『2』
いつも、雨が降っているような気がする。
あの日も、雨が降っていた。
記憶に残るのはすべて、雨。
それは香奈の時間があの日から止まっているせいかもしれない。
あの日、香奈の姉・由加里が死んだあの日。
香奈の人生は変わってしまった。
香奈は薄暗い部屋の中で、母親のタンスから印鑑を取り出すと、書類に判を押した。
その書類は有沢予備校に入るためのものだった。
母親にはすでに許可は取っているので、後は出すだけだ。
来年は受験だから、と言った香奈を母親はとても喜んでいた。両親も娘を亡くした傷はまだ癒えていない。
だからこそ香奈が前向きなことを決めたことを喜んだのだ。
受験。
そんなものはただの名目でしかない。あの有沢予備校に通うための。
夏木に近づくための。
姉を殺した、あの男に近づくための……。
香奈は記入漏れがないかをチェックして、それをカバンに入れた。
そして、なんの味も感じない朝食を無為に食べ、学校へと向かった。
「西野くん」
そう声がかかったのはバス停のところだった。
誰の声かを知っているから、拓弥は無表情に振り向いた。
「西野くん、今日予備校でしょ? 私も一緒にいっていい? 入校届けを出しに行くの」
小走りに拓弥のもとへ駆け寄って、香奈はにっこりと笑った。
拓弥はちらり横目で香奈を見る。
だがなにも言わなかった。
香奈は拓哉の態度を気にも留めず、横に並ぶ。
「西野くんって、前から頭いいって思ってたけど、あの夏木先生に教わってたからなの?」
香奈は小首をかしげて、楽しそうに笑いながら言う。
「私も勉強そろそろ真面目にしなきゃいけないなぁって思って。もうすぐ受験だし、予備校に行かなきゃなーって」
「………ふーん…」
香奈にとって拓哉の存在は、夏木と自分とを近づかせるもの。だから拓弥の態度が悪かろうが、嫌われているかもしれなかろうが、香奈には関係ない。
バスが来た。
二人は乗り込み。同じ席に座った。
姉が生きている頃なら、香奈が男子の隣に座るなんてことはまずなかった。
「相原って…」
窓の外を見ている拓弥が、香奈のほうを見ずに呟く。
「うん?」
「そんなにお喋りだったっけ」
皮肉にも取れる一言。
だが香奈は笑顔で答える。
「うーん。そんなにはお喋りではなかったかも。でも…」
香奈はどこを見るともなく、だが一点に視線を止める。
数秒の間に、拓弥は横目で香奈を見た。
「でもお姉ちゃんが死んじゃって…いろいろ考えて…。意識革命みたいなのが起こったみたいな」
訳わからないよね、と香奈は微笑む。
拓弥はその目に、悲しそうな色を浮かべる。そしてそれを隠すように、顔を背けた。
「……あんまり…無理はするなよ…」
同級生の優しい言葉。
香奈は『笑顔』で、頷いた。
有沢予備校で拓弥と別れて、香奈は受付に入校のための書類をだすと、そのロビーのソファーに腰を下ろした。
携帯電話を出して、意味無く適当に触る。
そしてさりげなく、あたりを見回す。
受付。そしてその横に講師室。奥には教室があって、かすかに生徒たちの声が聞こえていた。
あの男は、まだ講師室にいるのだろうか。
いや、まだ来てないだろうか。
いま、大学から、ここへ向かっているのだろうか。
今日は、会えないのだろうか。
そう、じっと出入り口を見つめる。
10分ほどその場にいたが、生徒たちの出入りが多くなってきたので予備校を後にした。
