−1 the end.











 寒い、夜だった。
 今にも雪が降りそうな夜。
 口から漏れる息は真白にその姿を暗闇に現す。
 男は、その白い息を消すために、ぐっと唇を噛み締め、闇に潜んでいた。
 銀色の前髪から覗く、深い青の瞳は注意深く周囲をうかがっている。
 その頬は、身体は逃げ回ったせいで汚れている。
 胸を押さえ、口を開けば普通よりも激しくなるだろう呼吸を我慢しているその表情は、緊張に強ばり、そして苦痛に歪んでいた。
 胸を押さえた指のしたでは、衣服を赤い血が、じわじわと侵略している。



 誰が、捕まってたまるか――――――。



 男は心の中で、呟く。
 額にいくつも浮かぶ冷や汗を腕でこすりつけるようにぬぐう。



 遠くで足音が、響く。
 夜の静かな街の一角。
 街灯と月明かりに照らされている建物に、黒い影がわずかに揺らめいて見えた。
 男はぐっと身を縮め、息を殺す。
 複数の男たちの声が、近づいて来ていた。
 男はそっと後ろのポケットの拳銃に触れた。
 複数の声は、男を捜している。
 その手に握られている拳銃は、確実に自分を殺すためのものであることを知っている。
 男は苛立つように、さらに唇を噛んだ。
 口の中で微かに鉄臭い味が広がる。



 いつもだったら、あんな奴ら、すでに殺しているのに。



 窮地に立たされた男。
 だがその目には敵に対する殺意と自分を信じる強い光が宿っている。
 男は傷口を押さえたまま、静かに立ち上がった。
 拳銃を抜き取る。弾を込める。
 もう片方のポケットから、ナイフを取り出す。
 その滑らかな刃に、キラリと月光と、男の顔が映った。
 男を捜す声が足音が、間近まできていた。
 男は氷よりも冷たい眼差しで通りのほうに目を向けると、息を止め、そして闇に消えた。


























 彼はふと、空を見上げた。
 車窓ごし、しかも夜だからはっきりと見えたわけではない。
 だが彼は雪が降ってきたように思えたのだ。
「すいません。すこし車を止めていただけませんか」
 運転手よりも1回りも若いというのに、落ち着いた穏やかな、そして優しい声で彼は言った。
 誰もが彼の声を言葉を、その表情に、敬意を払う。
 運転手はわずかに眉を寄せて、助手席に座るスーツに身を固めた男を見た。
「このあたりはあまり治安のよくない地区です。お車を降りられるのは危険かと思われますが…」
 彼のボディーガードである男はそう言った。
 彼はその言葉に頷きならがも、街灯のさらに上に広がる夜空に目を奪われる。
 だが、自分の身が案じてられているから、彼は微笑を浮かべ言った。
「わかりました。雪が降ってきたように思われたのですが、帰ってからゆっくりと見ることにしましょう」
 ボディーガードが頷き、運転手はほっとしたように、アクセルを踏んだ。




 その時、銃声が轟いた。




 運転手はビクッとして車を止める。
 ボディーガードは鋭い視線を外に向ける。
 彼もまた闇の中へと目を向けた。





「車を止めるな」
 ボディーガードが言った。
 運転手は慌てて車を発進させる。
 だが数メートル走っただけで、また車は止まった。
 再度の銃声。
 そして人影が、車の前に現れた。
 ボディーガードは素早く拳銃を取り出すと、「私が出たらすぐロックをしろ」と運転手に告げ、車から降りた。
 彼は心配げに、ボディーガードを見た。
 ボディーガードは現れた男と、何かを話しているようだ。
 お互いになにかを提示して確認している。そしてそしてボディーガードがドアを開けるよう支持し、現れた男が車のドアを開けた。
 彼は相変わらずの穏やかな眼差しで、その男を見た。
 男は彼と目があった途端に、恐縮し、敬礼をする。
「お帰りの最中に申し訳ありません。私は国際警察のものです。この付近に、凶悪犯が逃げ込んでいるため、捜査をしております」
「そうですか。身にお気をつけて下さい」
 はい、とさらに恐縮しながら刑事は車から離れた。入れ替わりにボディーガードが車に乗り込む。
 刑事は敬礼をし、車は動き出した。
 車が動き出すと、刑事はその場を走り出した。
 彼は、絶たない犯罪と、流れる血の多さに心を痛め、主に祈る。



