10






 いままで散々な修羅場に遭遇したことはあった。
 だがこのような異様で奇怪な場面は生まれて初めてだ。
 ジェルヴェはただひたすらに呆然としていたが、バールベリトの言葉にハッと我に返った。
「ちょ、ちょっと待て!」
 引き攣った声で制すると、アデールとバールベリトが視線を向けてくる。
 立会人までいる仰々しさ。このままではヤバイ、とジェルヴェは焦って言葉を続ける。
「俺は、ぎし………」
 不思議そうな面持ちをしたアデールが目に入る。
 儀式の破棄を伝える場合、アデールよりも立会人に告げたほうがいいような気がし、ジェルヴェはバールベリトに視線を留めた。
 瞬間、目が合う。
 どこもかしこも暗いというのに、その小男の目に光などまったくないのに、眼があった途端に、ジェルヴェは射すくめられたように言葉を詰まらせた。
「どうかなされましたか、ジェルヴェ殿」
 なんの感情もみえないバールベリトの声。
 ジェルヴェは言おうと口を開きつつも、なぜか言いよどんだ。
 なにか、イヤな予感がした。
 それは本能的なもの。なにかが頭の中で引っかかっている。
『早く、言うんだ。ジェルヴェ』
 黙りこむジェルヴェの頭に響くアルテュールの声。
「儀式に当事者以外の口出しは禁じられています……」
 ジェルヴェが『わかっている』というよりも先にバールベリトが言った。
 それは部屋の空気をわずかでも震わせるもの。
 頭の中でなく、直接その場に響いたものだ。
「バールベリト様?」
 アデールにとっては突然バールベリトが喋りだしたようなものだから、彼女は怪訝そうにしている。
 ジェルヴェは目を見開いて、バールベリトを凝視し、そしてアルテュールを振り返った。
 殺気はなく、ただ苦渋の表情を滲ませたアルテュール。
 ジェルヴェと視線をあわせることなく、アルテュールは顔を背けた。
「なにか私に御用でしょうか、ジェルヴェ殿」
 バールベリトが問う。
 いやに大人しくなったアルテュールを気にしつつ、ジェルヴェはバールベリトに向き直った。
「あ、ああ。あのな……。すまないアデール、少し待っててくれ」
 困惑したようなアデールの様子に気づき、とりあえずは優しく声をかけておく。
 そしてそそくさとバールべリトのそばに歩み寄った。
「ちょっといいか」
 小声で言うと、バールベリトはジェルヴェを見上げ、音もなく部屋の隅へと移動する。
 床を這っていた蔦は、バールベリトを避けるように退く。
 ジェルヴェもその後を追い、半身ほどしかないバールべリトへと身をかがめ囁く。
「あのな、この儀式のことなのだが……。そのもともとが手違いでだな……」
 歯切れ悪くジェルヴェは言葉を選びつつ言った。
 どうしても"儀式を破棄する"とは言えなかったのだ。
「だからだな……。この儀式は、その」
「ジェルヴェ殿」
 暗い声が遮る。凛としたものなどないのに、なにか有無を言わせないものがある。
「私から、貴殿に儀式のことで申し上げることがあるとすれば……」
「あ、ああ?」
「貴殿にはすでに"誓いの証"が出ております。もしもこの儀式が取りやめになった場合、貴殿には"死"が訪れます」
 さらりと告げられた言葉に、ジェルヴェは生返事をした。
(……訪れる?)
 ゆっくりと咀嚼するように、バールベリトの言葉を頭の中で繰り返す。
「死が?」
「左様にございます」
「死?」
「貴殿の心臓も、その意識も止まり、その肉体は呼吸をなくし、あとは醜く朽ちるのみ……、ということでございます」
 そう言ったバールベリトが薄ら笑いを浮かべているような気がしたのは気のせいだろうか。
 ジェルヴェはようやくその意味を理解し、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「ア、アルテュール!!」
 上擦った声で叫ぶ。
『誓いは破棄する、と言えばお前はアデールから解放される』
 そう、アルテュールは言ったのだ。
 確かに解放はされるかもしれない。だが死んでしまえば元も子もないではないか。
 頭に一気に血が逆流してくる。掴みかからんばかりの勢いでジェルヴェはアルテュールを振り向くも、相変わらずの無表情で「何か?」と返事があるのみ。
 だが微かにその短い言葉の中に苛立ちと殺気を感じ、ジェルヴェは舌打ちをして地団駄を踏んだ。
「先ほどから、どうなさいましたの? アルお兄様、ジェルヴェ様」
 不安そうにアデールが顔を曇らせている。
「何も気にすることないよ、アデール」
 妹に対しては恐ろしく優しいアルテュールの声色。
『気にすること大有りだー!』
 アルテュールに向かって頭の中で叫んだ。
 だが返事が返ってくることはなく、バールベリトの声が静かに響く。
「それで、いかがなさいますか……」
「なにがだ!?」
 怒り任せに振り向くも、バールベリトを目にして動きを止める。
 う、と言葉を詰まらせ、右を見て、左を見る。
 目の前には妖しすぎる人間では明らかにない立会人。後ろには変態兄吸血鬼、左には愛らしい美少女だが吸血鬼。
 逃げ場はない。
 ううう、と呻く。
「……ジェルヴェ殿」
「……ジェルヴェ様?」
 バールベリトの低いのに、やはりどこか薄ら笑いを浮かべているような声と、アデールのどうしたのだろうかと不安そうな声、そして背中に突き刺さるアルテュールの視線が、ジェルヴェを急かす。
 ううううう、と再度呻き、数秒――――。
「儀式を始めるぞ!!!」
 悩むことに嫌気がさしたジェルヴェは、やけくそに叫んだ。
 ドン、と瞬間バールベリトが杖をつく。
「さて、今度こそ本当に始めるといたしましょう」
 そうして、血の儀式は再開されることとなった。






