『プロローグ』








 遠くで悲鳴が聞こえる。
 視界がぼやけてなにも見えない。
 視界が……真っ赤にぼやけて………。






















『第1話』








 真っ白なクリーム色の雲が空に広がっていた。
 太陽の光にその形をくっきりと浮かべ、爽やかな風とともに流れる。
 その空に響き渡るせみの鳴き声。
 夏の陽射しはベランダのカーテンを揺らす風とともに部屋に入ってくる。
 その部屋の一角でサラ・ヴィリアーズは薔薇を活けていた。
 深いグリーンと白の混ざり合った花瓶に1本づつ綺麗に見えるように注意しながら活ける。いつもなら薔薇を摘み、薔薇を活けるのは病弱な母親のため。
 だが今日は新しい家族のためだった。
 サラの父ヴァスはいまその新しい家族となる青年を迎えに行っている。
 父親の亡き親友の息子だという青年。
 半年前に父親を亡くした青年は18歳。
 自立してもおかしくない年だったが、ヴァスはなぜか彼を引き取りたがったのだ。
 親友の息子といいながら実際サラはいままでその青年に会ったことがない。
 そしてその父の親友という人物の話も、この話があがったときに始めて知ったのだ。
 十数年疎遠になっていた親友。だが、その死によって父親ヴァスは親友と連絡を取らなかったことを後悔したのだ、と言った。
 そしてその忘れ形見である息子を引き取り、ほんの数年だけでも見守ってやりたい、と。
 そうして今日、その青年はこの屋敷へと来る。
 母はこの屋敷に他人が入り込むことを最後まで嫌がっていた。だが一人っ子であるサラは3歳上のこの青年が兄のような存在になってくれたら、と心を弾ませていた。
 サラはウキウキとしながら薔薇を活け続ける。
 自分が毎日手入れをしているこの薔薇が青年に気に入ってもらえるように。
 一度何かし始めると熱中しすぎてしまうサラは玄関で馬車が止まる音がしたことに気づかなかった。















 侍女たちの出迎えを受け、馬車から降りたヴァス。
 その後ろから一人の青年。
 侍女たちは表情には出さないが好奇の目で青年を盗み見る。
「ヴィクトール、執事を紹介しておこう。モートンだ」
 ヴァスが横に並んだ青年・ヴィクトールから正面に立つ執事へと視線を流す。
 その視線を受けモートンは丁重に挨拶をし、頭を下げる。
 そしてさりげなく観察。
 銀髪とダークブラウンの瞳。誠実さを感じさせる笑みを浮かべた青年は、スラリとした長身で姿勢よく背を折る。
 正しい言葉使いでの挨拶からはヴィクトールの人柄の良さと温かさが現れていた。
 モートンは青年に好感を持ち、微笑を浮かべる。
「ヴィクトール様、御用の際は遠慮なく申し付けください」
 軽く頭を下げ言ったモートンにヴィクトールは爽やかに微笑み返す。
「ありがとう、モートン」
 モートンがヴィクトールを気に入ったのを感じたヴァスは自分のことのように嬉しく思いながら、ヴィクトールに視線を向ける。
「ヴィック、長旅で疲れただろう? 部屋へ案内させるから夕食までゆっくりと休んでいるといい。みんなには夕食の時に紹介しよう」
「はい、ありがとうございます。……しかしアルバーサ様にはご挨拶をしておきたいのですが」
 ヴィクトールの言葉にヴァスは「そうだな」と呟き、モートンを見る。
 モートンは残念ながら、と表情を締めて口を開く。
「旦那様、奥様はお加減が優れないそうで、お休みになられております」
「発作か?」
「いいえ」
 サラの母であり、ヴァスの妻であるアルバーサは心臓を患っていて、日々をベッドの上で過ごしている。
「それでしたら後ほどにしたほうがいいですね」
 ヴィクトールが心配そうに顔を曇らせる。
 だがヴァスはわずかに首を振る。
「いや…発作でないならいいだろう。挨拶だけだ。それに早く紹介しておきたいからな」
 ヴァスの言葉にヴィクトールはそっと息を吐く。
 そしてモートンが促し、一同はアルバーサの部屋へと向かった。

















