『Limits-4』





 あの夏の日、出会った少女に目を奪われたのは事実だった。
 なにか予感めいたものをを感じながらも、中学生相手に欲情するなどと一旦は打ち消したのだ。
 だがすでにあの少女――綾に堕ちていたのを確信せずにいられなかったのは翌日だった。
『ねぇ、どうしたの』
 甘ったるい声でしなだれかかる女。
 身につけた香水にひどく嫌悪を掻きたてられた。
 "特別な関係"ではあるが"恋人"ではない女。いつもならひとときを手軽に楽しむだけのもの。
 しかし目の前にいる女にはまったく興味がわかず、思い出されるのは綾の姿。
 ロリコンか―――、と忌々しく思うも樹の口から出た言葉は冷ややかなものだった。
『帰る。今日で最後だ』
『え? なにが?』
 唖然とする女に、拒否権を与えぬ別れを告げた。
 かといって中学生を相手にすぐに行動に移す気はなかった。
 樹の勤める高校に入学してきたら、卒業まで。
 他校に入ったら16歳になるまでは―――再会するつもりもなかった。
 そして綾は運よくか悪くか樹の高校に入学してきたのだ。
 先日司が言っていたように"裏工作"で担任するクラスに入るようにもした。
 姑息な手段でも、卒業まで手を出さないと決めた分、多少近くにいてもらっても構わないだろうという―――樹の持論。
 再会した、入学式の日は鮮明に覚えている。
 半年以上ぶりに見た綾は、やはり樹の目を引いた。
 綾もまた驚いたように目を見開いて、その頬を一気に紅潮させたのだ。
「初々しくて可愛かったのに」
 ぼそり呟きが口をついて出た。
「……なにか言いましたか?」
 隣のデスクにいる老教師が怪訝そうな顔で聞いてきた。
「いえ、なにも」
 笑顔で首を振る。
 樹がいるのは放課後の職員室だった。
(職員室で物思いにふけるなんて……俺もヤキが回ったな)
 ため息をつきそうになり、それを飲み込む。
 日誌に目を通そうと手を伸ばしかけ無いことに気づいた。
 教室に忘れたのだろうか。胸の内で舌打ちし、取りに行くため職員室をあとにした。
 廊下に出ると、窓がすぐ傍だからか雨がやけにひどく感じた。
 実際横殴りの雨が降りつけている。
 どんよりと空を覆う雨雲と暴雨で、外は暗い。
 うっとうしい、と不快感が湧く。
 そしてすぐそんな自分にため息が漏れた。
 ここ最近わずかに余裕がなくなっていることを自覚していた。
 それはすべて綾のある行動によって。
 繁華街で会った夜を境に、綾は一切樹を見ようとしなくなったのだ。
 視線を合わせることを厭うように、樹がいるとすぐに伏せ目がちになってしまう。
 嫌われようが、再び自分を見るようにする自信はある。
 だがそれが出来るのは卒業してからのことだ。
 自信があったとしても、まだ卒業まで一年以上ある。その長い日々を無視され続けるのは、さすがに不本意だった。
(ったく……。なに悩んでるんだ、あいつは)
 階段を上りながら、何度目かのため息を大きくついた。
 教室へつきドアに手をかけ、樹は動きを止めた。
 室内に一組の男女がいた。良く見知った二人。
 席についた綾と、向かいに立つ伊織。
 真剣な表情で二人はなにか話している。雨の音で内容は聞き取れないが、入るのをはばかるような緊迫した空気が流れている。
「そんなことあるの!」
 一際大きな綾の声が響いた。机を叩くようにし立ち上がる。
 樹は眉を寄せた。
 何を怒っているのか知らないが、例えそれが負の感情であれ自分以外の男がその表情を見るのが不快でたまらない。
「わかってるでしょう? 頭のいい伊織くんならわかってるはず」
 珍しく声を荒げ、噛み付くように綾が言葉を発している。
「私の気持ち―――」
 咄嗟に、ドアを開けていた。
「痴話ゲンカを教室でするなよ」
 自分でも冷ややか過ぎる声だと気づいていた。
 瞬間、顔を強張らせた綾が振り返る。目が合い、そして逸らされる。
「ケンカとかじゃありません」
 伊織が静かに言った。
「そう? なーんかカップルにありがちなメロドラマみたいな痴話ゲンカな雰囲気だったぞー」
 茶化すように言い、笑いを含んで樹は伊織と綾を見つめる。
「お前らができてたなんて知らなかったなー。まぁでも噂はあったみだいだから本当だったってことか」
 綾と伊織の間にあるのが友情だけだというのはわかっている。
 だが友情だけであっても、いつどうやって変化するかなどわからないのだ。
 当人同士であったって。
「先生。冗談はほどほどにしてください」
 とがめるような伊織の声と眼差し。
「広瀬と俺はただの友人です」
 有無を言わせない、毅然とした伊織の態度に樹は沈黙した。
 こいつに限って綾に手をだすことはない―――か。
 改めて認識し、
「―――あっそ。まぁ俺には関係ないけど」
 独り言のように興味なさげに放つ。
「私は雨宿りしてるだけです。伊織くんは今から帰るところです。先生はどうしたんですか」
 平静さを装った、しかし棒読みのセリフのような口調。
 綾は蒼白な表情で樹を真っ直ぐ見てきた。
「日誌を忘れててな」と樹は教卓に向かった。
 ほらな、と取り残されていた日誌を手にし、軽い笑みを浮かべる。
「……広瀬、か――」
「ヒマだったら資料整理手伝ってくれないか。広瀬」
 伊織が綾を見て口を開きかけた。それをさえぎる。
 このまま綾を帰してはいけないと思った。
 樹の視界の中で伊織は心配気な眼差しを向け、綾はそれに対し微笑を返す。
「別にいいですけど。バイト代は高いですよ」
 気を取り直すように、言った綾の口調は久しぶりに砕けたものだった。
 それが表面的なものだとしても。
「まー優等生広瀬サンなら高くつくのもしょうがないか。頼みますよ、広瀬サン」
 苦笑いを作り、、準備室にいるぞ、と日誌を軽く振る。
「気をつけて帰れよ」
 無茶はしない―――。
 一瞬真剣な眼差しを伊織に向け、教室を出た。
 廊下はさきほどよりも一層暗くなっているような気がした。
 雨が、勢いをましていた。
「さて、どうするかな」
 呟き、まぁなんとかなるだろう、と自答し樹は準備室へ向かったのだった。












