『第18話』





 目覚めると鳥のさえずりが聞こえた。
 どれくらい眠っていたのか。
 ひどく頭がぼんやりした。
 時計を見て、サラはまた目を閉じる。
 あと1時間ほどで朝食の時間だ。
 昨日の夕方から今まで、眠りすぎてしまったためにこんなに頭がはっきりしないのだろう。
 サラはため息をつき起き上がった。
 額を押さえ、しばしぼんやりとする。
 そして顔を洗い、着替えた。
 カーテンを開ける。
 朝日が眩しくて目を細める。
 十分すぎるほどの睡眠をとったのに、身体はだるい。
 大きく伸びをして、薔薇園へ向かった。
 数日振りに母のための薔薇を摘む。
 その間もただ黙々と手を動かすだけで、なにも考えない。
 疲労感が、逆に考えることを止め、サラにはありがたかった。
 篭一杯に薔薇を摘み終えると、母親の部屋へ行く。
 部屋にはメイドがいた。
 挨拶と母の容態を聞く。
 落ち着いていられますよ、とメイドが言う。
 そう、と微笑を返しながらベッドに眠る母親を見る。
 昨日よりもだいぶん呼吸は穏やかで、顔色もよかった。
 ベッド脇テーブルの花瓶を取り、奥の洗面所で薔薇を活ける。
 薔薇はみずみずしくかぐわしい芳香を放っている。
 だがその芳醇な香りさえ、いまのサラには強すぎてきつい。
 新しい薔薇の入った花瓶を抱え、もとあった場所に静かに置く。
 そしてベッドの傍の椅子に座った。
 何も考えずに、母親の顔を見つめる。
 儚げで、ずっとベッドの上で過ごす母。
 痩せているがとても美しく優しい母。
 サラの虚ろな瞳が、徐々に悲しげな光を帯びていく。


「なんで……………………」


 微かに漏れた言葉は感情のともなわないもの。
 そしてその言葉に母親の目がうっすらと開いた。


 朦朧とした眼差しは宙を彷徨い、傍らに居るサラに止まる。
 我が娘の姿を数十秒見つめ、ようやく現実を認識した。
 アルバーサの頬がわずかに緩む。
「――――――サ…ラ…」
 久しぶりに聞く声にサラはそれまでの暗い表情を消し、微笑を浮かべた。
「お母様」
 アルバーサは目に涙を滲ませ、冷たい手をサラへと延ばす。
 力ないその手を、そっと握るサラ。
「………ごめんなさい…ね……」
 か細い声でアルバーサが言った。
 それは心配をかけたことに対する言葉なのだろう。
 だがサラには別の思いで、痛く聞こえる。
「いいの。お母様の元気な姿を見れれば」
 にっこり笑うと、アルバーサはほっとしたように微笑む。
「お母様。もう少しゆっくり休んでいたほうがいいわ」
 優しく声をかけると、アルバーサは小さく頷いて目を閉じた。
 まどろみの途中だったのだろう、アルバーサはまたすぐに寝息を立て始めた。
 サラはじっとアルバーサの寝顔を見つめる。


「お母様―――――。ヴィックのためにも早くよくなってね…」
 

 複雑な想い。
 認めたくない。
 だがヴィクトールもまた今回のアルバーサの容態の急変にどれだけ心を痛めたか。
 どんな思いで自分のそばにいてくれたか。
 それを考えると、胸が苦しくなる。
 サラはぎゅっと唇を噛み締めた。

























 食堂に向かっていると後ろから声がかけられた。
「おはよう、サラ」
「――――おはよう、マリス」
 笑みを浮かべるも、昨日のことを思い出し微かに強ばる。
「体調は大丈夫? きのう夕食にも来なかったから心配してたの」
 そう覗き込むマリス。
「……うん…。大丈夫よ。ずっと寝てたから。もう寝すぎてお腹空いちゃった」
 お腹に手をあて、冗談ぽく言う。
 マリスは声をたてて笑う。
「じゃあ、早く行って、たくさん食べなきゃね」
「うん」
 笑顔を返しつつ、マリスの横顔をそっと盗み見る。
 今日、マリスはラナルフに会いに行くのだ。
 そしてラナルフは彼女にパリ行きを告げる。
 ラナルフは自信がなさそうにしていたが…。
「………マリス」
「なぁに?」
 明るい笑顔を向けられて、なんでもない、と首を振った。
 だが、しばらくの沈黙の後、
「……今日…楽しんできてね」
と言った。
 どんな未来が彼女に待っているのかはわからない。
 だが幸せになって欲しい、そう思った。
 思いが叶うことのない自分の分まで。