***








 しん、と静まり返った室内。
 厳か、なような雰囲気。
 ジェルヴェにとっては、おどろおどろしい雰囲気。
 だがとりあえずジェルヴェは神妙な顔を作り、アデールの前に跪いていた。
 それはまるで騎士が姫君に忠誠を誓うような光景だった。
 愛らしく頬を薔薇色に染めたアデールは祈るように手を組み合わせ、ジェルヴェを見つめている。
 アルテュールは壁際で相変わらずの無表情で儀式を見守っている。
 そして、立会人バールベリトが儀式を取り仕切っていた。
「アデール嬢、誓いを……」
 促されるように、アデールが一歩跪くジェルヴェの前へ進む。
「彼の者の名とともに"認める"と、誓ってください」
 バールベリトの言葉に、ジェルヴェは内心ため息をついた。
 早く終われ、そう思うジェルヴェの頭上で、アデールの幾分緊張した声が響く。
「私は―――ジェルヴェ様を……」
 半ばで言葉は途切れた。
 だが数秒の間を置き、喜びに溢れた声で、
「認めます」
 と誓った。
 瞬間、はっきりわかるほどに、部屋が蠢く。
 胎動というふうな不気味な蠢きにジェルヴェは思わず顔を引き攣らせる。
「それでは、アデール嬢、貴女の血をジェルヴェ殿へ……。
 ジェルヴェ殿、顔をあげて下さい―――」
 言われるままにジェルヴェが顔をあげると、バールベリトがアデールに細身の短剣を渡していた。
 月の光を宿したような刀身。
 柄には、なにか家紋のようなものがはいっているようだったが、ジェルヴェにははっきりと見えなかった。
 アデールが緊張した面持ちになり、静かな光をこぼす刃先を、左腕へと持っていった。
 しん、とただでさえ静かな部屋の中が沈黙に包まれる。
 音無く、刃先が柔らかで白いアデールの腕に食い込む。
 すっ―――、とアデールは短剣を引いた。
 湧き出るように、一滴赤い血が盛り上がる。
 吸血鬼なのに赤い血をしているのか、とジェルヴェはそれを見て思った。
 アデールの顔色に変化は無かったが、短剣はジェルヴェの予想よりも深く白い腕を切っているようだった。
 血は、いく滴も湧き上がり、そしてアデールの腕を流れていく。
 同じ線を描き、手首の方へ、指先へと流れていく。
 アデールがおもむろにジェルヴェへとその手を差し出した。
「……ジェルヴェ様、血を」
 わずかに震えたアデールの声。
 痛みがあるのか、緊張からなのか、ジェルヴェにはわかる由もない。
 ただ、ジェルヴェは胸の内で大きなため息をつき、アデールの手をとった。
 血を飲む。
 それが吸血鬼のものだから、という以前に人間の血であろうが抵抗を感じずにはいられない。
 だが飲まなければ、命はない。
 ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ちくしょう。親父の言うことを聞いて女遊びなどほどほどにしておけばよかった。
 というか、あの公爵夫人のダンナに現場を押さえられたのがまずかったな。
 見つからなければ、まだ都で遊んでいただろうに。
 ああ、最悪だ。
 と、アデールの指先に口づけるように顔を寄せながら、ジェルヴェはまぶたを閉じ走馬灯のように都での日々を思い出した。

