『直哉の哀しき街角』











「あずさ先輩〜」
 可愛らしい声が精一杯大きく呼びかけた。
 聖華学園高等部生徒会生徒会長の白鳥あずさは聞き覚えのある声に笑顔を浮かべて振り返る。
 中等部3年の木之宮名乃が息を弾ませながら、走ってきた。
 今は昼休み中。
 あずさのファンクラブ会長もつとめるほどの、あずさ好きの名乃。
 今日は焼いてきたクッキーを食べてもらおうと高等部までやってきたのだ。
 きれいにラッピングされたクッキーの入った袋をもって、名乃は嬉しそうに走りよる。
 あと1メートル、といったところで、名乃はなにもないところで足を踏み外して身体をふらつかせる。
 転ぶ、と思ってクッキーの袋を抱きしめた瞬間、ふわっといい香りがして名乃の身体が抱きとめられた。
 その腕にしがみついてバランスを立て直しながら見上げると、あずさが微笑んでいた。
「大丈夫?」
 名乃はとろけそうな顔でコクン、と頷く。
 そして思い出した。
 『あの時』もこうしてあずさに助けられ、そして出会ったのだ、と。
















 桜が満開だった。
 広大な敷地をもつ聖華学園へとつづくのぼり坂を木之宮名乃は友人の井坂愛李(あい)と一緒に歩いていた。
 新しいグレイのブレザーに襟元につけられた、学年を表すピンクのリボン。
 まだおろしたての制服は少し大きくて、でもなんだか嬉しい。
 エスカレーター式(もちろん途中から入ってくる生徒もいるが)の聖華学園。
 今日、名乃は初等部から中等部へと進級したのだ。
 そして今日は入学式。エスカレーター式でもそれぞれ式はある。
「ねえ名乃ちゃん、まだちょっと時間あるし。桜見て行かない?」
 ボブショートの愛李がくりくりとした目を楽しそうに名乃に向けた。
「うん! 行こ〜」
 幼等部から高等部までは同じ敷地内にある。
 だから桜並木はいつも見ているのだが、今日は特別な日だ。
 そして久しぶの登校だから懐かしくもあった。
 学校周辺をぐるりと囲む桜。
 淡いピンク色の花びらが風にふかれて、はらはらと落ちている。
「綺麗だね〜」
 言いながら名乃は桜を見上げて歩いていた。
 ずっと顔を上げて見ていたから、名乃はわずかな段差に足を踏み外す。
 ガクンと膝が折れて、あっと手を宙に投げ出す。
「きゃ」
 思わず声が漏れた次の瞬間、背中に暖かさを感じた。
 地面の痛さをかんじることなく、自分が誰かに助けられたのだと気づく。
 愛李かと思い顔をあげる。
 ふわっとフローラルな香りが名乃をつつんだ。
 そして名乃を抱きとめた人物と目があった。
「大丈夫?」
 その声はとても通っていて、とても綺麗だった。
 長いまつげの下のやや大きな瞳が優しく名乃を見ている。
 名乃はぽかんとして、そして硬直した。
 あまりのその女生徒の綺麗さに驚き心を奪われてしまったのである。
 その女生徒は固まっている名乃を不思議そうに見て笑い、名乃に手をかして身を立たせてやった。
「ちゃんと前見て歩かなきゃ駄目だよ?」
 こぼれるような笑顔。
 その女生徒の微笑はどこかあどけなさを感じるが、それでも大人びた雰囲気が漂っていた。
「気をつけてね」
 女生徒が言い、名乃の腕から重みが消えた。
 自分をささえるようにつかんでいた女生徒の手。
 長く細いその指を目で追いながら、名乃は名残惜しそうに自分の腕をにぎった。
「……あ…あの……ありがとうございました…」
 女生徒が身を翻そうとしたのを見て、名乃は慌てて呟いた。
 女生徒は小首を傾げて、名乃を見、そしてポカンとしてしまうほどの艶やかな顔で笑った。
 そして女生徒は去っていった。
 放心し続ける名乃のもとへ、すこしして愛李がやってきた。
「名乃ちゃん? 大丈夫? よかったね助けてもらって」
 なんの反応も無い名乃に愛李が心配そうに覗き込む。
「どうしたの?」
 名乃は口をパクパクさせて愛李を見た。
 金魚のように口を動かす名乃。
 愛李は困ったように、眉をよせる。
「どうしたの?? 名乃ちゃん?」
「………あ…愛李ちゃん……。いまの…人」
 ようやく名乃は声を出した。
 愛李はきょとんとする。
「あずさ先輩?」
 名乃は弾かれたように愛李を見る。
「知ってるの? 愛李ちゃん!」
「知ってるって生徒会長の白鳥あずささんでしょ」
 言われて名乃は目を瞬かせた。
 白鳥あずさ、今年度の中等部生徒会長に就任した中等部2年生。
 白鳥あずさといえば初等部にいた頃から有名だった。
 頭がよく、性格もよく、そして美しく可愛い。
 もちろん1学年上の先輩だから名乃は初等部にいたときから、その存在を知りはしていたが直接会ったことも話したこともなかった。
 だから、知らなかったのだ。
 あんなに……、
「素敵〜!!!」
だったなんて…。
 目をキラキラと輝かせ、唐突に叫んだ名乃に愛李はぽかんとする。
「……な…名乃ちゃん…?」
 名乃は胸の前で手をぎゅっと握り締めて、ほうっとため息をついた。
「あずさ先輩…ってすごくステキ…」
 うっとりと目を細め、どこかを見てる名乃。
 愛李は名乃の目の前で手をパタパタさせる。
「名乃ちゃ〜ん」
 まるで恋する乙女、といった感じだ。
 なかなか可愛い顔をしていて、性格も女の子らしい名乃。
 本気で王子様がうんぬん…といい出しそうな名乃だから愛李は嫌な予感にとらわれた。
 それに白鳥あずさは男子だけでなく、女生徒にも人気がたかいのだ。
「ね! 愛李ちゃん。あずさ先輩って部活とか入ってるのかな」
「……生徒会があるから何もしてないと思うけど」
「……生徒会…」
 呟いて、名乃がにっこりと笑った。
「中等部一年生の最初の行事は生徒会役員の選出だったよね」
「……うん…?」
 相槌をうって、愛李は、まさかと思った。
 そして次の瞬間、名乃は愛李の手をとって、ぎゅっと握り締めた。
「愛李ちゃん、私、生徒会に入る!」
 そう名乃は高らかに宣言したのだった。
 突然春…がきたらしい名乃に愛李はただ苦笑いをするほかなかった。
 遠くでチャイムが鳴った。
 愛李が時計を見ると、9時半近くをさしていた。
 入学式は10時からだが、そろそろ受付に行っておかなけらばならない。
「名乃ちゃん、行こ」
「うん」
 そうして少女二人は桜並木をあとにした。