 食堂に入ると、ヴィクトールがすでに席についていた。
「おはよう…」
 動悸が急に速くなっていくのがわかる。
 必死で笑顔を浮かべる。
「おはよう、ちゃんと休めた?」
「うん」
 だが視線をどうしても合わせられず、椅子に座りながら、逸らす。
「きのう、あの後外出したんだろう?」
「…………ちょっとどうしても…食べたいお菓子が…あって」
 苦しい言い訳。
 思わず引きつった笑みが浮かぶ。
 だがそれを照れ笑いととったようで、ヴィクトールが笑いながら、
「メイドに頼めばよかったのに」
「………うん…。でも…すぐ食べたくて…」
 言っているうちに恥ずかしくなってきて、うつむく。
「でも…その行動力の良さが、サラの良さだしね」
 優しい眼差し。
 サラは思わずじっとヴィクトールを見つめた。
「どうかした?」
「え、あ、ううん。なんでもない」
 慌てて視線を逸らす。
 テーブルの下でぎゅっと拳を握り締めた。
  自分に向けられる眼差しが笑顔が、愛しくてたまらない。
 血の繋がった兄だと知っても、好きでたまらない。 


 でも、諦めなければ。



 考えないようにしなければ、ヴィクトールのことを。
 考えないように、忘れて、そうしたら―――。
 いつかこの恋する想いも変わるのだろうか。
 いつか―――――。












 だけど。
 そんな想像など、そんな未来など―――本当は――。










 考えたくない。




















* * *






















 大通りで馬車を止めてもらい、マリスは弾む足取りで通りをゆく。
 逸る気持ちを抑えながら、だが頬が緩むのを止められない。
 もう“彼”の住む裏通りへの道も完全に覚えてしまった。
 ようやくアパートメントへとたどり着き、古く軋む階段をしずかに、だが急いで駆け上がる。
 そしてドアの前で立ち止まる。
 大きく深呼吸をして、身だしなみを整える。
 ノックをしようと手を上げる。
 と、瞬間ドアが開いた。
 思わず息を飲んで、立ち尽くす。
「やぁ。いらっしゃい」
 優しい笑顔がマリスを迎える。
 それを見つめ、次の瞬間満面の笑みが浮かぶ。
「ラナルフ」
 愛しい、とても大切な人。
 会いたかった、とすべての想いをこめて、微笑んだ。











 ラナルフはドアを開け、マリスを部屋の中へ入れた。 

 愛しい、とても大切な人。


 だけど――――――。


















 


















「やっぱり好きだわ、ラナルフの絵」
 キャンバスを覗き込み、マリスが言った。
 部屋へ来て数時間、ラナルフはマリスの絵を描いていた。
  真剣に絵を見つめるマリス。 
 ラナルフが描いたからというのではなく、一人の画家として絵の出来を見ているマリスが好きだった。
 ラナルフはそっとマリスの頬に触れる。
「ありがとう」
 マリスは微笑を浮かべラナルフを見つめる。
「ぜったい、素晴らしい絵描きになるわ」
 自分のことのように、熱っぽく言うマリスの腕を引き、抱き寄せる。
 吐息がかかるくらいの距離。
 腕の中にいるマリスはわずかに頬を染め、瞳を潤ませる。
 そっと口づける。
 じっと互いを見つめ、マリスが目を閉じる。
 さらに深く口づけを交わす。
 柔らかな亜麻色の髪に指をもぐらせる。
 華奢な身体も、愛しそうに自分を見つめる瞳も、この腕の中。 


「――――――マリス」


 うっとりと自分を見つめるマリスに、ラナルフは囁いた。



 この腕の中に、ずっと抱きしめていられたら。 


 マリスはラナルフの胸に頬を寄せ、なぁに?、と呟く。
 亜麻色の髪を撫でながら、心の中でため息をつく。
 これから彼女に告げなければならないことを思って。
 まるで子供のように、告げることを怯えている自分が、可笑しかった。


 


「マリス」


 マリスが視線を向ける。
 ラナルフは深く息を吸い込み、そして微笑んだ。
「君に、報告があるんだ」
 報告?、マリスが小首をかしげる。


「ああ。――――――実はね…」





 君は俺がどれだけ君を想っているか知っているだろうか?


 『恋』しか知らない君には、わかってもらえないだろうか?


 この腕の中にずっと居て欲しいという想いを。


 君といつかは―――――――。









 




「パリへ、行くことになったんだ」




 わかってくれるかい?

 離れたくないと、その想いが行き着く先を。