『4』














『拓弥、愛してる』

『私のこと、愛してる?』

『……なんで…、―――――るの?』

女は、悲しそうな声で、言った。

『由加里、愛してるよ』

『愛してるから。だから―――――』

『殺してあげるよ』

 男は、悲しそうな声で言った。













***
















 相原由加里が、最近取り壊しが決定された5階建てのビルから飛び降りたのは、8月下旬といってもまだまだ蒸し暑い、夏の夜だった。
 発見者は、ビルのすぐ横に出ていた屋台の客と、店主。
 ドスン、という大きな音に、酔っていた客が好奇心に、廃墟ビルの下へ行った。
 そして、その客は酔いを一気に冷まし、震えながら、店主の下へと戻ったのだった。
 10分後、救急車が着いたとき、心音は、まだあった。
 だが、救急隊員たちの誰一人として、彼女が助かるだろうとは思わなかった。
 そしてその通り、相原由加里は1時間後、静かに息を引き取った。






 相原家に連絡が入ったのは、深夜2時半。
 相原由加里が病院に運ばれ、30分ほど経った頃だった。
 最期を看取らせようと配慮した医師が、現場検証をしていた警察と連絡を取り、連絡先を聞き、相原家に電話が入ったのだ。
『相原さんのお宅ですか?』
『…はい…』
『あの、娘さん? お父さんか、お母さんはいないの?』
『…………いません』
『そうですか…。あの、こちら藤代総合病院といいますが…』
『病院?』
 怪訝な少女の声が、響く。
 そして少女は、1分も経たないうちに、真っ青な表情で、国際電話をかけることとなる。








 相原香奈は一人だった。
 両親は海外である。
 大急ぎで帰ってきても1日はかかってしまう。
 だから、一人だった。
 病院に到着したときも。
 安置室に入ったときも。
 白い、相原由加里の顔にかぶさった、布を取る瞬間も。
 そして、床に崩れ落ち、泣いた、瞬間も。
 病院も警察もこの可哀想な少女に、なにも言ってあげることが出来なかった。
 警察は、両親が帰ってきたら、連絡をくれるようにと言い、香奈を家へ送った。
 転落死した、とだけ聞かされていた香奈は、家の前についたとき、送ってくれた警官に尋ねた。
『転落死って…どこから…なんですか』
 警官は、もう一人の警官と顔を見合わせる。
 香奈は、まだ若い少女に告げるのがはばかられると思慮している警官に、言う。
『転落って…ビルからですか…。誰か、ほかにいたんですか?』
 警官は、言葉を選びながら、ようやく重い口を開く。
『いや。だれもいなかったよ。君のお姉さんは一人だったんだ』
 香奈は、そうですか、と言い、お礼を告げると家へと入っていった。
 自分の部屋へと戻り、灯りを付ける。
 その灯りを確認して警察の車は走り出した。
 香奈は、車が去っていく音を、ベッドの上に仰向けになって、聞いていた。
 深夜で、なんの音もしないほど、静寂に包まれていた。
 香奈の瞳からは、相変わらず涙が流れ続けていたが、嗚咽は漏れていなかった。
 香奈は、ゆっくりと涙で濡れた頬を、横に向けた。
 扉のほうを見る。
 そこには、誰もいない。
 家には、誰もいない。
 だが。
 香奈は、扉のところに、由加里が立っているような気がした。
『香奈ちゃん』
と、いつもの優しい笑顔で。
『香奈ちゃん』
 由加里が、いるような気が、した。
 香奈は重い身体をゆっくりと起き上がらせる。
 のろのろと立ち上がると、部屋を出た。
 そして由加里の部屋へと入る。
 パチン、電気をつける。
 暖かな電気の光が、主を失った部屋を照らした。
 香奈は涙をぬぐい、部屋の中を見回した。
 壁際の、パソコンを置いている机に、近づく。
 香奈はイスに腰を下ろし、ぼんやりとしていた。
 明かりはついていたが、闇の中にいるような感じだった。
 静かで、なんにもない空間に漂っているような、感覚。
『君のお姉さんは』
 何も見ようとしない、映さない瞳が、わずかに動いた。
『一人だったんだ』
 大きく、瞳が動く。
 そして香奈は、机の引き出しを開けていった。
 3段ある引き出しの中を見終わって、今度はクローゼットを開けた。
 洋服。バッグ。収納ケース。小さな箱。
 3つ重ねてある小さな箱を香奈は取り出した。
 赤いボックスを開ける。
 そして閉める。
 薄い緑のボックスを開ける。
 香奈は赤とピンクの小箱をクローゼットに片付け、薄緑の小箱を持って、自分の部屋へと戻った。
 そして、その中に入ってあるものを、とりだした。
 日記。
 薬らしき錠剤の入った、小さな小瓶。
 折りたたみ式のナイフ。
 香奈は、日記を読み出した。










***













6月12日
 ずっと寝てないと言ったら、友達が知り合いから睡眠薬をもらってきてくれた。
 あんまり飲んじゃだめだよ、って念をおされた。
 なるべく頼らないようにしたいとは思ってる…。


6月29日
 傷が…痛い。
 Nは私のことを愛しているという。
 でも…
 わからない
 なぜ急に怒り出すのか…


7月3日
 また、友達に頼んで睡眠薬をもらった…。
 身体中がだるい…。
 もう…疲れた…。
 別れ…ようと…思う。


7月11日
 携帯のメモリーも消した。
 もう会わない。


7月29日
 ずっと…電話が鳴る。
 着歴を消去しても、そのたびに、メールが電話が入る。
 それに…ずっと見張られているような、気がする。


8月17日
 会った。
 一ヶ月ぶりだろうか…。
 会って…、まだ自分自身、忘れられない気持ちがあることに気づいた…。
 でも、戻れない。
 でも、怖い。
 Nは…私を……『殺す』と…言った。



 日記は8月17日を最後に、終わっていた。
 そして、8月26日、相原由加里は死んだ。