La Maison de Dieu








 ふと、空を見上げて見た。
 抜けるような青空と心地よい風。
 数羽の鳥が旋回し、南のほうへと飛んで行く。
 アルデリートは鮮やかな碧色の瞳をわずかに揺らし、美しい空と対比するようにある薄暗い空気を漂わせる塔に視線を止めた。
 アルデリートの住む館から広い庭と高い塀を越えた向こう塔はある。
 さまざまな意匠をこらした館の造りとは異なり、塔は簡素で冷たい景観をしている。
 だがその塔もまた、この館と同じ"城内″にあるものなのだ。
「アルデリート様」
 侍女のユーリスが控えめに、だが促すように声をかけた。
 アルデリートはユーリスを一瞥し、金色の髪を大きく翻し歩き出した。







 この館に、あの塔のことを語るものは、近づくものは―――――――いない。





















































「あら、シアン。お久しぶりね」
 馴染みある顔を、老人の横に見て、アルデリートは顔をほころばせた。
 シアンと呼ばれた10代半ばぐらいの少年は起立し、頭を垂れる。
「お久しぶりです、アルデリート様」
 懇意にしている公爵家グルーリスの3兄弟の末っ子シアン。
 小さいころはよく遊んだりもしていたが、最近はあまり見ることもなかった。
 とくにアルデリートは外交という社交の場に出向かなければいかないことが多く、多忙を極めている。
 それはこの国トーアの皇女なのだからしかたのないことなのだが。
「神学を学んでいるとは聞いていたけど、ロイについたのね」
 そう、つと老人に視線を向ける。
 60代半ば、厳格な雰囲気を漂わす老人はアルデリートに神学を教える高僧。
 今日もまた授業のため、アルデリートの自室へと来ているのだ。
「ええ。尊敬するロイ先生のおそばにつけるなど、本当にいまでも夢のようです」
 人懐こい笑顔は、見ているほうも和やかにする。
 アルデリートは唇に手をあて、笑みをこぼす。
 上位の公爵家に生まれ、兄たち、そして皆にたくさんの愛情をかけられ育ってきたことが見受けられる少年がアルデリートは良くも悪くも好きだった。
 かわいらしい弟のようだ。
「それにしても、ロイが私のところまでシアンを連れてくるなんて、お気に入りなのね?」
 からかうような口調に、僧ロイは口元を緩める。
「グルーリス公に厳しく躾けるようにと仰せつかりまして…」
「躾け? まぁグルーリス様ったら」
 明るい笑い声が部屋に響く。
 シアンはばつが悪そうに、やや顔を伏せていた。
「でもロイのそばにいつもいるなら、とても勉強になるでしょう」
「はい。1日1日、目が覚めるようなことばかり。1ヶ月前の自分が嘘のように思えます」
 大げさな物言い。
 だがあどけなさの中に垣間見える自信と熱意に、たしかに成長が見れた。
「そうね、すこし顔つきも精悍になったみたい」
「あ、ありがとうございます」
 照れつつ頭を下げるシアン。
 楽しい空気が部屋中に広がっている。
 今日は授業にならないかもしれないと思われたが、しばらくしてロイの厳粛かつ気を引き締めるような咳払いとともに、勉強は始まった。
 楽しかった談話は、やがて熱を帯びる神学への論争に発展し、そしてあっという間に時間はたっていった。
「今日はとても楽しかったわ」
 終了の時となり、アルデリートはシアンに微笑みかけた。
「はい、僕もアルデリート様とたくさん話ができ、とても勉強になりました」
 ロイは苦笑し弟子を見やりながら、腰を上げた。
「それではそろそろ」
「ええ。では来週また」
 アルデリートも見送りに立つ。
「シアン、来週もまた一緒かしら?」
 背に声をかけると、ええ、と笑顔で振り返る。
「いまの僕はロイ様について、さまざまなことを見聞きするのが勉強ですから」
 そう、と頷き、ふとアルデリートは視線を揺らした。
 なにかに気づいたように、笑みを消す。
「明日も、一緒なの」
 シアンは一瞬きょとんとした。
「ええ。明日は―――――」
 いいかけて、ハッとしたように口をつぐむ。
 わずかにアルデリートの顔色が変わった。
 ほんの微かな無表情が占めるが、しばしして笑顔を作る。
「あの塔へ行くのね」
 ロイが顔を上げ、横目にシアンを見る。
 シアンは笑みを消し、難しい表情で頷いた。
 "塔″へ―――――。
「はい、僕のようなものが行っていいものだろうかと思うのですが。神の教えを説くのが僕の役目ですし」
 まだ見習い。だが、その目はまっすぐに将来を見据えている。
「いってらっしゃい」
 アルデリートはしばしシアンを見つめ、そして言った。
 にこやかな笑顔を向ける。
 部屋をあとにする二人。
 それを見送って、部屋のドアが閉まった瞬間。
 浮かんでいた笑みは消える。
 醒めた眼差しが窓に向く。
「そう―――――シアンがあの"塔″へ」
 抑揚のない呟きが、ぽつりこぼれた。





























