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 はじめて会ったのは、桜の舞う季節じゃなかった。
 中学3年生の夏の日。
 志望校だった今の高校で模試があって来ていた日。
 ものすごく暑い日だった。
 模試は昼までで、私はすごく喉が乾いていて自販機でジュースを買った。
 そしてそれを持って日陰を探して校庭を歩いてた。
 日曜日の学校はすごく静かだった。
 しばらく歩いて、風がよく通る涼しそうな日陰を見つけた。
 でもそこには先客がいた―――。
 タバコの煙と、その匂い、目があった瞬間をいまでも覚えてる。


 名前は―――?


 そう聞いてきた、耳障りのよい、あの声も。




『TEXT.2』







「伊織くん、これこの前話してた参考書」
「ああ、ありがとう」
 綾が参考書を渡したのは、同じ生徒会役員であり友人の茅野伊織。
 今日は放課後来月ある文化祭の委員会があった。話し合いが終わったのはもうじき六時になるくらいで、後片付けなどをしていたらすでに六時を過ぎ、窓の外はすでに日が暮れていた。
「この前貸した本、読んだ?」
「いま半分くらい」
「私としては犯人は意外だったかも」
「へぇ、広瀬が驚く展開なんだ」
 伊織とはなにかと趣味があい、よく話したり、共通の友人と遊びにいったりすることも多い。
 帰りの準備はとっくに終わっていたが、話し込んでいるとじっと視線を感じ綾は振り返った。
 一年生書記の木沢ヒカルが綾と伊織を真剣な面持ちで見ている。
「……どうしたの、ヒカルちゃん」
 綾が声をかけると、ヒカルが小走りに近寄ってきて上目遣いで尋ねてきた。
「ほんとに綾先輩と伊織先輩って付き合ってないんですかぁ?」
「はぁ、ヒカルちゃん、またその話?」
 すでにほかの生徒たちは帰っていて、委員会のあった教室に残っているのは綾と伊織、そしてヒカルだけだった。
 ヒカルは綾と同じ役職ということもあって、よく綾に懐いている。
「だってぇ。じゃぁ、伊織先輩、ほんとー?」
 華奢で小柄なヒカルは甘ったるい声で、今度はすぐ近くで帰宅の用意をしていた茅野伊織に上目遣いで問う。
「ただの友達だよ」
 もう何回目かわからない問いに、伊織が笑って答える。
 綾はため息をついて、軽くヒカルの頭を小突く。
「もう、なんで信用してくれないかな?」
 ヒカルは可愛らしく唇を尖らせて、綾と伊織を交互に見る。
「それで、どっちに用なの?」
 綾はもう何回目かのため息をつきながらヒカルに聞く。
 ヒカルがこの話をするのは、決まって誰それが伊織に気が合って――、というようなことが元だった。
 もちろん綾に気がある生徒がいて、というのもある。
 ヒカルはパッと顔を輝かせて、綾に腕組してきた。
「あのですねぇ、3年の元サッカー部の人なんですけどぉ〜。綾先輩をですねぇ〜」
 1年生のヒカルが一体どこでつながりがあるのか、ヒカルの交遊録は広い。
 綾はとりあえず名前までを聞き、即座に「いつものように言っていてね、ヒカルちゃん」と笑顔を向け、その頭をわざとらしく撫で撫でした。
 いつものように。ようはヒカルを中継として回ってきた話だから、ヒカルに断っておくように、ということだった。
「はぁい。ていうか、もういい加減に、二人ほんと付き合ってもらいません?」
「おい、お前らも暗くならないうちに帰れよー」
 ため息混じりのヒカリの言葉をさえぎるように、ひとつの声が割り込んできた。
「あっ、せんせーい! ちょうどいいですー、一緒帰りましょ」
 委員会が終わった後一旦は職員室に戻っていった樹だった。
 するりと綾のそばから樹のもとへと飛び跳ねるように駆け寄るヒカル。
「なんだ、ちょうどいいって。いいから、帰れ」
「えええー、だって、もう暗いじゃないですかぁ。こんな可愛い私と、きれいな綾先輩が一緒に帰ってたら悪いやつらに狙われちゃいますよぉ!!」
 こぶしを握り締めて言うヒカルに、綾は失笑するしかできない。
「伊織くんがいるし、バス停まで近いし平気よ、ヒカルちゃん」
 我侭をいっちゃだめだよ、とヒカルに笑いかける。
 ふと自然に流れた視線の先にいた樹と、ほんの一瞬、目があった。
「そうですけどぉ。だってぇ、バスよりセンセイの車のほうが乗り心地いいじゃないですかぁ」
 屈託のないヒカルの声に、答えるように樹のため息が響く。
「わかったわかった。お前ら駐車場で待ってろ。あと15分くらいかかるけど、いいんだな」
「わ〜い! いいでーす」
「でも、先生」
 はしゃぐヒカルと、遠慮するような伊織の声。
 樹は教師らしい笑みを浮かべ、
「俺ももう帰るところだったし、ついでだ」
と、伊織に言った。
「じゃあ、あとでな」
「はーい」
「先生、すいません」
 ヒカルと伊織がそれぞれ返事をし、そして綾も小さく礼を言った。
 でも、樹に送ってもらうのは、正直あまり好きじゃなかった。