 ノック音が響いた。
 ベッドに横になっていたアルバーサは侍女の手を借りて身を起こす。その肩に侍女がショールを羽織らせているとヴァスが入ってきた。
「気分はどうだ?」
 優しい声にアルバーサは安心させるように微笑みを浮かべる。
 ヴァスは枕元に来ると、アルバーサの手を握った。
「休んでいる時にすまないな」
 アルバーサが静かに首を振る。
 柔らかな亜麻色の髪を一つに束ねたアルバーサは色白でやつれてはいたが、それを補うだけの美しさと気品が備わっている。
 アルバーサはヴァスから視線を流し、部屋の入り口に立っている青年を見た。
 逆光でその顔立ちはまだ解らない。
「彼……?」
「ああ、君に挨拶をしたいそうだよ」
 ヴァスの言葉とともにヴィクトールが静かに歩み寄る。
「こんにちは、アルバーサ様。お休み中に申し訳ありません。今日からお世話になります、ヴィクトール・グレアムです」
 気遣わしげに微笑みお辞儀をするヴィクトール。
 そのヴィクトールの姿に、アルバーサの顔から血の気が引いていった。真っ青になった妻に気づき、心配げにヴァスが覗き込む。
「どうした、大丈夫か?」
 アルバーサは強ばった顔に無理やり笑みを浮かべる。
「大丈夫です…。……あまりにジョージに似ていたもので……驚いたのです」
 ヴィクトールの父親ジョージ。
 ヴァスは頷きながら、ヴィクトールを見つめる。
「ああ、……とっても似ているな」
 ヴィクトールを見つめる眼差しには優しさと、そして亡き親友への想いが込められている。
 ヴィクトールの艶やかな髪や優しい目元、そして微笑が何より似ていた。人を和ませる柔和な笑み。
 亡き親友を思い出し、ヴァスの目頭が熱くなる。
「アルバーサ。君が彼に会うのは16年ぶりだったかな?」
 目を閉じ、気持ちを入れ替えながらヴァスが言った。
 ヴィクトールがアルバーサを見つめ、アルバーサはさりげなく視線を逸らす。
「……それくらいになるでしょうね…」
 小さく呟く。
「ヴィック、君は憶えていないだろうな…。君の生まれた静養地にアルバーサも3年ほどいたんだよ」
 半開きの窓から乾いた風が入ってきた。
 髪が揺れ、ヴィクトールは静養地を思い出す。
 心地よい風が吹く草原、田舎町の静養所。
 そして静養所の医師であった父とヴィクトールは5歳になるまでその町で暮らした。
「…ええ。父から聞いていました…」
 ヴィクトールは目を細め、言う。
 アルバーサは物憂げな眼差しを空中に彷徨わせ、目を伏せた。少し動悸が速くなってきているのを感じる。
 ヴァスの手に手を重ね、
「ごめんなさい…。ちょっと休みたいのだけど…」
と言った。
 ヴァスは「ああ」とアルバーサを横にさせて、立ち上がる。
「ゆっくり休んでいなさい。夕食は気分が良くなったらくればいい」
 アルバーサは小さく頷く。
 そしてヴァスとヴィクトールは部屋を後にする。
 部屋から出る寸前、ヴィクトールはアルバーサを振り向いた。
「おば様のお加減が良くなられることを、お祈りしています」
 心から心配している優しい声。
 だがアルバーサはなにも答えず、目を閉じた。
















