『sideA  nightmare-4』











『マーマ』
 誰かがそう言った。
 ぼんやりした頭の中で、その声を知っているような気がする。
 波のようにゆれるような感覚。
 ここはどこなのだろう、とグライスはようやく目を開けた。
 そこは真っ暗だった。
 足元もどこも暗くて、つま先からほのかな寒気が走る。
『マーマ』
 不安にグライスはそう呟いた。
 だが呟いて、疑問に思う。
 ママ。
 殺されたママ。
 ママを呼ぶ自分の声になぜか違和感を感じる。
 そして『グライス』は歩き出した。
 自分の意思ではない。
 自分の身体ではない。
 だが遠くにぼんやりと明るい場所が見えるほうへと歩いているのは確かに自分のはずだ。
 それでも歩く身体は自分であって自分でないような感じだった。
 やがて突然扉が現れる。
 ノブに手をかける。
 こんなに自分の手は小さかっただろうか、とグライスは思った。
 いまもまだ小さい手だがそれよりも一回りほど小さいような気がする。
 そしてドアノブに手をかけた感触。わずかに開いた隙間からこぼれる光。
 どこかで見た光景。
 怖い。
 だがグライスはドアを開け、部屋の中を覗く。
 光。
 クリーム色の壁。
 ベッド。
 そして母親。
『ママ』
 また誰かが言った。
 自分が言ったと認識している。だが自分は言っていない。
 自分ではない、『あの時』の自分が、言ったのだ。
 そう、あの時。

『―――――――?』

 ドン、耳障りな、大きな音が響く。
 心臓が激しく痛む。
 ふわりと母親の髪が宙に舞い、そして身体がベッドに沈む。
 見開かれた目。
 『あの時』と一緒。
 恐怖を映し出した目が、グライスを見ている。
 赤い液体が、意志をもったかのように、ベッドから這いずり落ち、グライスの足元へと侵食してくる。
 動けなかった。
『あの時』は逃げた。
 だけど今は動けない。
 怖い。
 知っているから動けない。
 知っているから逃げなければいけないのに。
 小さな踵を返す音がした。
 硬い音を立てて、やってくる足音。
 うつむいたグライスの目に近づいてくる足が映る。
 グライスの前で歩みは止まった。
 グライスはゆっくりと顔を上げた。


『――――――――』


 グライスの口がなにかを言った。
 そして、再度の銃声。
 激しい痛み。
 『あの時』と同じように倒れる自分の身体。
 『あの時』と違うのは自分が背を向けていなかったこと。
 だから、前から撃たれ、幼い身体は後ろに倒れた。
 足音が頭のところへとくる。
 母親と同じように見開かれたグライスの目。
 銃口が映る。そして銃を持った男が映る。


『―――――シュ…』


 叔父が笑っている。
 自分に銃口を向けて笑っている。
 そして、『あの時』はなかった3度目の銃声が響いた。








「―――――――」














 そして、ようやくグライスは夢から目覚めた。
 ドクドクと激しく脈打っているのが解る。
 全身が汗でべっとりしている。
 倒れた時のまま、ずっと同じ姿勢でいたから身体が固まってしまったかのように動かない。
 しばらくそのままの状態でグライスはぼんやりとした。
 床についたままの頬は、目が覚めたとともにじわじわと痛みを放ちだす。
 頭もすこしズキズキとした。
 部屋の中は真っ暗で、グライスの目はうつろに闇を映している。
 意識はじょじょにはっきりして、その目に涙が浮かび上がった。
 小さく震えだす小さな身体。
 ベッドまで這いずり、毛布を引きずり下ろす。
 きつくてベッドに上がることが出来なかった。
 グライスは毛布を身体に巻きつけると、ぎゅっと目をつぶった。
 震えは収まるどころか強くなるだけ。
 涙はいくつも毛布の中に染み込んでいった。
 なにもなかったのだ、そう思って眠りたい。
 それだけを願う。
 だが悪夢も届かない眠りに落ちるまでにはそうとうの時間がかかった。 
 朝日が昇る頃、ようやくグライスはそのまぶたを落としたのだった。



