 屋敷のなかにはいくつもの中庭がある。
 たくさんの金をかけ、集められた花々。
 敷地内にある聖堂のそばにも庭があり、そこには温室と噴水があった。
 射し込む陽光。
 光をうけ、輝く水しぶきの中、噴水のところにシアンが一人佇んでいた。
 表情は暗く、なにか考えているようにじっと地面を見つめている。
 アルデリートは足を止めた。
 遠目にシアンを眺める。
 ややして静かにそばに歩み寄る。
「ごきげんよう。シアン?」
 はっと我に返り、夢から覚めたように顔を上げるシアン。
 一瞬日差しのまぶしさに目を細め、逆光の中に立つアルデリートに目を留める。
「アルデリート様」
 さっと立ち上がり、頭を下げる。
 先日会ったときとは明らかに顔つきが違う。
 苦渋を漂わすシアンにアルデリートは笑顔を浮かべたまま、小首をかしげた。
「どうしたの? そんなに暗い顔をして」
 気遣うような言葉。
 だがその眼差しは観察するようなもの。
 それに気づかず、シアンは瞳を揺らしうつむいた。
 なにかを言おうと、だが躊躇いに口をつぐむ。
 しばし眺め、アルデリートは静かに声をかける。
 促すように。
「シアン…? なにかあったの?」
「………いえ…」
「そんな顔をして、なにもないこともないでしょう? 心配になるわ、幼馴染として」
 幼馴染、その言葉に気が緩まる。
 周りを気にするように辺りを一瞥し、シアンはアルデリートを見つめた。
 そして重く、そっと口を開く。
「……あの塔にいる"少女”のことを考えていたのです」
 声はわずかに震えていた。
 伺うような視線に、アルデリートは表情もかえず、なにも言わない。
 沈黙が流れる。
 アルデリートは目を細め、優しく声をかける。
「塔の少女のことを?」
 相槌に、助けを得たように言葉が続く。
「ええ……。"禁忌″であることは知っているのですが………」
 塔に住む少女。
 決して口に出してはいけない、存在。
「昨日、会ったのだったわね」
 その少女を見たことがあるのは極一部の者のみ。
 身の回りの世話をする侍女と塔に入ることが許されている庭師。
 そして勉強を教える僧―――ロイ。
「はい……」
 噂には聞いていた。
 ひっそりと、禁忌のことでも、噂は風に流れ、人々の耳に入る。
 母親を殺し、塔に幽閉された"少女″がいるということを。
「あの少女に会うまで、僕は……理解していなかったのだと、気づいたのです」
 少女の姿を思い出すように目を眇める。
「幽閉された少女が実在し、生きているのだと、知っていたのに、どこか信じていなかったから」
 戦乱が続いた国を統治した英雄。
 民に慕われ、類まれなる才を持つ国王。
 その国王が幽閉した少女。
 シアンは手で顔を覆い、重くため息をつく。
「王が……ご自分の"ご息女″を幽閉されたなど、信じられなかったのです」
 アルデリートの妹であり、王の娘。
「――――――噂はただの噂だと、思っている者もいるものね、この宮殿にも」
 そう、信じないものもいる。
 王が、自分の娘を、幽閉するなどありえないと。
 王の最愛の王妃は"少女″を出産するために命を落とした。
 最愛の王妃を"少女″が殺したと、母殺しの罪に問い、その身を、まだ産まれたばかりであった赤ん坊を塔に幽閉したなどと。
 にわかには信じられない噂。
 だが、真実。
「昨日、お会いして……。僕は………愕然としました」
 シアンは真剣な眼差しでアルデリートを見上げる。
「アルデリート様は…お会いしたことがありますか?」
「いいえ」
「…………まるで"人形″のようでした」
 アルデリートの表情は動かない。
 ただシアンを眺めているだけ。
「感情などなにもない。なにを喋りかけても、相槌だけ、なにもないのです」
 仕方のないことだろう。
 生まれてきてほんの数人の者としかかかわったことがないのだから。
 そして僧以外は話しかけることさえ禁じられている。
 たった一人の少女との出会いはシアンを深い苦悩の中に突き落としている。
「なぜ……こんなことが…。王はなぜ…………」
 呟きを最後に、シアンは顔を伏せ沈黙した。
 アルデリートはちらり後方を見る。
 控えていたユーリスを呼び、小声で命じる。
 ユーリスが身をひるがえし、館の中へと消えていくのを見、シアンへと視線を戻した。
「――――それでシアン。あなたはどうしたいのです」
 塔に幽閉された少女を哀れみ、王の所業に疑問を抱き、そしてなにを想う。
 アルデリートは真っ直ぐな眼差しで見据えた。
 一瞬困惑したように、だがすぐにシアンの顔に浮かぶのは純粋な信念。
 高僧ロイを師と仰ぎ、平安を求める少年が導くには容易い答え。
「―――――僕は……助けてあげたいのです」
 重く、呟かれた言葉。
 瞬間、アルデリートの口元に微笑が浮かんだ。
「僕に出来る限りのことをしてあげたい。あの少女はなにも知らない。だから、たくさんのことを教えてあげたいのです」
 不透明だった想いは、はっきりとした決意へと変貌してゆく。
「どんなにこの世界が素晴らしいか、生きていることの喜び、さまざまな希望を―――」
 決意は熱を帯び、シアンの瞳を輝かせた。
 まるで道が開けたように頬を緩める。
 だがアルデリートの視線を感じ、ある思いが過ぎった。
 なぜ、姉であるアルデリートはこの事態をずっと放置していたのだろう、と。
「………アルデリート様は…」
 そう口を開きかけたとき、ユーリスともう一人の侍女が籠のようなものを抱え、やってきた。
 よく見るとそれは鳥籠だった。
 木で作られた鳥籠。
 アルデリートの部屋にあったものだと気づく。
 その中には七色の羽をもつという小さな鳥が入っている。
 アルデリートは鳥籠のそばへ行き、そこから小鳥を指にのせて出す。
 細い指にお行儀よく足を揃えのっている小鳥はチチチ……と小さなさえずりを漏らした。
 シアンはきょとんとしてその光景を見ていた。
 小鳥に優しく微笑みかけ、アルデリートはシアンを振り向く。
「シアン。あなたのその想いに――――――」
 そう言い、小鳥の乗った指を空に向け、大きく伸ばす。
 振動で、飛び立つ小鳥。
 陽光の中、輝きながら空へと羽ばたく小鳥。
「あなたがあの少女を救いたいという想いに、私もあの鳥を自由にしてあげることにします」
 空へ、自分の本来いる場所へ、戻してあげましょう。
 そうアルデリートは微笑んだ。
 シアンはわずかに目をしばたたかせ、そして顔を綻ばせた。
 アルデリートもまた、自分とおなじ想いを、決意をしたのだと、そう思った。
 いままでただなすすべがなかったのだろうと。
 だが自分とともに、塔のあの少女に幸福を――――と決意したのだ、と。
 顔を輝かせるシアンに
「それでは、シアン。申し訳ないけど用があるから私はこれで失礼するわね」
「あ、はい」
 少しの笑みを残し、アルデリートはその場を去った。
 いつまでも自分の背を見つめているであろうシアンの眼差しを感じながら、後ろを歩くユーリスへ声をかける。
「鳥籠をバルコニーに出しておいて。籠の入り口は開けたままね……」
 そう言いながら浮かぶのは冷たく、どこか皮肉気な笑みだった。