 ヴァスと別れ、侍女に部屋へ案内されたヴィクトールは窓際の椅子に腰を下ろし、大きなため息をついた。
 襟元を緩め、侍女が入れてくれた紅茶を飲むとやっと落ち着いた気がする。
 広々とした部屋を眺め、今日から自分はここで暮らすのだと思うと不意に慌しかった半年間が甦ってきた。
 一年前突然父が病に倒れ、そして半年後死んだ。
 葬儀のときヴァスが現れ、初めてヴィクトールは彼と対面し、それから1週間もたたないうちにヴァスはヴィクトールを引き取りたいと言ってきたのだ。
 ヴァスのことは父親から話だけは聞いていたし、彼といろいろなことを話し、ヴィクトールは彼の好意に甘えることにした。
 それに父親ジョージが開く予定だった病院のこともあった。ヴィクトールとしては勉学と病院のこれからをゆっくりと考え、動く必要があったから専念できる生活が欲しかったのだ。
 貿易商を営んでいるヴァスなら力になってくれるだろうとも思えた。それになにより、父親と二人暮しだった自分が家族と言う言葉に強く引かれたのも事実だった。
 と、突然、物思いにふけっていたヴィクトールの部屋の扉がノックもなしに開く。
 パタパタと忙しげな足音を立てて、ブロンドのウエーブがかかった髪を大きく揺らしながら少女が駆け込んできた。
 手には緑を基調とした花瓶と薔薇。
 それを中央のテーブルに置き、身を離して薔薇と花瓶の調和が取れているかの最終チェックをしている。
 窓際のヴィクトールの姿はどうやら視界から外れているらしく、気づいてないらしい。
 ヴィクトールは突然の訪問者をしばらくきょとんとして見ていた。着ているドレスから侍女ではないことがわかる。
 年のころは15・6歳。
 ヴァスの娘のサラだろうことが、容易にわかった。
 さていつ声をかけようか考えながらティーカップを置くと、その音にサラが振り返った。
 サラは窓際に見知らぬ青年の姿を認め、後退りをする。
「な……あ…」
 顔を真っ赤にさせてしどろもどろになっているサラ。
 ヴィクトールは頬を緩めながら立ち上がり、近づく。
「ごめんね、声をかけようとは思ったんだけど、忙しそうだったから」
 屈託のない笑顔だったが、恥ずかしいのかサラは何も答えず立ち尽くしている。
「サラ、だよね? こんにちはヴィクトールです。よろしくね」
 呆然としているサラに、首をかしげ覗き込む。
「どうしたの?」
「は………え…あの……。いつから……ここ…に」
「ずいぶん前に到着して、もうおば様にも挨拶をしてきたんだよ。紅茶を飲んでいたら君が入ってきたんだけど」
 言ってヴィクトールはにっこりと微笑んだ。
 サラの胸がドキン、と高鳴る。なんて素敵な笑顔なんだろう、と思わず見惚れてしまう。
 ぼーっと自分を見つめているサラにヴィクトールはきょとんとしたあと吹き出した。
 サラはハッとしてさらに顔を真っ赤にする。
 ヴィクトールは笑いをおさめながら、薔薇に目を移した。
 芳醇な香りに気持ちが落ち着く。
「綺麗だね。これはこの家で栽培しているのかい?」
 訊かれてサラはベランダのほうに視線を流し、頷いた。
「はい。ちょうどベランダから見えるんですけど、薔薇園があるんです。お母様が薔薇を好きなでお父様が造られたんです……」
 ヴィクトールはサラの話を聞きながら、薔薇に顔を近づけ目を閉じる。
「僕も薔薇は大好きなんだ。花言葉は『情熱』だったよね」
「…………たぶん…」
 あまり詳しくないサラは曖昧な笑みを浮かべて相槌を打つ。
 ヴィクトールはサラを見て、輝くような笑顔を浮かべた。
「僕はね、薔薇だけじゃなくて花が大好きなんだ。フリージア、清楚なマーガレット、高潔な百合…」
 微笑がじょじょに恍惚の表情へと変化していく。
「あとラベンダーや蘭。ガーベラ…。ほんと花って見ているだけで心が和むんだよね。花売りなんかに出会えば即買ってしまうしね」
 初めは相槌を打つように頷いていたサラだったが、次第に目が点になる。
(たしかにこの人…花が似合っているけど…。でも…この人、お友達なんかともこんな話しているのかしら…)
 ポカンと考えているサラに、最後の一撃が加わる。
「僕はね、サラ。子供の頃は蜂になりたかったんだ」
「は…ち……?」
「そう! 蜜蜂にね。そうすれば世界中の花々を飛びまわれるだろう?」
 熱っぽい口調で拳を握り締め、ヴィクトールが熱いまなざしをサラに向ける。
 二人はしばし見詰め合った。
 そしてサラの身体が微かに震えだす。
 じょじょにこみ上げてくるある感情を必死に抑えようと葛藤するサラ。
 だがどうしてもこらえきれず、次の瞬間大きな笑い声が部屋の中に響き渡った。
 今度はヴィクトールが目を点にする番だった。
「…………サラ…?」
 サラはおなかを抱えて容赦なしに笑いまくっている。
「み、蜜蜂!!! 18歳にもなるのに蜜蜂!! 蜜蜂って!!」
 そこでようやくヴィクトールは状況が飲み込めたらしく、完熟トマトのように真っ赤になる。
「……あ、あのね、サラ? 蜜蜂は子供の頃の夢でね…。いくらなんでも今の僕の夢はほかにあるし、それに無理だって知ってるし……。まぁなれるんだったらなりたい…けど……」
 言い訳なのか何なのか、サラに向かって慌てて言い募るヴィクトール。
 サラは笑いを止めて、ヴィクトールを見た。
 ホッとしたようなヴィクトールと目が合い、見つめあう。
 そしてまた次の瞬間、サラは笑い出していた。
 延々と笑い続けていそうなサラにヴィクトールは打ち解けられたことを喜ぶべきか、笑われていることを恥ずべきか、と悩む。
 そしてただ苦笑するしかなかった。