 目覚めると陽はとうに頂上で輝いていた。
 前日の雨が嘘のような晴天だ。
 グライスは薄く目を開け、時計を見た。
 もう12時だった。
 グライスは毛布を身体に巻きつけたまま、ドアへと行く。
 そっと開け、リビングを覗く。
 シュッドがすでに出かけている時間であることはわかっていたが、確かめずにはいられなかった。
 しんとした部屋の中を見回して、グライスはリビングへと行った。
 当たり前のようにキッチンに行くと朝食の用意がしてあった。
 グライスは椅子に座り、食べようとした。
 だが口に入れると、とても痛かった。
 胸に鉛が詰め込まれたかのように重苦しく、飲み込めない。
 結局半分以上残して、洗面所へと行った。
 鏡の前にたち、グライスはそっと頬をなでた。
 ぷっくりと腫れ上がった頬。
 唇の端は切れて、血が凝固している。
 グライスは歯磨きをしようとした。
 顔を歪ませながら、腫れていない左のほうだけを静かに磨いた。
 水はやっぱりしみて、我慢しながら数回うがいをする。
 吐き出したなかに、血の塊が混じっている。
 歯は折れてないみたい、とぼんやりと思った。
 顔を洗い、部屋に戻った。
 ベッドにうつぶせになって、大きく息をはく。
 カーテンの隙間からは明るい陽射しが漏れている。
 開ければ、となりの庭にはシルたちがいるかもしれない。
 耳をすませば、微かに犬の鳴き声が聞こえるような気がした。
 だがカーテンを開ける気はなかった。
 開けたら、この頬のことを問われるだろう。
 心配をかけたくない。それに今はだれとも会いたくない気分だった。
 なにも考えたくない気分だった。
 グライスは眠るでもなく、ぼんやりとする。



 なんで、僕は殴られたのだろう。
 ただそう思った。



 だが時間がたつにつれ、やはり自分が悪かったのだろうか、とも思った。
 約束を破ったのは自分なのだし、それを口答えしたのはただの言い訳にすぎなかったのだろうか。
 それに、シュッドはこれまで自分に手を上げたことなど一度もなかったから。
 だから、やはり自分が悪かったのだろう。
 そうグライスは自分に言う。
 もう一度今日謝ろう。
 そうしたらまたもとに戻る。
 恐怖から、そう言い聞かせる。
 殴られた瞬間の衝撃はグライスに『あの日』の衝撃を甦らせた。
 幼い子供の一日は長く、だけれども早すぎて、記憶は遠い昔のような気がしていた。
 だが昨晩の出来事によって、まるできのうのことのように、目の前にある。
 それは夢にも顕著に表れたし、目をつむっても目の裏に『あの日』の母親の顔が、自分の身体から流れていく血の感覚が甦る。
 なにかもうもとには戻れないような気がした。
 きのうまで、自分が約束をたがえる前までには、もう戻れない。
 時間は流れるだけだから。
 その流れを遡って、運命を変えることなどできない、から。
 言いようのない不安が全身を包んでいた。
 だから信じるしかなかった。
 シュッドは、きっといつもどおりに接してくれると。
 傷が治れば、またシルたちと遊ぶことができる、と。


 慰めるように言い聞かせた。


 シュッドはその日、夜遅くまで帰ってこなかった。
 グライスはレトルトで夕食をすませた。
 シュッドを待っていようと思っていたが、結局シュッドを見ることがないまま眠りについてしまった。
 そして次の日、起きるとすでにシュッドの姿はなく、食事の用意だけがしてあった。
 それから3日ほど、シュッドに会う日がないまま、グライスは一人で時を過ごした。
 その間、あの夢は当たり前のように毎晩現れた。
 母が死に、自分が叔父に殺される夢を――――――。
 これから長い年月、グライスはこの夢を見ることとなる。


















