『sideB  perfect garden-2』





「なんで下ろしてあげないの?」
 そうシアリスが言ったのは2歳半になったころだった。
 いつものように礼拝へと赴き、そしていつものようにキリスト像を見上げていた。
 そうしてようやくその日、言ったのだ。
 神父は、オリビアは突然の質問になんのことかわからずシアリスを見た。
「どうして?」
 成長するにつれ青い瞳はいっそう深く、だが鮮やかになっていっている。
 赤ん坊のころはふっくらとしていた頬もすっきりとして幼いながらも美しい面立ちとなってきていた。
「シアリス、どうしたの?」
 オリビアは傍らに屈みこんだ。
 にっこりと笑いかけると、シアリスは目をしばたたかせる。
「いたそう」
 そう言って十字架のキリストを見上げる。
 その横顔は真剣で、ひどく心配そうだ。
「どうしてあの人はあんなふうにされているの?」
 ブロンズで作られたキリスト像はシアリスよりふた回りほど小さいくらいのもの。
 十字架に釘をもってして張り付けられ、うなだれた様は知らぬ者にしてみれば、それは不思議なものだろう。
「いたくないの?」
 真っ直ぐな眼差しにオリビアは微笑む。
「あの方はねイエス様とおっしゃるのよ」
「イエスさま………」
 呟いて再び視線を向ける。
「イエス様は神様の子であり、私たちの救い主なのよ」
 きょとんとするシアリス。
 オリビアはどうにかわかりやすく教えることはできないかと考えをめぐらせる。
「そして私たちのために、あのように、いらっしゃるの」
 十字架に釘を打たれ、人となりて人の罪を背負うために。
「私たちに救いを赦しをくださっているの」
 救い、そう言っても、真にその言葉をシアリスが理解できるはずもない。
 シアリスは首をかしげる。
 母親の言う言葉と、それがどうして十字架から下ろしてあげられないのかが、わからない。
 神父が傍らへ来て、オリビアに助け舟を出すようにシアリスに話しかけた。
「パパとママのことが好きかい、シアリス」
 小首を傾げて、そして大きく頷く。
 神父はシアリスと同じ視線まで身を屈める。
「パパやママが笑っているのと泣いているのはどっちがいいかい」
 シアリスはオリビアに視線を向け、「笑ってるほうがいい」と言った。
 神父はにっこり笑い、シアリスの頭をなでる。
「シアリスがパパやママに笑ってほしいと思う。そしてシアリスが笑わせてあげる」
 シアリスは熱心に聞き入る。
 必死で理解しようとしている様子に、神父は目を細める。
「それはシアリスのためでもあるけれど、パパやママのためでもあることだろう?」
 幸せでいてほしい、そう誰かのために生きること。
 それが大切なのだよ。
 そう神父は続けた。
「イエス様は自らの身をもってそれを実行しているんだよ。シアリスやシアリスのママが幸せでいられるように、神様の御許へ行けるようにと――――――」
 ゆっくりと告げられた言葉。
 シアリスはすべての言葉を吸収するように黙りこむ。
「シアリス」
 その肩を抱き寄せ、オリビアが微笑みかける。
「今日から一緒に勉強しましょう。ママが少しづつ聖書を読んであげるわ」
 シアリスはパッと顔を輝かせ、大きく頷く。
「ゆっくり理解していけばいいのよ」
 誰に教えられるでもなく自ら興味を示した我が子に、オリビアは嬉しそうに笑んだ。
 シアリスもまた花がほころぶように笑った。















「イエス様はぼくたちのために十字架にかけられたんだね」

 その声には理知的なものが感じられた。
 まだあどけなく幼い顔には、だが知性が溢れている。
 聖書を読み始めて2年近くが過ぎていた。
 オリビアは読み聞かせたとしても理解はまだ難しいだろうと思っていた。
 最初はたしかに質問だらけだった。
 1節で何度も質問がなげかけられる。幾度も問いかけられ、教え、そして何度も読み返す。
 驚くほどの熱心さでシアリスは聖書を読んでいた。
 そして数ヶ月たったころには理解を深めていっていた。
 もちろん聖書だけでなく、ほかの勉強に関してもその非凡さは現れていた。
 5歳を迎えるころにはすでに読み書きは完璧で、10歳の子供の勉強までもこなしていた。
 成長するにつれはっきりとした美しさを現していく外見。
「イエス様はぼくたちのために十字架にかけられ、ぼくたちの罪を背負ってくださった。だからぼくたちは神の御許へ行くことができる」
 笑顔はとても愛らしく見るものを魅了する。
 あの、教会で質問を投げかけたとき教えたことを、シアリスは自分のものとしていた。
「ぼくがぼくのために生きるように、他人のために生きなくてはならないんだね」
 教えを吸収し、まっすぐな瞳で言う言葉には不思議な力がある。
 接する家庭教師やメイドたちはときにシアリスが5歳であることを忘れることもしばしばあった。
 誰もがシアリスに驚き、感嘆し、そして愛した。
 