 そして、再び、今度は血を伴う銃声が響いた。



 後方からいくつ物叫び声が上がる。
 彼は目を閉じて、そっと息をつく。
 首に下げたロザリオを握り締め、彼は言った。
「車を、止めてください」

































 気配を消し、近づく。
 そして、拳銃を持ちあたりを伺っている刑事の一人の口を塞ぐ。
 刑事が反応するより早く、男はその心臓にナイフを付きたてた。
 大きくその身体が痙攣する。
 男はナイフを引き抜くと同時に、素早く身を離す。
 血しぶきが、夜闇に暗く、飛び散った。



 そうやって男は3人の刑事を殺していった。
 いつものように。
 ためらいなく。



 だが、終焉はやってきた。


 今日はついていなかった、というだけのことなのか。
 男は銃声の中でそう思った。
 自分の血が、やけにはっきりと体内から外へと流れ出るのがわかる。
 最初に胸の近くを撃たれたときから、いつもと何かが違うことを感じていた。
 流れ続ける血による貧血。
 立ちくらみは一瞬だった。だがその一瞬の隙が、どんな事態をまねくかわからない、ということを男は知っていた。
 そして一度たりとも、いままでそんな隙を与えたことなどなかったとも思っている。
 だから、今日はツイてないのだ。
 その一瞬に、背後を取られ、男の胸を2つ目の銃弾が貫通した。
 銃声にいくつもの足音が集まってくる。
 男は思わず身を崩しながらも、己を撃った刑事にナイフを放つ。
 ナイフは刑事の首に突き刺さり、その身体は後ろにと倒れていった。
 だが、また次の瞬間、激しい痛みが走りぬける。
 何度目かわからない銃声。
 肩と、足を打ちぬかれ、男はたまらず地面に崩れ落ちた。
 男のもとに走りよる足音。
 倒れた男を見て、刑事たちは緊張しながらもその顔に薄笑いを浮かべた。
「とうとうやったか」
 そう言って、刑事の一人が足で男を蹴った。
 男はいまだ消えない強い光を宿した眼差しで刑事を睨む。
 刑事はわずかに顔を強ばらせる。
 圧倒的に不利な状況にある男の目、それだけで背筋がぞっとするのは男のこれまでの所業を知っているからか。
 刑事は恐怖を振り払うように、男に銃を向け、引き金をひいた。
 いや引きかけた、だ。
 それよりも早く引き金を引いた男の銃弾によって、刑事は倒れる。
 それを見て、慌てて他の刑事たちは次々に男の身体に銃弾を撃ち込んだ。
 大きく痙攣する男の身体。
 いたるところから赤い液体がドロドロと溢れ出す。



 ―――――――――。



 そして、男の瞳から、すべての光が、消えた。
































 雪は激しく吹雪きだした。
 あっという間にアスファルトは白く埋もれていく。
「―――――様」
 困惑した声で彼に声をかけたのは運転手だった。
 ボディーガードはただ黙って彼に従う。
 そして拳銃を手にしている刑事たちは、自分たちのほうへやってくる彼に萎縮し、血に染まった己の手を恥じるようにうつむいている。
 彼は、静かに男の前にやってきた。
 もうすでに息絶えた男の傍らに、膝をつく。
「…この男は……何十人も殺しているんです…」
 刑事の一人が言い訳のように、小さく呟いた。
 彼は薄く開いたままの男のまぶたをそっと閉じる。
 そして自分の首に下げていたロザリオを外すと、男の手の中へと、握らせた。


 ―――この者に、安らかな眠りが訪れますよう。主のお導きがあらんことを…。


 その場にいるすべての者は彼の祈りの姿に、黙り、そして男の死を悼んだ。


















 男と彼は、この『時』において、交わることなく、終わった。









2003/1/25/sat.