like or love or...







『好きなんです』
 それは一年前のイブの日だった。
 終業式の日でもある12月24日の放課後。
 その日も雨が降っていた。
 告白していたのは3年の女生徒だった。
『好きです―――。先生』
 もう一度、その女生徒は真剣な眼差しで言った。
 樹を見ながら。
 そして、樹が目を細めゆっくりと口を開いた。
『――――俺』


 
 偶然出くわした告白の場面に、私は。




 
『TEXT.6』

 
「失礼します」
 短くノックをする。準備室から「ああ」とそっけない返事がする。
 綾はゆっくりドアを開けて中へと入っていった。
 数学準備室――には樹だけしかいなかった。
 樹はさっきまではかけていなかった眼鏡をし、書類の束を整理していた。
 この準備室で作業をしているときだけ眼鏡をかけていることを知っているの者は多くない。
 他の数学教師や、ごく一部の生徒だけだろう。
 まだ1年生のころ初めてこの部屋に入ったときに知ったのだ。
 集中するときは眼鏡のほうがいい、といつだったか言っていた。
『大学受験のころの名残かなー』そう、樹は笑っていた。
 ほんの一年前のこと。
 樹の意外な一面を知れて、単純に嬉しかった頃。
 綾は銀色の細いフレームを眺めながら樹のそばに歩み寄った。
「悪いな」
 本当にそう思っているのかいないのか、あくまでもそっけなく言いながら樹は他教諭のイスを引き寄せて座るよう綾を促した。
 一年生用の参考資料らしいプリントアウトされた用紙が積み重なっている。三枚一組にしホッチキスでとめる、という単純な作業の手伝いだった。
 樹が担当しているのは3クラスだけなので、手分けしてすればすぐに終わるだろう量だ。
 だが、とホチキスでプリントを綴じながら思う。
 いつだって樹がわざわざ自らこういった作業をすることはない。たいていプリントアウトされたものを配り生徒に綴じさせる。
 だから実際必要があるのだろうかという手伝いだ。
 それでも何も言わず綾はもくもくと作業していった。
「雨、やまないな」
 どれくらいしてからだろうか。
 まだほんの十数分だろうか。
 軽いため息混じりに樹が言った。
 最初からやる気などなさそうだった樹の手はすでに止まって、つまらなそうに長い指がデスクを小突いている。
「………吸いたいなら吸っていいですよ」
 手を休めることなく言う。
 ちらりと視線が向けられるのを感じながら、綾はだが視線を返さない。
「校内禁煙なんでな、残念ながら」
 雨が止んでたらベランダ出て吸うんだけど、と最後は小さな笑いが含まれていた。
「……先生ってヘビースモーカーっぽいですよね。平気なんですか」
「まぁ、大人だからな。学校ではセーブしてますよ」
 軽い口調の返事に、スッと胸の内が冷えていくのを感じた。
 "大人"な先生―――。
 それは当たり前な事実。改めて認識することでもない。
 綾は心を静め作業に集中する。
 いつもならそこでなにかしら言葉を返すようなやり取りだ。
 だが綾は口を開かず会話は途切れた。
 それに対してなのだろう、なにか不審そうに向けられる樹からの視線を感じた。
「広瀬サンは、今日はご機嫌斜めなのかな? ああ、彼氏とケンカしたから?」
 茶化すような、ケンカを売るような、樹の声。
 一瞬手が止まりそうになったのをどうにかやり過ごし、綾は冷ややかに呟いた。
「先生、見かけによらず大人気ないんですね」
 瞬間沈黙が落ちた。
 ピンと、なにか空気が張り詰めたような気がする。
 先生に向かってする口の利き方ではないことは綾自身わかっていた。
「―――そう? 先生だって人間だからな」
 わずかに消えた表情に、いつものとおり軽い笑みを浮かべ、まるで本心ではないといった口調で返される。
「そうですね。先生だって学校の外では"先生"じゃないんですしね」
 言いながら記憶がよみがえるのを綾は防ぎようがなかった。
 去年のクリスマスイブの日、観てしまった聞いてしまった光景がまざまざと思い出される。
『先生としてじゃなく、男として?』
 告白をした上級生は、当たり前のように先生と生徒に恋愛はありえないと振られたあと、男として自分を一人の女性として見てほしいと言ったのだ。
 それは必死で、とても真剣で、樹のことを好きでたまらない感じだった。
『――――男としてかぁ。なら答えは……』
 しばらくして樹は逡巡しながら口を開いた。
 そして―――。
「まぁ"教師"は"教師"だろ、学校の外でも。ただプライベートはもちろんあるけどな」
「"先生じゃない先生"」
 それはあの上級生が使ったフレーズ。
『好きなんです。先生じゃなくても。先生じゃない先生――、一人の男性として』
 その言葉を目の前の男は覚えているのだろうか。
「興味ある?」
 笑いを含んだ声に、綾は顔を上げ樹を見た。
 樹の目は楽しげな光を宿し、綾を見ている。
 視線が合い、そして綾は微笑した。
「私と伊織くんの関係、気になりますか?」
 虚をつかれたように樹が動きを止める。
「伊織くんて、優しすぎるんですよね。私のことなんて気にしなくていいのに」
「のろけ?」
 明らかに作った笑みで問われる。
「いいえ。伊織くんには私じゃなく好きな人がいるんです。私も別にいるし、好きな人」
 綾は樹に視線をとめたまま、間を置くことなく続ける。
「興味ありますか?」