***














 ぷっ…、穏やかな空気が流れる空間を壊すように笑い声が漏れた。
 ヴィクトールは本から顔を上げ、テーブルを挟んで正面に座っているサラを見る。
 7月上旬ということもあって陽射しは強い。
 それでも幾分涼しい風が白いレースのカーテンを揺らし入ってくる。
 本に顔をうずめているサラの髪も揺らしていく。
「なに? どうしたんだ??」
 きょとんとしたヴィクトールの声に、サラは目の端に涙を滲ませて顔を上げる。
「あのね…。ヴィクトールがはじめてこの屋敷に来た日のこと、はじめて会ったときのことを思い出していたの」
 サラの言葉にヴィクトールの表情がだんだんと不快感を露にしていく。
「あの、蜜蜂宣言のこと! 思い出したらおかしくって」
 にこにこと頬が緩みっぱなしのサラに、ヴィクトールはわざとらしく大きなため息をついた。
「まさかこんなにサラがしつこい性格だとは思わなかったよ」
 憮然と呟くヴィクトールにサラは慌てて愛想笑いを浮かべ、ヴィクトールのために紅茶を注ぐ。
「ごめんなさい〜っ。でも…ほんとすごい威力よねぇ。一年も前のことなのに今でもこれだけ笑えるんだもの」
 そうあの日からあっという間に一年がたった。
 ヴィクトールとはとても仲良くなった。
 それも『蜜蜂』発言のおかげ、といっても過言ではない。
 サラはそのことに感謝しながら、また思い出し笑いをしながら紅茶を飲む。
 サラの中で、ヴィクトールの存在はこの一年で特別なものになっていた。
 いや、出会ったあの日からヴィクトールに恋をしていたのかもしれない。
 優しい笑顔、優しいヴィクトール。
 サラはティーカップから伺うようにヴィクトールを見る。
 ムッとして本を読んでいたヴィクトールだったが、すぐにため息をついて微笑を浮かべる。
 それを見てサラも微笑む。
 なんてことのない時間。
 だけどもとても幸福な時間。

 なんとない幸せが、ずっと続くのだと、この時は思っていた。