「あれ、相原さん?」
だから声がかかったとき、香奈は自分の心に刻み込んだこの声に胸が震えた。
「夏木先生」
笑顔で振り向く。
階段を上りかけていた夏木はきびすを返して香奈の元に駆け寄った。
「もしかして、入校手続きをしにきたのかな?」
「はい」
香奈の顔に自然に笑みが浮かんだ。
それは作り物ではなかった。
今日は会えないと思っていた夏木に会えたこと。夏木が自分の名前を覚えていて、声をかけてきたこと。
そのすべてが、神が、自分の背を押しているような気がして、香奈は嬉しくて笑顔を浮かべたのだ。
「今週の金曜日から通うことになりました。よろしくお願いします」
ぺこりとお辞儀をする香奈に、夏木は照れくさそうに微笑む。
「こちらこそ、よろしく」
二人は視線を合わせ、笑った。
香奈は腕時計に目を落とし、
「夏木先生はいまから授業なんですか?」
軽く首を振って、頭をかく夏木。
「いや。まだなんだけど、ちょっとヒマで早く来たんだ」
「そうなんですか。だったら…」
祈りを込めて。
「お茶でもしませんか?」
誘いを断らないように。
「この前、送ってもらったお礼に」
とっておきの笑顔を浮かべて、香奈は言った。
***
相原家に警察から電話があったのは、深夜2時半ごろだった。
いつもなら、由加里は帰りが遅くなるとき必ず電話をかけてくる。だがその日はなかった。
だから香奈は心配していたのだ。
最近ずっと、様子のおかしい姉のことを。
だけどいい加減に眠くて香奈は午前1時ごろベッドに入った。
まさか一時間半後にかかってくる電話によって、もう深く眠ることなどないということも知らずに。
***
「キャラメルマキアート、好きなんだよね」
夏木はもともと甘い中に、さらにシロップをかけていた。
「甘党なんですか?」
夏木の前に座っている香奈は砂糖を一つ入れただけのコーヒーを飲んでいる。
「男らしくないよなーとは思うんだけど」
照れ笑いを浮かべる夏木に、そんなことないですよ、と香奈は首を振る。
「夏木先生、無理に誘ったみたいでごめんなさい。こんなところ予備校の人に見られちゃまずいですね」
「あ、う〜ん。そうだねー。まあ、いいんじゃないかな? まだ相原さんは通ってないし。それに高校教師とその生徒とかだったら、かなりまずいだろうけど」
「それは、まずいですね」
言って、二人は笑う。
ほのぼのとした空気に、香奈との会話に夏木は不思議なほど心地よさを感じていた。
(なんかこの子、知ってる気がするんだよな…。誰かに似てる? …のかな…)
そんなことを考えている夏木に、香奈が首を傾げて口を開く。
「あ、それに先生の彼女に見られたりしても、まずいですよね」
その言葉に、夏木は一瞬ポカンとして、そして笑った。
「いないよ。彼女なんて」
「本当ですか?」
「うん」
「別れたばかりとか?」
「いやー、もうかれこれ一年ぐらい……」
言いかけて、夏木は苦笑いを浮かべた。
香奈を見ると、さっきまでとは打って変わった暗い表情をしている。
「……相原さん…?」
「…え…、あ、あの夏木先生ってもてそうなのにな、って思って」
笑顔を浮かべた香奈に、夏木はさらに苦笑した。
「ぜんぜんデス」
答えながら、ふと夏木は香奈が自分を誘ったのは恋愛相談かなにかじゃないのだろうか、ということを考えた。
(例えば…、拓弥のこととか?)