 トーア。
 それがこの国の名。
 ドリード・ファンディール。
 それがこの国の王の名。
 長く続いた回廊の先、重い扉を開いた先には、一際広く最上の品でそろえられた部屋がある。
 深い赤の絨毯で床は埋め尽くされ、その上には金で縁取られた濃い青のビロードのソファー。
 テーブルも、ティーカップも金で縁取られているが、派手すぎず上品なデザインをしている。
 優雅。
 この部屋で、このソファーでくつろぎ、飲む紅茶が一番好き。
 すべて自分の目で選び、この部屋をデザインした女性がそう言っていた。
 女性がいなくなった今は、その伴侶がこの部屋で紅茶を飲んでいる。
 いや、女性はいまだ、いる。
 部屋の壁に大きく掲げられた肖像画。
 麗しい美貌をした貴婦人は、ここにいるのだ。
 アリアーヌ・ファンディール。
 国王の妻。
 亡き王妃。
「失礼します」
 そう声をかけ、入ってまず目に入る王妃の肖像。
 この部屋を、いや王の心を支配する女性。
 王ドリードはもっとも親しくしている公爵とその婦人と楽しげに談話していた。
 厳しく、だが慈悲深く、民に圧倒的な支持を得ている国王。
 アルデリートは深くお辞儀をし、王の手招きをうけ、その隣に腰を下ろす。
 週に一度、この部屋で行われる小さなお茶会。
 王妃を知る友人と、愛しい娘と、愛する妻の肖像に囲まれ、王は日々の喧騒をわすれ一時を過ごすのだ。
 まるでなんの曇りもないよう。
 まるでなんの間違いもないよう。
 楽しい笑い声が響く。
 様々な話題に触れ、そして最後は王妃の思い出話に行き着く。
 まるでなんの曇りもない。
 まるでなんの間違いもない。
 同じ敷地内に、あの"塔″があるのに、なんの罪もないように、この部屋はあるのだ。
 過去に囚われ、過去を生かし。
 未来を行くべき、今を生きる少女を幽閉し。



