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『TEXT.7』

 
 そんなに間は空かなかった。
 一瞬目を瞬かせたものの、樹はすぐに笑った。今度は小さく声を立てて。
 デスクに片肘をつき、頬を乗せて綾を見上げる樹。
「そうだなぁ―――」
 目を細め、そして、
「興味ある」
 笑顔のまま、
「って、言って欲しい?」
 樹はやんわりと楽しそうに言った。
 息苦しい。息苦しくてたまらない。
「……私は先生のこと興味―――」
 だが綾は笑顔を保ったまま、口を開いた。
「まったくありません」
 あっさりと告げると、なぜかさらに樹は楽しそうな顔になった。
 それを見ながら、綾はゆっくりと立ち上がる。
「先生って、きっと彼女とかたくさんいたんでしょうね」
 綾の動きを、どう話しをもっていくのだろうかと、様子を見ているような樹。
「かっこいいし、頭もいいし」
「まさか広瀬サンに褒めていただけるとは」
「大人で、余裕があって、なんでも出来そうで」
「なんでもはどうかなぁ」
「ほんとステキだと思います。先生がモテる理由よくわかります」
「なんだ、えらい持ち上げるな」
「先生」
「なに」
「先生」
「なに」
「好きです、先生のことが」
 わずかに身を乗り出して樹を見下ろし、言った。
 樹は黙って綾を見上げる。
「―――そう、言って欲しいですか?」
 ほんの数秒、視線が絡む。
「―――そうだなぁ」
 とぼけるように樹が呟き、さらに言葉を続けようとした。
 だが、綾はそれを遮った。
「残念ながら、言いません」
 もうすでに心はガタガタだった。
 これ以上、笑顔を保てる自身が綾はなくなっている。
 なぁんだ、とあくまで軽い樹に綾は最後の力を振り絞って口を開く。
「ねぇ、先生………。先生にとって生徒ってなんです? 先生にとって恋ってなんですか? 先生に告白したりする生徒ってたくさんいるんですよね。告白してくる生徒を見てどう思います? 子供に興味はない、そう思いますか? そうですね、高校生なんて大人な先生にとっては子供でしかないんでしょうね?」
 綾は声が震えそうになるのを必死で耐えた。
 一気に、だがゆっくりと言い募る。
 平静を装えているのだろうか?
「先生って、みんなに優しいですよね。さりげなく。勘違いしちゃう子も多いんでしょうね?」
 表情を消した樹を見ながら、平静などまったく装えてないことも自覚していた。
 支離滅裂すぎて、自分でも笑いたくなる。
 冷静にと思っているのに動悸が激しくて、言うべきことを吟味することなど出来なかった。
「先生、私ね、子供なんです。大人な先生の考えなんて全然わからない、子供なんです」
 泣きたくなった。泣きそう、ではなく泣きたかった。
 でも涙は出てくれそうにない。
「私、一年のときは先生が"私にだけ"、なにか特別なサインを送ってくれてるような気がして、浮かれたんです」
 バカみたいでしょう?
 笑みが強張るのを、頬が引きつるのを感じた。
「先生は他の生徒にも同じようなことされてるんですか? それとも私が自意識過剰なだけなんでしょうか?」
 首を傾げ、問う。
「そうですね、きっと自意識過剰なのかもしれません。先生の他愛のない冗談をバカみたいに真に受けてるだけなのかも」
 笑顔はついに消え、樹を直視することはできなくなった。
 目の前にいるのに、視線を向けてはいるのに、樹の目を見ることはできない。
「私、わからないんです」
 笑って、笑って、笑って言いたかった。
 自分自身を笑い飛ばすように、笑っていたかった。
「わからないんです」
 でも笑えず、呟いた自分の言葉に、綾は糸が切れたようにうつむいた。
「先生。
 ねぇ、先生は私に―――何をしてほしいんですか?」
 静まり返った室内に小さく綾の声が響いた。
 両手で顔を覆い、額へと移動し、髪をギュッとつかむ。
「……先生」
 一呼吸置き、綾は顔を上げることなく再び呟いた。
「私、先生のこと」
 唇をかみ締め、
「―――嫌いです」
 こぼれた言葉に、涙が一滴こぼれた。
 そして綾は準備室を飛び出した。


 走りながら、涙がとめどなく溢れてくる。
 頭がくらくらする。
 足がいまにも崩れてしまいそうになる。
 でも走り続けた。
 バカみたい、そう胸の内で呟きながら。
 いったいなにをしたかったのか、バカとしかいいようのない、自分の行動。
 素直に想いを告げることもできず、半ば八つ当たりのようなことを言ってしまった。
 きっと樹は呆れているだろう。
 なにを勘違いしているのだと、なにを意味のわからないことを言っているのだろうと、きっと呆れているだろう。
 なんてバカなんだろう―――。
 漏れそうになる嗚咽を手で押さえ、走る。


 だが、突然足が止められた。
 強い力で左腕がつかまれたかと思うと、引っ張られた。
 何が起こったか考える間もなく、背に固いものがあたる。
 壁に押し付けられた。
「……った」
 腕に絡まるようにつかんでいるのが手であることに気づいて顔をあげた瞬間、知った匂いが鼻を掠めた。
 ほんの微かに洋服に染み付いたほろ苦い―――煙草のにおい。
 そして。
「………んっ」
 唇が塞がれた。
 

 何が起きたのかまったくわからなかった。
 腕はまだつかまれたまま。
 動きを塞ぐように背中から首筋に手が回されている。
 強張った身体のまま、綾は目の前の男を見た。
 1センチほどしか離れてない、綾の唇を塞いでいる―――樹を。
 わけがわからなくて、でも伝わってくる体温があたたかくて綾は目を閉じた。
 頭の中が沸騰したように熱い。
 顔も身体もひどく熱かった。
 与えられる口づけは激しくて、でも優しくて。
 いつのまにか戒めではなく抱きしめられていて。
 どうしようもない熱さに、立っているのがやっとだった。
 意識は朦朧として翻弄されるだけ。
 でもそれは決して嫌ではなく、苦しいほどに胸が痛くて甘い―――。

 

 
 どれくらいだろうか。
 ほんのすこしだったのか、長い間だったのか。
 ゆっくりと唇が離れた。
 すぐにきつく抱きしめられ、耳元で掠れた声が囁く。

「……綾。―――――」

 そうして身体は解放された。
 綾は壁を背にしてずるずると床に崩れ落ちた。
 固い足音が去っていくの黙って聞いていた。
 突然の出来事に止まっていた涙が、またこぼれた。
 今度は違う熱を持って。

『……綾』

 初めて呼ばれた名前。
 そう呼んだ声は初めて聞く切なくて優しいものだった。

『悪い……。でもあと一年と少し……待て』

「一年……?」

 唇にそっと触れながら、綾は呟いた。
 一年後を考える。
 なにがあるのか―――。
 その頃には綾は三年になり、春には卒業が待っている。

 卒業?

 まさか、と思う気持ちとともに、真剣だった樹の声がそうなのだろうと確信させる。
 ぽろぽろとこぼれる涙をぬぐいもせず、綾はしゃくり上げ泣いた。


『待ってろよ。俺のために―――』


 卒業のとき。
 このキスの答えが―――聞けるのだろうか。
 



 涙は止まらない。
 でも心はとても暖かかった。
 


   

 


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2009,2,26