もしそうだったら…、と思うと知らず笑みが浮かんだ。
その時、店の外で大きな音がした。
見ると、バイクが横転していた。
「どうしたんだ?」
「車にぶつかりそうになったみたいです」
夏木は横転したバイクを凝視する。
幸い、たいしたことはなさそうで、バイクから転げ落ちた男は、車の運転手と少し話すと、すぐにバイクに乗って走っていった。
「バイクって…危ないですよね」
香奈は眉を寄せ、呟いた。そして夏木を見ると、まだ外を見ていた。
「夏木先生?」
「あ、ああ。危ないよ、バイクは」
気持ちを落ち着かせるように、キャラメルマキアートを飲むと、ほっと息をつく。
「俺も昔、バイクで事故ったことがあるから…」
夏木はさり気なく、微かに震える手をテーブルの下に隠す。
「そうなんですか…。私の知り合いもバイク事故にあった人が…」
沈黙になりかけて、夏木が明るい声で香奈に、
「相原さんは、彼氏はいるの?」
「…い、いないです」
「うちの予備校に通うのには実は秘密があったりして」
冗談だった。だが、香奈の顔が一瞬強ばる。必死に笑おうとする香奈。
夏木はそんな香奈の様子を見て、ついさっき浮かんだ考えに、聞いてみた。
「もしかして…拓弥がいるから、とか」
香奈が目を点にして、夏木を見つめた。
数秒、沈黙。
香奈は、顔を伏せ、何か考えているようだった。
(いきなりこんなこと聞いちゃ、だめだったなー…)
「………」
「あの…相原さん、ごめんね…。俺ってお喋りで…。わけのわからないこと…」
「夏木先生」
顔を上げた香奈は、何かを決めたような表情をしていた。
そして微笑んだ。
「…私…吉野くんのこと…」
恥ずかしそうに、視線をそらす香奈。
そして、小さな声で、言った。
「夏木先生…、まだ知り合ったばかりなのにこんなこと言うのはあれなんですけど…、西野くんとすごく仲がいいから…。だから…」
夏木は初々しい香奈の態度に、頬を緩めて、そして大げさに胸を叩いて見せた。
「協力してあげるよ」
俺にまかせなさい、と。
香奈は、思わず見惚れるような笑みをこぼした。
夏木は数秒、逡巡し、ぽんと手を叩く。
「相原さん。土曜ってヒマ?」
「はい…?」
夏木は楽しそうな表情で腕組して香奈を見る。
「土曜に、うちに遊びにこないかい?」
「え?」
夏木の家へ行く。
それは香奈の最重要な目的の一つ。
それがいま安々と叶いそうになっている。
「それで、そこに拓弥も呼んで。三人で遊ぶ。どうかな?」
「でも…西野くん、いやがるんじゃ…」
「だーいじょうぶ。俺に任せといて」
安心させるように夏木は微笑んだ。
香奈は少し考えるふりをして、そして「お願いします」と言ったのだった。
***
―――――近づいて。
―――――心の中に入り込んで。
そして―――――――。
殺してやる。
***
「さようなら」
拓弥が見ると、香奈が笑顔で言った。
「…あ、ああ」
香奈にはすでに友だちができたらしく、友達と談笑しながら教室を出て行った。
香奈が有沢予備校に入って1日目、何事もなく授業は終わった。
予備校へも、香奈は拓弥と一緒に行くこともなく、拓弥は内心ほっとしていた。
荷物をまとめて教室を出ると、今度は夏木から声がかかった。
「拓弥」
夏木は講師室のドアから顔をのぞかせ、手招きした。
「なに」
「おまえ、明日ヒマ?」
「明日…。ああ、ヒマだけど」
「じゃあ、久しぶり、俺んちに遊び来ないか?」
「うちに来れば?」
「いやー面白いゲームがあってさ。拓弥のとこじゃ、そうそうゲームばっかり出来ないだろ」
「別にいいけど」
「じゃあ、あした昼ごろ」
「わかった。じゃあ…」
と、夏木はニヤニヤと拓弥を見ている。
「なんだよ」
気持ち悪いな、と拓弥は眉を寄せる。
「おまえ、明日は土曜だってのにデートとかしないの?」
拓弥は、このおっさんは急に何を言い出すんだ、という表情をして首を振る。
「心配してもらわなくても、彼女いないからいいです」
「あっそ。じゃ、明日なー」
言うだけ言うと、夏木はさっさとドアを閉めてしまった。
「なんなんだ。いったい…」
妙な感覚を受けながら、拓弥は呟いた。