 準備室につくと眼鏡をかけ、イスに座る。
 いつも準備室で仕事をするときは眼鏡を使用しているからか、かけないと落ち着かない。
(なに手伝わせるかなー)
 デスクの上を物色する。一年生用の資料があったことを思い出し、用意する。ホッチキスで綴じるだけの単純作業。
「失礼します」
 ノックの音と、綾の声が響いた。
「ああ」
 短く返事する。
 入ってきた綾に「悪いな」と言いながら、隣の教諭のイスを引き寄せて座るよう促した。
「三枚一組で綴じるだけだから」
 はい、とホッチキスを綾に渡す。
 綾は頷き、黙々と作業を始めた。樹も滅多にしない、いつもなら生徒たちにさせる作業をする。
 カサカサと紙の擦れる音。カチカチとホッチキスで綴じる音だけが、雨音の中で小さく響く。
 やる気の起きない作業。早く終わらせても仕方がないので、適当に進める。
 綾はなにを考えながら作業をしているのか―――。
 単純作業を文句も言わずにしている綾は無表情だ。
「雨、やまないな」
 軽くため息混じりに窓の外に目をやり、樹は言った。
 作業は放置し、デスクを意味なく指で小突く。
「………吸いたいなら吸っていいですよ」
 綾が手を休めることなく言う。
 ちらり視線を向けるも、綾は作業を続けたままで視線を返すこともない。
「校内禁煙なんでな、残念ながら。雨が止んでたらベランダ出て吸うんだけど」
 言われたら吸いたくなるな、と考えながら返事する。
「……先生ってヘビースモーカーっぽいですよね。平気なんですか」
「まぁ、大人だからな。学校ではセーブしてますよ」
 その答えに、綾の表情が少しだけ動いた。
 無表情な顔が一層無表情に―――、なにかを押さえ込むような、一瞬の動き。
(……遮断されてんな、俺)
 デスクの上に肘をつき、綾を眺める。
 綾が樹を無視するようになる前まで、綾との会話のなかに時折密かな楽しみがあった。
 手は出さない、だけどもそれなりのサインをさりげなく送っているつもりだった。
 そしてそれを綾が受け取っている、と思っていた。
 すべて素直に受け取られているとは限らないが、綾以外に"素"を見せるようなことはしない。
 なにを気にし、なぜ自分が拒絶されているのか。
 樹は綾に視線をとめたまま、あえてからかうような口調で話しかけた。
「広瀬サンは、今日はご機嫌斜めなのかな? ああ、彼氏とケンカしたから?」
 冷ややかに綾が呟く。
「先生、見かけによらず大人気ないんですね」
 綾にしてはキツイ言い方。
 はっきりとした拒否反応に、――――樹は笑みを消した。






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2009,5,22