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『TEXT.8』 あれは本当にあったことなのだろうか、と時折思う。 雨の放課後、樹が言った言葉とその体温を思い出して切なく、そして暖かな気持ちになる。 だけれど劇的に次の日からなにかが変わったというわけではなかった。 『待って』 その言葉通り、だから綾と樹は生徒と教師、それだけなのだから。 ひとつの約束。 それだけを胸にしまって、いつもどおりの毎日は続いていった。 冬休みを経て、年が明け、そして3学期も半ばを過ぎたある日。 教室内の空気がひどくソワソワと浮き立っていた。それは今日という日に仕方がないことだろう。 2月14日バレンタインデー。 進学校である綾の学校だが特にバレンタインチョコに関しての規制はなく、毎年校舎は甘い香りが微かに漂っている。 綾は4時限目終了のチャイムを聞きながら、ため息一つついて教科書を机の中にしまった。 それからお弁当を持つと生徒会室へ向かった。 今日は同じ役員のヒカルと一緒にお昼をとる約束をしていたのだ。 生徒会室にはすでにヒカルがいて、数個の小さいペーパーバッグの中身を確認していた。 「ヒカルちゃん、遅くなってごめんね。チョコもありがとう」 綾は言いながらペーパーバッグの中を覗き込んだ。 中には可愛くラッピングされたチョコが入っている。 これは昨日学校帰りにヒカルの家で二人で作ったチョコ菓子だった。 日ごろお世話になっている生徒会のメンバーと顧問にあげたいとヒカルが言い、そして一緒に作ろうと誘われたのだった。 「いえいぇ〜。綾先輩とお菓子作りできてとっても楽しかったですぅ〜!」 ヒカルが満面の笑顔を浮かべいいながら、イスの上に置いてあるバッグの中からラッピングされた箱を取り出した。 「これぇ、綾先輩に〜」 生徒会のメンバーに配る義理チョコよりも豪華にラッピングされたチョコを渡され綾は頬を緩めた。 「ありがとう、ヒカルちゃん。私からも」 そう言って綾は用意しておいたチョコを渡した。 「きゃ〜! 綾先輩からもらえるなんて感激ですぅ〜!! もしかして手作り!?ですかぁ??」 「うん、一応ね。美味しいかどうかは自信ないけど」 「えー、綾先輩の手作りなら美味しいに決まってますよぉ。あの私のも手作りですぅ。綾先輩のために作りましたぁ」 「ほんとありがとう」 「……友チョコってやつ?」 女子同士の華やかな会話の中に、多少うんざりしたような声が割り込んできた。 視線を向けるとドアのところに生徒会長の山野昇と伊織が立っている。 「違いますよぉ、会長! 本命です! ほ・ん・め・い!!」 力強く言うヒカルに苦笑いを浮かべる面々。 「あ、これはぁ、会長とぉ、伊織先輩に〜。わたしと綾先輩からですぅ」 「おっ、まじで!? もしや手作りー!?」 昇が歓声をあげ、ありがと〜!、と早速包みを開けている。 「ありがとう」 伊織がにっこりと綾とヒカルを見た。 「伊織先輩はたくさんチョコもらったと思いますけどぉ、ちゃんとわたしたちのも食べてくださいね〜」 「伊織先輩はってなんだよ。俺ももらったぞ!?」 「えー、会長はぼちぼちぃでしょう?」 「木沢ー! お前なぁー。俺は意外にもてんだぞぉ!?」 「えー、そうなんですかぁ? 会長たぶん今日貰ったのみんな義理だと思いますけどぉ」 「……お前…」 漫才のような掛け合いを始めた二人を綾は笑いを抑えきれずに眺める。 「広瀬」 そんな綾にそっと伊織の声がかかった。 視線を向けると伊織が横に立ち、再び礼を言ってきた。 だがなにか言いたげな雰囲気があり、綾は「どうしたの?」と微笑みかけた。 「――広瀬には一応報告しておこうかなと思って」 「なに?」 「きのうチョコ作ってた。たぶん今日渡してると思う」 抜けた主語。一瞬怪訝に思うも、綾は思わず笑みを消した。 「夏希さん?」 