 なんの間違いもないように、亡き王妃は君臨している。
























 巡礼の中に、一人入れて欲しい者がいるのです。







 3年の年月をかけ道を行き、さまざまな人々に信仰を与え、さまざまな人々のため救いの手を差し伸べる。
 トーア国の伝統である巡礼隊。
 高名な僧から、まだ若い見習いまで、30人ほどの神殿関係者が巡礼に赴くのだ。
 ほんの数日後にその巡礼隊が出発することになっていた。

『急で申し訳ないけど、一人巡礼に加えて欲しいのです』

 ロイはトーア国の皇女である少女の申し出を、黙って聞き届けた。















 普通の速度で、だがどうしようもない気の逸りが、いまにも走り出しそうにさせる。
 顔は強張り、眼差しは厳しい。
 あどけなさのかけらもなく、シアンは廊下を突き進む。
 やがて正面に見えてきた扉にさらに表情を引き締める。
 扉の前にたち、深呼吸をしノックをする。
 侍女が扉を開けた。
「アルデリート様にお取次ぎを――――」
 険しい表情のシアンに侍女は驚き、困惑する。
 と、横からユーリスが出てきた。
 シアンを一瞥し、落ち着いた口調で促す。
「どうぞ、お入りください」
 あっさりとした案内に一瞬気がそがれるも、開かれた部屋へと足を踏み入れた。