「センセー、送ってくれて、アリガトウございました〜! 綾先輩も、伊織先輩も、また明日〜」
 元気いっぱいにヒカルが手を振って、車を降りていった。
 その姿が家の中に入っていくのを見届けて、車は発進した。
「ようやく落ち着いたな」
 苦笑まじりに樹が言った。
「木沢さんは元気ですからね」
 伊織が笑って答える。
 助手席に座っていたヒカルが抜け、後部座席に綾と伊織が座っていた。
「若いってスゴイよな。もうオジサンの俺にはついていけない」
 冗談っぽく樹が笑う。
「先生は十分若いですよ。な、広瀬」
「そうね」
 他愛のない会話。
 綾は樹と伊織の話に相槌をうつくらいだ。
 実際こうして樹に送ってもらうのははじめてではない。これまでも生徒会の集まりで遅くなったときなどに、2回ほどだが送ってもらったことがあった。
 ぼんやりと流れていく景色をみている内に、次に降りる伊織の家の近くの駅についた。
「ここでいいのか?」
「はい。ちょっと寄るところもあるので。じゃあ、広瀬」
 伊織は頭を軽く下げ、樹に礼を言うと去っていった。
 一人、二人と去ってしまい、車内に残ったのは綾だけ。
 いっそう静かになった。
「おい、広瀬」
 車を発進させず、樹が振り向く。
「お前、助手席に来ないか。まだお前の家まで結構あるし、前と後ろじゃ話しにくいだろ」
「そうですか?」
「そう」
 綾は仕方なく助手席に移った。
 そうして車は再び走り出した。
 車内に流れているのは洋楽だった。あまり音楽を聴かない綾には名前もわからない。
「タバコ、吸っていい?」
「どうぞ」
 答える自分の声が、いつもより素っ気無いことを知っている。
 学校の外で、それも樹の愛車で、二人きりというのが綾には居心地が悪かった。
 なにも話すことがなく、話しかけてもこないので、綾は正面をぼうっと見ていた。
 うすぼんやりと窓ガラスに姿が映し出されている。
 ハンドルを握る手が、見えた。
 窓から、すぐ横にある手へと、視線を移す。
 片手ハンドルで、ゆったりと運転している。右手にはタバコ。
 少し窓を開け、そこから煙を追い出していた。
「いつからタバコ吸ってるんですか」
「んー、一応二十歳」
「一応って。……相変わらずうそ臭いですね」
 思ったままに言うと、樹が吹き出した。
 学校ではないからか、いつもより楽しそうに声をたてて笑っている。
「失礼だな、広瀬。俺のどこがうそ臭いっていうんだよ」
 樹の視線がちらり向けられる。
「全部でしょうか」
 そう言うと、再び樹は声を立てて笑った。
「ほんと、面白いなぁ。広瀬は」
 タバコの煙が吐かれた。外に流れきらなかった煙が、車内にほのかに漂う。
 決していい香りとはいいがたい匂い。
 学校内は全禁煙で、喫煙する教師達にとってはなかなか一服できない。
 樹も同じで、タバコを吸っている姿を見るのは稀だった。
 あの初めて会った夏の日と、以前送ってもらったとき、そしていつだったか休日に登校したときに目にしたくらい。
 樹のそばに近づくと、たまにタバコの香りがするから綾がしらないだけで学校でも吸っているのかもしれないが。
 薄く灰色がかった煙を見つめる。
「そんな見つめるなよ」
 喉を鳴らすように笑った樹に、綾はきょとんとして目をしばたたかせた。
 どうやらしばらくぼうっとしていたらしい。
「……ヘビースモーカーなのかなと思って」
「タバコ、いや?」
「別に」
 どちらかというと嫌いではある。
 だが樹に関しては例外かな、と綾は密かに思った。
 長い指がタバコを挟んでいるのが、いいな、と思った。
「そう? なら、いいけど。いやだったら言えよ。やめるから」
 消すからじゃなく、やめるから。
 微妙なニュアンスの違い。
 樹がタバコを持ち替えて、車内の灰皿にもみ消す。
 赤信号で車が停車した。
 突然、樹が大きな欠伸をしてハンドルに突っ伏すようにした。
「ねむ……」
「……寝不足なんですか?」
「少しな」
 クセのある柔らかそうな樹の髪。
 急に触ってみたい衝動に駆られる。
 手を伸ばしかけて、すぐに止めた。
「先生、青ですよ」
「ああ」
 ハンドルから身体を起こして樹が再び車を発進させた。
 それから10分ほどたって、ようやく綾の家についた。
「遠くまですいません。ありがとうございました」
 笑顔で言って、車を降りかけた。
「広瀬」
「はい?」
「お前、シャンプーどこの?」
「え?」
 ドアを開けて、もう外に足を出していた。半分座ったままの姿勢で樹を見る。
 内心戸惑いつつ、メーカー名と商品名を答えた。
「ふーん」
「どうかしました?」
「ん? いや、いつもいい香りだなって思ってたから」
「………ありがとうございます」
 笑顔を向けて、そして降りる。
 その寸前、後ろ髪が揺れた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 走り去っていく車を見ながら、綾は自分の後ろ髪に触れる。
 降りようとした、あの瞬間―――樹の指が、髪に触れたような気がした。
 綾は車が完全に見えなくなって、それからさらにしばらくして、ようやく家に入っていった。










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2007,3,18