『――――男としてかぁ。なら答えは……』

 それが果たして女生徒を諦めさせるためのものだったか知らない。
 だが、そのときの樹は綾が初めて見る表情で笑って答えた。

『興味ない』

 笑顔は冷ややかで、それは女生徒が望むとおり"先生"ではない樹だった。
『悪いけど、まったく興味沸かない』
 残酷な言葉に女生徒は言葉を失って立ち尽くしていた。
 しばらくして涙をこぼした女生徒に、ようやく樹は先生の表情で『悪いな』と告げ、身を翻した。
 綾は慌てて隣の教室に隠れ込み、遠ざかる足音と、静かに響いてくる女生徒の泣き声を聞いていた。

『興味ない』

 教師として断るのは当然だろう。
 だがその言葉はひどく冷たくて、樹が告白を受けずにほっとしていいはずなのに、心はひどく痛んでいた。
 まるで、自分が言われたように感じた。
 その頃は、樹がまるで自分にだけ"特別"ななげかけをしてくれているような気がして毎日がドキドキしていた。
 もしかしたら、と思い告白を想像してみたりもした。
 だが、そんな恋に浮き足立った心は、一瞬にして崩れてしまった。

 もしかしたら先生も私のことを――?
 そんな勘違いをして、告白をして、そして――?

『興味ない』

 そう言われたら?
 その想像はあまりにも恐ろしかった。
 "大人"の樹の言葉は軽く、それゆえに重くて、綾は逃げ出したのだ。
 恋を自覚しないように。
 それから樹のまるでゲームでもするような意味ありげな会話に、決して気をとられないように、平静に対処するように気をつけた。
 先生ではないプライベートな樹を見ないようにした。
 あの日まで樹のことならなんでも知りたいと思っていたのに、知りたくなくなった。
 怖かったから。

 "大人"の"先生"でない樹にとって自分など単なる"生徒"でしかない。
 "生徒"でない綾など興味ない。
 "大人"の樹には追いつけない―――。

 そう確信するのが怖かったから。
 だから、目を閉じたのだ。
 だから、恋にまっすぐな伊織の妹・夏希の涙が痛くてたまらなかった。

 逃げている自分を非難されているようで。




「―――先生、興味ありますか? 私のこと」

 だけど、それも終わりにしよう。
 綾は樹に、もう一度問いかけた。

 

 


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2009,2,25