。そんなわけがない。
 グライスは涙を浮き上がらせる。
 なぜシュッドを殺さなければ解決しないのだ?
 他にも方法があるはずなのに。
 グライスはいやだいやだと首を横に振る。
 シュッドはケーキを切り分けたナイフをつかみ、汚れを布巾でふきとる。
 そしてグライスのそばへときた。
 生クリームの油分がまだ残ったナイフは鈍く光っている。
 グライスは転げるようにイスから落ちる。
「さあ、グライス」
 シュッドはグライスのそばに膝をつき、無理やりその手にナイフを握らせた。
 ガクガクと激しく震える身体。
「一緒にあの男を殺すんだ」
 まるで悪い夢を見ているよう。
 シュッドがナイフを握ったグライスの手を自分のほうへと引き寄せる。
 刃先がシュッドの心臓のあたりへと近づく。
 動悸が、目眩が、手が、全身が、震える。
「―――――あ……あ…………ゃ……ヤダよ…シュッド」
 涙をこぼしながら、グライスはシュッドの手を振りほどく。
 ナイフを離す。
「ヤダよ。……シュッドを殺したくなんてないよ」 
 泣きながら言うグライスをじっと見つめるシュッド。
「ほか、に…ぜったいあるよ…。悪夢を終わらせる……ほうほうが…」
 必死に訴える。
 その目に浮かぶのは哀しみと、慈悲の光。
 シュッドは目を眇める。
「きっと…幸せになるほうほうがあるよ…。だから、だから」
 どこまでも純粋な子供の涙は、とても透明で、輝いて見える。
 シュッドはそっと息をついた。
「ああ」
 感嘆が、漏れる。
 シュッドは頬を緩めながら、グライスの頬に触れた。
「ああ、お前は……」
 そして次の瞬間、シュッドの眼差しが一転する。
 冷静で、冷ややかな眼差し。
「お前は、やっぱりダメなんだな」
 グライスの頬に手を置いたまま、抑揚無く言う。
「お前と俺は同じなのに、まったく違うんだな。
 お前は俺を殺してはくれない…か…」
 そうか、と口の中で呟く。
「シュ…」
「そうか、なら」
 柔らかな肌。
 細い首。
 そしてその首に食い込む指。
「……ッ」
 込められる力。
「………ぁっ」
 グライスは大きく目を見開いた。
 そしてシュッドはグライスの首を強く、絞めた。























 指が爪が皮膚に食い込んで、白い肌は赤くなってきている。
 床に倒れたグライスの身体にのしかかり、シュッドは手に力を込める。
 グライスの口からはうめき声。
 その目は大きく目を見開いて、信じられないものを見るようにシュッドを映している。
「お前が俺を殺してくれないんだったら、俺がお前を殺すしかないだろう?」 
 答えを求めていない問いかけをしながら、シュッドはギリギリと首を絞め続ける。
「…っ……ぁ…っ」
 グライスの小さな手が宙を彷徨う。
 苦しくて苦しくて仕方がなかった。
 空気を吸い込みたくても、それはシュッドによって阻まれている。
 なにをどうすればいいのか、どうすればシュッドを止めることができるのか。
 そんなことを考える余裕など、もうどこにもない。
 ただただ苦しいだけ。
 頭に血が昇って、グラグラする。
 指先が冷たくなっていくのが解る。
 涙が目の端に滲む。
 目がチカチカとしていく。
 意識が遠くなっていき、だが苦しさに現実に引き戻される。
「死んで、楽になるんだ―――」
 シュッドの声が、遠くで聞こえた。
「……ャ……」 
 


 イヤダ。
 


 死が目の前。
 目の前が真っ暗。
 


 イヤダ。

 

 グライスの手が床を這いずる。
 助けを求めるように。
 


 イヤダ。
 


 死にたくない―――――――。










 