「やぁシアリス。今日も聖書を読んでいるのかい?」
 突然かかった声に驚いて顔を上げる。
 シアリスと同じ深い青の瞳をした男性が大きなリボンのかかった包みを抱えてたっていた。
「お父さん!」
 顔を輝かせ、イスから落ちるように降りて父アセルニーのもとへ駆け寄る。
 アセルニーは包みを床に置き、両手を広げて息子を迎える。
「元気にしてたかい?」
 ハイラット家当主という地位にいながら、その表情はとても優しく穏やかな雰囲気をしていた。
 シアリスはぎゅっとアセルニーに抱きつき、微笑む。
「うん。とっても元気だよ」
 笑顔はどこにでもいる普通の子供のように幼さを感じさせる。
 日頃忙しく世界中を飛び回っているアセルニーと会えるのは月に1週間あるかないかだ。
「お父さんは? もうお仕事終わったの?」
「ああ、ちょっと予定より早く片付いてね。シアリスに会いたくて飛んで帰ってきたよ」
 くしゃっと銀色の髪を撫でながら言うと、シアリスは嬉しそうにさらに抱きつく。
「まぁまぁ」
 そんな親子のよこで笑い声が響いた。
「二人とも感動の再会シーンだわね」
 見上げるとクスクスとオリビアが笑っている。
 アセルニーはぎゅっとシアリスを抱きしめて見せる。
「そりゃあそうだよ。私とシアリスは尊い愛で結ばれているからね」
 シアリスの頬に頬擦りする。
「まぁ私はどうなるのかしら?」
 軽く頬を膨らませるオリビア。
 わざとらしい仕草だが、シアリスは慌てたようにオリビアを見つめる。
「お母さんも大好きだよ」
 真剣そのものの口調に、夫婦は顔を見合わせて微笑んだ。
 アセルニーは身を離すと傍らにおいていた包みをシアリスに渡した。
 両手でようやく抱えられるぐらいの、シアリスほどの大きさがある包み。
「お土産だよ」
 開けてごらん、アセルニーはシアリスの頭をなでた。
 シアリスはぱっと顔を輝かせ、包みに巻かれた青いリボンを解く。
 箱を開けるとなかにはクリスタルで作られたチェスが入っていた。
 それを横から覗き見たオリビアが苦笑をもらす。
「あなたったら、もうちょっとぬいぐるみとかプラモデルとかなかったの?」
 そう言うとアセルニーは笑いながらシアリスのそばにひざをつく。
「違うよ、シアリスのリクエストだったんだよ」
 シアリスを見ると、大きく顔を輝かせて頷く。
「ぼくがパパに頼んだの。パパと時間あるときにするの」
 時間があるときにちょっとづつ、コマを一つ動かすだけでもいい。
 あまり一緒に遊ぶことがないから、少しでも同じことをしていたい。
「そうそう。チェスっていうのは頭の運動にもいいからね。僕らは親睦を深めつつ、勉強していくわけさ」
 シアリスの肩を抱いて、意気揚々といった表情でアセルニーが言った。
 オリビアは明るい笑い声をもらす。
「もう、本当に仲がいいわね、二人とも」
 シアリスとアセルニーは顔を見合わせ、大きく頷く。
 楽しい空気が部屋中を包む。
 シアリスはチェスを取り出し、盤面にコマを一つ一つ並べはじめた。
 その傍らに座っているアセルニーが笑いながら軽くため息をつく。
「それにしても、プレゼント選びというのは本当に疲れるね」
 苦笑まじりの言葉にオリビアが、
「アールの子供たちのプレゼント?」
と聞き返した。
「そう。まぁ今回は二人分だったんだけどね。ほかの子供たちにもちょっとお土産を選んでたら、疲れたよ。最近のおもちゃはいろいろ種類が豊富だね」
「お義母さんも、この前シアリスへおもちゃを買ってあげようとして、すごく悩んだって言ってたわ」
 クスクスと笑うオリビアに、そうなんだよ、と大きく頷くアセルニー。
 と、ふと二人は視線を感じた。
 見るとシアリスがじっと見上げている。
「どうしたの?」
 オリビアが声をかけると、シアリスは首をかしげて尋ねた。
「こどもたちって誰?」
 ああ、とアセルニーは微笑する。
「孤児院は知っているだろう? シアリス」
 こくんとシアリスは頷いた。
 両親を亡くした子供たちが保護され、生活している場所。
 そうシアリスは認識していた。
 実際いったことはなく、知識としてのみ。
「今度、第5地区にあるアール孤児院に視察に行くんだ。視察と行っても気軽なものなんだよ。今月誕生日を迎える子供たちの誕生日会があって、招かれたんだ」
 仕事が忙しい中でも、アセルニーは合間を見つけては施設へ足を運んでいた。
「シアリスも一緒に行かないかい? とてもいい子達ばかりだよ」
 さまざまな子供たちがいることをシアリスにも知ってほしい、と前々から思っていたのだ。
 早いうちから外を見させ、いろいろと感じてほしい。
 それはアセルニーの提案でオリビアからもリシューからも賛同を受けていた。
 まだ幼いからこそ、素直に現状を受け入れ自然と打ち解けることができるであろうから。
「行っていいの?」
「もちろんだよ。きっと友達になれると思うよ」
 シアリスは嬉々とした表情で頷いた。
 心の中は早くもまだ見ぬ子供たちのことで占められる。
 どんな子達がいるんだろうか。
 そうワクワクと心が弾んだ。




 きっと友達になれるよ。


 そう父親の言った言葉。
 だが、まだ世界を知らないシアリスにとって、それが容易いことでないことをシアリスはまだ知らなかった。
 







04/6/21