 チチチ―――――――。





 さえずりが聞こえた。
 なにか違和感を覚えつつ、部屋の中を見渡す。
 風に真っ白なレースのカーテンが揺れ、バルコニーからアルデリートが現れた。
「あら、シアン。ごきげんよう。今日はどうしたの?」
 穏やかな笑みが向けられる。
 反してシアンは叫びそうになるのを必死で押さえ、低い声で言った。
「―――――――巡礼に、行くことになりました」
 苦々しく吐かれた言葉に、一層アルデリートは微笑を大きくする。
「まぁ、シアン! おめでとう。巡礼は大変でしょうけど、とても名誉で素晴らしいことよ」
「なぜです」
 白々しい賛辞を遮るように鋭い視線で見つめる。
 不思議そうに首をかしげるアルデリート。
「なぜ? なにがかしら」
「僕は巡礼に行くはずではなかったのです。それが突然……。今朝、突然告げられたのです」
 師ロイのもとへ行くと、彼は神妙な顔をしていた。
 そして、報告したのだ。
 巡礼隊に加えられた、と。
 それは打診でもなんでもなく、決定。
 巡礼へ行ってくるのだという命令。
「出発まで、あと2日しかないというのに」
「慌しいでしょうけど、でも巡礼に行くのは楽しみでしょう?」
 あくまで笑顔。
 その笑みが、なぜか今日はひどく空々しく見えた。
 社交の場で訓練された、儀礼的な笑み。
 ただの作り物だと、そう見えた。
 いや、気づいた。
「それはっ! 僕だっていずれは巡礼に赴きたいと思ってはいました! ですが!!」
 シアンは唇をかみ締める。
「なぜ、今なんです。なぜ、それを―――――貴女が決めるのです」
 先日、話したばかりだったのに。
 塔の少女の力になりたいと。
 そう話し、そして賛同を得たはず。
 それなのに、なぜ?
 揺るぐことのなく見据えるシアンの眼差しの中、アルデリートは唇をわずかにゆがめた。
「シアン、あなたはもっと多くの人々を見たほうがいいと思ったからです」
 微笑みつつ、だが言葉には微かな冷たさが宿る。
「あなたはまだ幼い。世間を知らない。だから、あなたに勉強をしてもらいたくて巡礼の列に加えたのです」
 カッと頬が赤く染まる。
「確かに僕は未熟ものですが―――。ですが、昨日、話したではないですか!
 あの"少女゛の力になりたい、と」
 声を荒げる。
「それなのに、なぜ。巡礼に出たら3年戻れない。それまであの"少女"をまた一人きりにさせておくのですか!」
 ため息をつき、一瞬目を伏せ、アルデリートは冷たい眼差しでシアンを見つめる。
「心配ではないのですか! 貴女もどうにかしたいと思ったのではないのですか?」
 息継ぐことなく、まくし立てる。
「あなたの妹でしょう!?」
 そう思わず強い口調で叫んだ。
 シン、と沈黙が流れた。
「一度も会ったこともないわ」
 その中で、静かに、なんの感情も感じさせない声でアルデリートが言った。
 冷ややかさにシアンは呆然と言葉を失くす。
 死産だと教えられていた。
 本当のことを知ったのは8歳のとき。
 6歳下の妹。会ったこともない"妹″。
 不幸で可哀想な"妹"。
「……………会ったことのない"妹"だから、どうでもいいと……?」
「妹のために、あなたに近づいて欲しくないだけよ」
「なぜ!」
 驚きにシアンは顔を歪める。
 アルデリートはしみじみとした眼差しでシアンを眺めた。
 そこには懐かしむような親しみをこめるようなものと、それに反する嘲笑のようなものが含まれている。
 その視線に胸が苦しくなるのを感じた。
 まるで見定められているような、まるで自分がひどく子供じみているような、そんな気が起きる。
「さっきも言ったけれど、あなたは世間知らず。
 名門の公爵家に生まれ、両親兄たちの惜しみない愛情を注がれ生きてきた。
 まわりのものも優しかったでしょう?
 あなたを見ればすぐわかる。純粋で優しいシアンを見れば、ね」