 ふ―――、と甘い香りがした。
 
 その微かな匂いに現実に引き戻されたとき、唇が濡れた。
 ジェルヴェの口の中に、アデールの血が流れ込む。
 口内に広がる甘さ。
 それは恐ろしく甘美な味で、逆に驚きジェルヴェは身を強張らせた。
 ごくごく飲むほどではない、血の量。
 舌の上にたまった血を、ゆっくりとジェルヴェは飲み込んだ。
 チリ、と小さな焼けるような熱さを、不意にジェルヴェは感じた。
 目を開けると、アデールの指先が離れていくところだった。
 バールベリトが真っ白なハンカチを渡している。それで切った箇所を押さえているアデールを見ながら、ジェルヴェは立ち上がろうとした。
 儀式は、終わったのだから。
 だがジェルヴェが立ち上がることは、できなかった。
「………ッ?」
 ふらり、と揺れ、床に倒れた自分の身体に、ジェルヴェは眉を寄せた。
『ジェルヴェ様!?』
 驚いたようなアデールの声が遥か遠くで聞こる。そばにいるはずなのに。
 ジェルヴェはなにか言おうと口を開きかけ、そして………。
「ッ! ウ……、ウアアアアー!!!!」
 身体を折って、絶叫を上げた。
 突然全身を襲った痛み。
 それはこれまでにない激痛だった。
 全身の血が、うごめいているような感覚。なにかが皮膚の下を這いずっているかのような不快感。
 ミシミシと骨が軋む音が身体に響いている。
 頭から足の先まで焼かれているような熱さと痺れ。
「グアアッ!!」
 身体を仰け反らせ、息を詰める。
 全身を駆け巡るような熱と刺すような痛みが急速に中心に集まってくるのを感じる。
 ドクドクと激しく脈打つ心臓に、すべてが集まってくるのを感じる。
 次の瞬間、ひときわ激しい痛みがジェルヴェを襲った。
 胸を刺し抜かれ、心臓を刃で抉られているような、耐え難い痛み。
「――――ガ……ッ」
 そして―――、心臓を握りつぶされるような、なにか生々しい感触を覚えたと同時に、ジェルヴェは意識を手放した。
 パタリ、と力なくジェルヴェの腕が床に落ちる。


「これにて、儀式は完了いたしました」


 バールベリトの声が、ジェルヴェに届くことはなかった。






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2007 ,2,2