渡している……、ということは伊織にではないということなのか。 困惑がそのまま顔に出ていたのだろう、伊織は苦笑のようなそうでないような笑みを浮かべる。 「そう。最近付き合っている人がいるみたいなんだ」 「うそ」 とっさに言って、伊織を見つめた。 伊織は真っ直ぐに視線を返してくる。柔らかく目を細めて。 「あいつが前向きに男に向き合ってるのって初めてじゃないかな。きっとうまくいくと思うよ」 それは妹の幸せを心から案じている様子が伺えるもので――。 しかし綾は頷くことができなかった。 「……でも……それじゃあ……」 だけれどもそれ以上なにも言うこともできなかった。 想いが通じ合うことは―――現実的には禁忌とされるものなのだから。 綾は胸に鉛を押し込まれたような息苦しさを感じ黙り込んだ。 「広瀬、いろいろ心配かけてわるかったな。たぶん夏希はちゃんと幸せになるよ」 これから―――。 優しい声音に綾は泣きそうになり、慌てて目元を覆った。 喜んでいいのか、どうなのか。わからない。 「広瀬はあげるの?」 空気を変えるように伊織が珍しくからかうように訊いてきた。 「……えっ?」 誰に、なにを、と当たり前で、当たり前には答えられない質問。 だがこの察しのいい友人は綾があげたいと思っている人物を知っているのだ。 去年のあの日―――、雨の放課後を境に変わったことをすぐに見抜いた伊織。 翌日に綾の顔を見ただけで、伊織は「良かったな」と言った。 なにがとも言えず、そんなに顔に出ているのだろうか、と慌てて気をひきしめて……、だが「うん」とだけ頷いたのだ。 「あげ、るわよ。ヒカルちゃんと一緒に作ったから、みんなに」 下手な言い訳。 少し上ずってしまった声に伊織が吹き出す。 「広瀬は可愛いな」 普段そういうことを言わない伊織だけに、思わず綾は赤面してしまった。 「あー!? なんなんですかぁ〜!? 綾先輩と伊織先輩〜!!」 と、漫才を切り上げたのかヒカルが綾に抱きつかんばかりの勢いで迫ってきた。 「二人して仲良くお喋りしてるぅ〜! しかもなんだか怪しいしぃー!」 「おっ、ほんとだ。広瀬の顔が赤い! 伊織ぃ、お前なにしたんだよー!」 ヒカルと昇のものすごい剣幕に綾と伊織は顔を見合わせ、そして笑いをこぼした。 なんでもないなんでもないと二人に言いながらお弁当を広げ、お昼休みはあっという間に過ぎて行ったのだった。 *** 放課後。 すでに人気はだいぶなくなっていた。部活動の生徒たちの声が遠くグラウンドや体育館から微かに聞こえてくるくらい。 教室そばの階段に立った綾はカバンを握り締め深いため息をついた。 ヒカルとともに作ったチョコはすべて配り終えていた。 もちろん生徒会の顧問である樹にも。 『手作り? へぇぇ』 食えるの?、とでも言いたげな笑顔で受け取った樹。 それはヒカルとの連名で、あくまでも日ごろお世話になっているというお礼を兼ねてのチョコ。 だから実はカバンにはもう一つ―――チョコがあった。 作って、丁寧にラッピングして、でもきっと渡すことはないだろうチョコ。 たくさん女生徒たちにチョコをもらっている樹に渡したところで誰も不審には思わないだろう。 樹自身も、きっとすんなり受け取ってくれるのだろう。先生として。 だけど渡さない。いや、渡せない。 単純に渡す勇気がないだけだ。 悩んで悩んで下校時刻もかなり過ぎてしまった。 再度深いため息をつき、綾は階段をゆっくりと降り出した。 意気地のない自分にうんざりする。 去年もチョコを用意し、そして渡せなかったのだ。 この分だと来年も渡せないだろうな。 そんなことを考え、ふと綾は立ち止まって踊り場の窓の向こうに広がる夕暮れを見つめた。 「………来年……」 ぽつり呟いたとき、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。 我に返り綾は歩き出す。 