 チチチ―――――。
 また、さえずりが聞こえた。




「あなたはとても貴重な存在よ。純粋で世間知らず、だからみんなを和ませることができる。
 私もとても大好きよ。本心の知れない貴族の中で、シアンに会うとほっとするもの」
 それは本心。
「だから、きっとあなたなら、あの"少女"に幸せを教えてあげることができるでしょう」
 だったら、そう口を開こうとしたシアンに、アルデリートは口を挟ませることなく、続けた。
「だけど、あなたは"不幸"を知らない」
 そこには笑みのかけらもなく、真剣なものだけ。
「シアン―――――。
 幸福と不幸は、つねに表裏一体なのよ」
 重い、声。
「あなたは幸せの中だけで育ち、不幸も知らない」
 そんなことは、と呟くも、弱弱しく視線を揺らす。
「だけれど、不幸を知っていれば、幸せがいかに大事かがわかる。
 幸せでありたいと、不幸を恐れる。
 誰しも幸せを望むものだもの」
「………………だから……僕はあの"少女"に幸せに…」
「それが、傲慢というのよ」
 優しい声。だが辛らつな言葉。
「人一人を簡単に幸せにできると思うの?
 どれだけの想いを傾け、相手の身になり、誠心誠意つくしても報われないことだってあるというのに」
 険しかった表情は、いまや消えうせている。
 変わりに浮かぶのは苦しさだけ。
「相手がどれだけの救いを求めているかにもよるでしょう。
 たった一瞬、手を借りるだけでいいものもいれば、立ち直れるまでの期間を必要とするものもいる。
 簡単に人など、救えないのよ」
 非難など、傲慢だと言われたことなどなかった。
 あるはずもない。
 それこそが、無知だったということに、気づいてしまう。
「一生を捧げなければいけないこともあるでしょう」


 それが、あなたに出来る?


「僕は、ただ………あの塔の…」
 "少女"を―――。
 だが、言葉は続かない。
「あなたを必要とする、あなたでなければ救えない人はたくさんいるでしょう。
 たしかにあの"少女"も、あなたに幸せを教えてもられるかもしれない」




 チチチ―――――。
 さえずりが、響く。




「でも、あなたはまだ若く、いまからさまざまなことを吸収していく。
 いまはよくても、長く"少女"にかまっていられるとは限らない」
「………たとえ…そうでも……。あの少女を塔から出すよう、王に―――」
 アルデリートは目を細めた。
「ダナイ将軍という人を知っている?」
 突然、話しを変えられ戸惑いつつ、頷く。
「はい………。昔…王の右腕と言われていた」
「そう。王のもっとも忠実なる腹心であり、王から最大の信頼をえていた将軍」
 十年ほど前、将軍は地位を脱し、隠居したと聞いていた。
「彼は王が自分の娘を幽閉したと知り、王に意見したのよ」
 シアンは目を見開く。
「王の親友とまで言われたダナイ将軍なら、と幽閉に難色をしめしていた皆は思った。
 だけど、王は―――――その瞬間、追放を命じたの。
 なんの迷いもなく、ね」
「…………まさか…」
「王にとっての最上の幸福であり、最大の宝は亡き王妃。
 そしてそれを奪い、最大の不幸に陥れたのは、あの"少女"。
 王には考える余地などないのよ。
 たとえ最も信頼していた配下であっても、"少女"を擁護するものは、同じく罪でしかない」
 もう言葉を出すことはできず、ただ聞き入ることしか出来ない。
「だから、たんなる公爵家の息子で、ロイに見習いとしてついているあなたがなにかを言ったところで、なにも1ミリ足りとも動くことはない。
 あなたの家が最悪潰されることぐらいでしょう」
 青ざめきったシアンに、小さな笑みを向ける。
「不幸にもさまざまな種類がある。
 どうにもしようがないことだって、あるのよ。
 本当にあなたがあの"少女"を救いたいと思うのなら、あなたの人生を賭けなければならなくなる」
 