 夜だった。
 シュッドに殴られてから5日目の夜、物音がして、グライスは目を覚ました。
 時計を見ると午前1時。
 まだ『あの夢』を見ていなかったから、穏やかな気分だった。
 グライスは目をこすりながら、ドアをそっと開けた。
 リビングのソファにシュッドの姿があった。
 見た瞬間、複雑な気持ちがうずまく。
 久しぶりに叔父を見た安心感と、あの瞬間を思い出した恐怖。
 長い間迷った後、グライスは意を決した。
 声をかけて、この前のことを謝ろうと。
 もう一度ちゃんと話そう、と。
 シュッドは自分を殴ったことを後悔して、ここ数日自分を避けているのかもしれない、と思ったから。
 グライスはゆっくりとリビングへ行った。
「…シュッド」
 小さく声をかけると、傍目にもわかるほどシュッドはビクッとした。
「あ、あの…おかえりなさい」
 シュッドは背を向けたまま。
「あの…この前のことなんだけど…」
 胸がドキドキする。
 声がわずかに震えているのが自分でもわかった。
「…シュッド…」
 そう呼びかけて、謝ろう、と思った。
 シュッドがふらり立ち上がった。
 静かにグライスのそばへとやってきた。
 見下ろすシュッド。
 グライスはシュッドを見上げ、言葉を失う。
 暗く淀んだ瞳。
 グライスを見つめるその目が、冷え冷えとした陰鬱なものを感じさせる。
 たった5日。
 それだけの時間で、叔父シュッドは別人のようにグライスには映った。
 以前までも冷たい感じはあった。
 だけれども、いま目の前にいるシュッドはなにかが違う。
 わずか頬がこけたような気もする。
 青白い顔色は、病人のようでもあった。
 シュッドは膝をつき、そっと手を伸ばした。
 自分に向かってくるその手に、グライスは身を強張らせる。
 それは本能的、無意識に身体が反応したもの。
 殴られたときの衝撃を思い出し動悸が激しくなる。
 シュッドの手はそっとグライスの頬に触れた。
 少しは引いたが、まだ腫れ上がり、青あざになっている頬を長い指がすべる。
「なんで…こんな」
 うわ言のようにシュッドが呟いた。
 その言葉に、グライスはやはりシュッドも後悔しているのだ、と思う。
 だがシュッドを見つめ、深まるのは恐怖。
 光をなくしていく目は、なぜか恐ろしいものでも見るかのように、グライスを映している。
「……シュッド……?」
 恐る恐る声をかける。
 シュッドはグライスを凝視し、そして、
「うぁぁぁ!!!」
 絶叫を上げた。
 恐怖が支配する。
 グライスは腰をぬかして、床に座り込んだ。
 もうすべては変わってしまったのだ、そう誰かが言ったような気がした。
 目を見開き見上げるグライスの首もとが強くつかまれる。
 幼い身体は軽々と宙に持ち上げられる。
 グライスとシュッドの目が合わさる。
「消えろ」
 そうシュッドは呟いた。
 何に対して言ったのか。
 自分に向かって言われたのか、グライスはわからなかった。
 ただ身体はつぎにくる衝撃を予感して、強張った。
 そして次の瞬間、グライスは床にたたきつけられ、シュッドに何度も何度も踏みつけられた。
 なにかを打ち砕こうと必死になっているようなシュッドの姿を見ながら、グライスは目を閉じる。
 こうして悪夢に囚われたもう一人の男は、夢中で暴力を加えつづけた。







 きっかけなどささいなこと。
 それですべては変わってしまう。
 それぞれの悪夢に囚われたグライスとシュッドの生活は、この日を境に、暗闇の中へと転落していった。
 以降約2年ほど、新たな虐待という要素が、生活の一部となった。












03/4/19up