 それは偶然か必然か。
 グライスの手に何かが触れた。
 とっさにそれをつかむ。
 残る力を振り絞って、ソレを、手を振りかざす。
 なにか嫌な感触が、した。
 なにか妙な手ごたえがあった。
 そして、次の瞬間、なにか生暖かいものが、グライスの顔に落ちてきた。
 グライスの首に巻きついた手から力が抜けていく。
 そしてグライスのものとは違う呻き声。
 シュッドの声。
 ビクンとしてグライスは再び入り込んできた酸素にむせ、激しく咳き込む。
 そして見た。
 ピッと、目に飛んできた液体。
 目の中に顔中に、髪に、生暖かい、鉄臭い液体が飛び散る。
 驚愕に目を見開く。
 シュッドもまた大きく目を開き、強ばった形相で呻きつづける。
「がぁッ……ッ……ぁぁぁあああああーーーーッッッ」
 シュッドの首にぱっくりと開いた傷。
 自分が振りかざしていたものがなにかをようやく知る。
「ぁああああーッッッッ」
 断末魔に思わず耳を塞ぐ。
 だが絶叫は隙間から隙間から頭の中へと入り込む。
 シュッドは吹き出す血を止めようとかきむしるように手を首に当てる。
 だがナイフによって綺麗に掻き切られた喉は、勢いを止めることなく血を吐き出す。
 グライスの上に血が、降り注ぐ。
 銀色の髪が、白い肌が、赤く濡れていく。
 シュッドの身体が崩れてゆく。
 その顔は苦痛に歪みながらも、どこか笑っているような気がした。
 床に崩れ落ちたシュッド。
 身体が大きく震える。
 そしてグライスを見つめたまま、光を失っていく瞳。
 ビクンビクン、と数度の痙攣をし、シュッドの身体は動かなくなった。


『今日……あっけなく死んだんだ』


『俺は自分自身を殴って、そして殺すんだ』


 叔父が、笑っている。

 銃で撃たれて倒れていたのは?
 銃を持って、笑っていたのは?

 ―――――虐待が始まった日から見続けた悪夢。

 だけども、いま、目の前に、床に血を流して倒れているのは?

 叔父。

 でも、叔父は笑っている。
 苦悶の表情で息絶えた叔父は、やはり笑っているのだ。
 気のせい?
 わからない。
 わからない。
 なぜ、死んでいるのは、自分じゃないんだろう。


 グライスは広がった血溜まりに触れる。
 生ぬるかった。
 シュッドに触れる。
 まだ暖かかった。




『――――シュッド…?』



 声は出ず、ぼんやりと頭の中で呼びかける。





 そして、数時間がたった。


























 グライスはふらりと立ち上がった。
 すでに冷たくなったシュッドの横を通り過ぎ、部屋を出て行く。
 マンションから出ると、そとは一面の銀世界になっていた。
 空は暗く、綿雪がまっている。
 グライスは雪を踏みしめながら、向かった。
 初めて行った、あの聖なる場所へ。教会へ。
 そしてしばらくして、たどり着いた。
 白い壮麗な建物。
 厳粛な面持ちをした、場所。
 神のいる場所。
 教会。
 グライスは虚ろに教会を見上げる。
 中からは賛美歌が聞こえてきていた。
 足がとても重く、動くことができない。
 扉まですぐ近くなのに、行くことができない。
 グライスはふらふらと教会の裏手にまわり、壁を背にして地面に座り込んだ。



 中に入りたい。
 だが入れない。



 壁越しに、賛美歌が、教会の温かさが伝わってくる。
 雪が、降り続く。




『いつでもここの扉は開いています』
 司祭の言葉が思い出される。
 だが、自分は中には入れない。
 自分はもう―――――。




 グライスの頬に暖かいものが滑り落ちる。
 透明な清らかな涙が、雪のしずくが、頬をすべる。
 だが顔中に飛び散った血を洗い流してはくれない。
 髪に全身に染み込んだ血を洗い流してはくれない。



 自分はもう―――――。



 大粒の涙がいくつもいくつも雪の中に落ちていった。
 どこまでも綺麗な賛美歌、その歌声。
 天上へ連れて行ってくれるかのような歌声を聴きながら、子供は泣き続ける。



 涙のわけなど、わからない。



 ただ、ただ。
 自分はもう――――この中には…神の家には入る資格はないのだ、と。
 それだけ、思った。











 雪が、降り続く。















03/6/3up