 でも、そこまでする熱意も、力も今のあなたにはないでしょう。


 優しい声が残酷に告げた。
「そして私も、そうまで"妹"とために動く気持ちはない。
 酷いと姉だと言われても」
 ただ立ち尽くすシアンに背をむけ、アルデリートはバルコニーへ行った。
 そして鳥籠を持ってくる。




 チチチ―――――。
 小鳥が、さえずる。




 シアンはぼんやりと小鳥を見つめた。
 鳥籠の中にいる小鳥は輝くような七色の羽をまとっている。
「言い過ぎたかも知れないけど、あなたにわかって欲しかったのよ。
 たしかに今はまだ知らないことが多いだろうけど、シアンならきっと素晴らしい聖職者になると思うから。
 だから、巡礼に行ってさまざまな不幸を見てきて、そしてさまざまな幸せを掴み取ってきて欲しいの」
 シアンは口元に手をあて、うつむいた。
 眉を寄せ、瞳にわずかに涙がにじむ。
 悔しさなのか、なんなのか、自分自身なんの涙なのかわからなかった。
 ただ、ただ悲しかった。


 アルデリートは話しを終わらせるように、優しく、決して偽りではない微笑を浮かべた。

「いってらっしゃい、シアン」

 シアンはややして、静かに頷いた。




 そして部屋を辞すとき、振り向き鳥籠を見る。
「アルデリート様」
 鳥籠の中の小鳥にエサをあげているアルデリート。
「その、小鳥は……」
 呟きに、満面の笑みで返事が返る。
「私がずっと飼っている鳥よ」
 あの日、空へ放した――――あの小鳥。
 帰ってきてしまったのよ、とアルデリートが笑った。
 シアンはじっと小鳥を見つめ、そして頭を下げ部屋を出て行った。




 チチチ――――――。
 鳥のさえずりが、響く。

























 巡礼隊の出発の日。
 その旅立ちを見送り終え、アルデリートは自室へと戻っていた。
 そして立ち止まり、窓辺に寄る。
 ふと、空を見上げてみた。
 いつもと同じように空は高く、澄み渡っている。
 しばしして空から、鮮やかな碧色の瞳をわずかに揺らし、美しい空と対比するようにある薄暗い空気を漂わせる塔に視線を向ける。
 アルデリートの住む館から広い庭と高い塀を越えた向こうにある塔。
 さまざまな意匠をこらした館の造りとは異なり、簡素で冷たい景観をした塔。

 "妹"の住む塔。
『人形のようでした』
 シアンの言葉を思い出す。
 それは昔、ロイにも聞いた言葉。
 死産と聞いていた妹が幽閉されていると聞き、だが決してそれを口にだしてはならないといわれていた。
 だが、気にならないわけがない。
 そんな気持ちを察し、ロイが1度だけ、言った。
『人形なのです』
 人形のような"妹"はなにも知らない。
 幸福も、不幸も。
 感情などない、人形。
「なにも知らない。
 幸せも――――――不幸も」
 アルデリートは塔を見つめ、小さく呟く。
 少女は自分が"不幸"であるということを知らない。


 そしてそれこそが、妹にとっての唯一の残酷な"幸福"。


 シアンが本当の幸せを"少女"に教えたら、その時点で、それは不幸をも教えることになる。
 なにも知らない"少女"が、その不幸に耐えられるだろうか。
 幸せを知れば、不幸は色濃く、感じるものだから。
「まだ―――――」
 ぽつり、漏れる。
 まだ、それを教えるには早すぎる。
 いつか、いつかきっとあの塔が崩れる日はくるから。
 何年先かわからない。
 もしかしたら数十年、王が死んだときかもしれない。
 だが、いつか、その日は来る。
 だから。


 だから。
 "妹"に幸せが訪れるのが、その日まで、来ないようにと。
 それだけを――――――。




 妹のために、姉としてして願う幸福。



 
「アルデリート様」
 侍女のユーリスが控えめに、だが促すように声をかける。
 アルデリートはユーリスを一瞥し、そして金色の髪を大きく翻し歩き出した。
 いつものように。


















 この館に、あの塔のことを語るものは、近づくものは、いない―――――。















the end.
04,3,5