***
いつからだったろう。
今年の1月ぐらい。正月が過ぎた頃だったろうか。姉の由加里がうきうきとした様子を見せたのは。
『お姉ちゃん、デート?』
と冗談半分に言った香奈に由加里は少女のような微笑を浮かべ、小さな声で『そう』と答えたのだ。
あのときは、本当にびっくりした。
由加里は大学1年のときに、恋人を事故で亡くしていた。それからもう3年近くたつが、その間、誰とも付き合わなかったからだ。
香奈は姉の幸せそうな表情を見て、自分のことのように嬉しくなった。
『今度、紹介してね』
香奈の言葉に由加里は満面の笑みで答えた。
だが、香奈が姉の幸せそうな笑顔を見ることができたのはほんの2週間ぐらいのことだったと思う。
それまでの姉・由加里は海外赴任している両親のかわりとして、いろいろなことに気を使っていた。
8時までには帰ってきて、香奈と一緒に夕食をとる。週末など、遊びに出かけたり、夜遅くなるときは、必ず電話を入れた。それでも由加里が夜12時を過ぎるまで遊んでくることは無かった。
大学生の姉に、香奈は『夜遅くても平気だよ。遊んできていいよ』というが、由加里は頷くだけで、実際行動には移さない。
とても責任感が強くて、優しい姉。
そんな由加里のことが香奈は大好きだった。
だが由加里が新しい『恋人』と付き合いだしてから、その生活が乱れ始めた。
8時までに帰ってこないことが多くなった。
しかしそれは彼氏が出来たのだから、特別香奈は気にしなかった。
ただ日が経つにつれ由加里の表情から笑顔が消え、暗くなっていく。
彼氏とうまくいってないのかな?、と香奈は心配したが、聞きづらくて、香奈は何も言えずにいた。
そしてあれは2月の半ばだったと思う。
あの雨の降っていた日。
玄関の開く音に目を覚ました香奈が下に下りていくと、由加里はお風呂に入っているようだった。
香奈はコーヒーを入れてあげようと、キッチンでお湯を沸かしはじめた。
外から雨音が静かに響いてきて、姉が今日傘を持って出ていないことに気づく。
濡れて帰ってきて、だからすぐお風呂に入っているのかもしれない。
そう思って香奈は、リビングにたたんでおいた姉の洗濯物から着替えを取って、バスルームへと向かった。
香奈は着替えを置いた。
強いシャワーの音に混じって、なにか、聞こえたような気がした。
香奈はふと耳を澄ませ、顔を強ばらせる。
それは姉の泣き声だった。
香奈はその場に立ち尽くす。動くことが出来なかった。
だが、シャワーを止める音が響いて、慌てて香奈は廊下に出た。ドアを静かに閉める。
その隙間から、バスルームから出る姉の姿が、目に映った。
その肌が、背中が、バスタオルに包まれる寸前、姉の背中に無数の痣を見つける。
香奈は震える手で、音がしないよう気をつけながら、ドアを閉めた。
そして、キッチンへ行き、火を止める。
気持ちを落ち着けるように、コーヒーを淹れる。
砂糖を二つ。
クリームもいれて、かき混ぜる。
カチャカチャ、とティースプーンがカップに激しく当たる。
少しして、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
香奈は大きく深呼吸をする。
「…香奈ちゃん?」
びくっと、肩を震わせ、一呼吸おいて、香奈は振り返る。
「コーヒーいれたの」
笑顔を作る。
だが頬が痙攣するのを押さえきれず、すぐに背を向ける。
そしてコップをテーブルへ持っていく。
「起こしちゃったのね。ごめんね」
いつもの優しい笑顔を向ける由加里に、香奈は自然な態度を心がけながら、首を振る。
「いいよー。まだ1時半だし。まだ寝始めたときだったから」
「そう。……ありがとう」
由加里は暖かいコーヒーを一口飲んで、言った。
「うん。じゃあ、お姉ちゃん、寝るね」
「おやすみ、香奈ちゃん」
「おやすみなさい」
笑ってリビングを出て、香奈は走りそうになるのを必死で我慢する。
部屋にもどると、ベッドにもぐりこんだ。
そして、朝まで震え続けていた。
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