だが踊り場でまた立ち止まった。 「なんだえらく遅くまで残ってるな」 下から来て同じく踊り場で立ち止まって声をかけてきたのは樹。 綾は無意識のうちにバッグを後ろ手に持ち替え、苦笑いを浮かべた。 「すみません、教室で本を読んでいたら遅くなってしまって」 表面上はあの日からなにも変わっていない『関係』。 ひとつ変わったことといえば、まるでゲームのようにしかけられていた意味深な会話や視線がなくなったことだろうか。 あの日いろいろ言ったせいかはわからないが、なくなった。他愛のない会話はもちろんあるが。 だけど時折視線があったとき―――前にはなかった優しい光を見せるときがある。 それだけで、心が落ち着いて穏やかになれた。 「ふーん。まー、まだまだ陽が落ちるの早いし用ないときは早く帰るようにしろよ」 「はい」 会話は終わり、さようなら、と言う流れだった。 綾が口を開きかけたとき、 「ところで、広瀬」 さきに樹が言った。 「なんですか?」 「木沢と一緒に作ったってチョコ、なかなかだった」 「そうですか? ありがとうございます」 「で、余りないの」 「はい?」 「余り」 樹が手を差し出してくる。 綾は目をしばたたかせて、至極真面目に返す。 「すみません、あのチョコ本当に人数分しか作ってなくって。もうみんなに配ったので―――」 言い終わらないうちに樹が大きく吹き出した。 思わず呆けて綾は首を傾げる。 「先生?」 「ほんっと、お前面白いなぁ」 笑う顔は久しぶりに見た懐かしいもの。どこか含みのある笑いが口元にあった。 「なにがですか?」 だが本当になぜ笑われているのかわからずに綾は困ったように樹を見た。 「だから。ほら、余ってるチョコを渡すように言ってるんだよ」 だからはこっちのセリフだ。チョコなんてもうないと言っているのに、と眉を寄せる。 「なんだよ、まさかまじでないの?」 樹が憮然とした表情になる。 それを見て、ふと綾は後ろ手に持ったカバンの中にある存在に気づいた。 樹がしつこく言っている余り―――。 微妙に変化した綾の表情に気づいたのか、再び樹が笑みを浮かべる。 「あるなら出す」 綾はそれでも逡巡し、少ししてバッグを開けた。 落ち着いた色合いのダークグリーンの縦縞の包装紙に鮮やかなブルーのリボン。 あまり派手過ぎないようにとシンプルにしたラッピング。 綾はそれを手にし、視線を落とす。 本人が渡すように言っているのだから差し出せばいいのに、なかなか渡せない。 「ったく、没収」 痺れを切らしたように手が伸びてきて綾の手からチョコを奪った。 「あ、あのっ」 「なに」 「……美味しくないかも」 「―――開けていい?」 「……はい」 樹の指がラッピングを解いていく。ダークブラウンの箱に入っているのはトリュフ数種だった。 その一つを樹が口に放り込む。 「んーー」 そしてもう一つ、消えていくチョコを綾は見つめていた。 「うまいんじゃない?」 にやり笑って、樹は箱を閉めると「気をつけて帰れよ」と軽く手を上げた。 「……さようなら」 小さく頭を下げて、顔をあげたときには樹は歩き出していた。 綾の横を通り過ぎる。 ふと、しみついたタバコの匂いが鼻を掠める。 「あーあ、あと1年か。なげーなぁ」 階段を上っていく足音とともに樹のため息混じりの独り言が響いてきた。 綾はゆっくりと階下へと降りていった。そして立ち止まり、しばししてその場にうずくまった。 急激に顔が熱くなっていくのを感じる。 さっき樹が通り過ぎた瞬間。 急にその手が指が伸びてきて綾の唇をなぞっていったのだ。 まるで悪びれもなく。 綾は唇を手の平で押さえつけて、赤面したまま、 「ぜったいセクハラ!」 と、呻く。 ほんとうにあの男は教師なのだろうか―――。 まったく、もう! そう思いながらも、自然と綾は頬を緩めていた。 あと一年。 長いけど―――待っててね、先生。 綾は胸の内でそう呟いた。 |