 それから1ヵ月後、中等部1年生の生徒会役員選でみごと名乃は書記の役職につくことになった。
 めでたく名乃はあずさ率いる生徒会メンバーとなり、公私ともに親しくなることが出来たわけである。














「名乃ちゃん??」
 怪訝そうなあずさの声が聞こえてきて、名乃ははっとした。
 どうやら昔のことを思い出していて惚けていたらしい。
「大丈夫?」
 あずさが2年前よりも大人っぽくなった笑顔を向ける。
 名乃は見惚れながら、小さく頷いた。
「あずさ先輩、これ焼いてきたんです」
 クッキーの袋をあずさに差し出す。
「名乃ちゃんの手作りクッキー美味しいんだよね〜」
 あずさは受け取りながら嬉しそうに笑った。
 名乃も嬉しそうに微笑む。
(入学式の日、桜を見に行ってよかった…)
 あずさの笑みを見つめながら、名乃はそっと呟いた。

 と、そこへ「名乃ちゃ〜ん」と、ハートマークをつけてそうな声色で叫びながら一人の男子生徒がやってきた。
 名乃の彼氏であり、あずさの友人の白石直哉だ。
 直哉は二人のところに来ると、あずさの手の中にあるラッピングされた袋をみた。
(………お菓子…か…?)
 不吉な予感にとらわれながら直哉はあずさをちらり見て、名乃に笑顔を向ける。
「二人でなにしてんの?」
 さりげなく名乃の手になにもないことを確かめながら、直哉は言った。
 名乃は天使のような笑顔で、直哉を見る。
「きのうクッキーを焼いたから、あずさ先輩に食べてもらおうと思って渡しにきたの」
 なんの悪びれもない名乃。
 笑顔をやや引きつらせる直哉。
 その横で、そっとため息をつくあずさ。
「それじゃあ、あずさ先輩。食べてくださいね」
「え、あ、ああ。うん。ありがとう、名乃ちゃん」
 あずさが言い、名乃が頬を赤らめながら「また作ってきますね」と笑う。
 そして木之宮名乃は大好きなあずさ先輩に別れをつげ、中等部へと帰って行ったのだった。
 
 名乃を見送って、しばらくして直哉が呟いた。
「なぁ……あずさ、俺の分のクッキーは…」
 名乃の彼氏である直哉の重い言葉。
 あずさはラッピングをとき、クッキーを一枚頬張りながら、
「さぁ……」
と、返す。
 そしてもう一枚、クッキーを取り出すと、直哉に差し出した。
「食べる?」
 直哉はぎっと嫉妬の目であずさを睨みつける。
「いらねーよっ!」
 強がりの言葉を聞き、あずさは不憫だね〜、と呟いたのだった。














 余談ではあるが、名乃の中等部入学式の日、実はもう一つの出会いがあった。
 入学式が終わったあと教室へと向かっていた名乃が一人の男子生徒とぶつかったのだ。
 反動でこけそうになった名乃を抱きかかえて助けた男子生徒。
 その男子生徒はその時、名乃に一目ぼれをし、1年後付き合うことになるのだが…。
 名乃はこの出会いをまったく覚えていなかった………。


mini end.

2003/2/3/mon.