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 手をきつく握りしめてふたりにわからぬように唇を引き結んだ状態で深く息を吸い込む。
 ―――冷静に。
 このオセの家でハーヴィスの傍で働き、そしてオーナーの代わりとして指示を出しているのは自分なのだ。
 それを忘れてはならない、と気を引き締める。
「なんでもないわ。ハーヴィスが帰ってきているか見に来ただけなの。よほど飲み過ぎたのかよく寝ていたわ」
 目を細め口角をあげ笑みを作り上げる。
 渦巻く不安や混乱を気づかれてはならない。
 マリアーヌのその想いが功をなしたのかマローは「そうですか」と短く答えた。
 だがエリックは―――厳しい表情のままマリアーヌを見つめている。
 エリックに視線を向けることができずマローに向かって口を開きかけた。
「……マリアーヌ様」
 しかしそれより先にエリックがマリアーヌの傍に歩み寄る。
 自分の目の前に来たエリックを無視することなどできず、笑みを張り付けたまま顔を上げた。
「どうかしたの?」
 エリックは一瞬目を眇めたがすぐに表情はなくなる。
「お顔の色が優れません」
「え?」
「少しお部屋で休まれたほうがよろしいのではないでしょうか」
 無表情に淡々とした口調ではあるが、瞳には反して心配そうな色が浮かんでいる。
 マリアーヌとしても正直すぐに仕事に戻れる心境ではない。
「……―――大丈夫よ」
 しかし逆を言えば仕事に没頭した方が何も考えずに済むのかもしれないという気もした。
 仕事に戻ります、と真っ直ぐにエリックの目を見つめ返し、そう言おうとした。
 だがまたエリックによって言葉は遮られる。
「マロー。マリアーヌ様を自室にお送りしてくる」
 エリックはマリアーヌの返事を聞かず、マローへと視線を向けた。
「エリック」
「わかった。―――マリアーヌ様、本日深夜クラレンス様がお越しになることになりました。もしお加減が悪いのでしたらそれまでお休みください」
 マリアーヌは『大丈夫』だと再び言おうとした言葉を飲みこんだ。
 クラレンスの対応をするのは自分だ。ハーヴィスはおそらく出てこないだろう。
 そんな気がした。
 だとすれば今の調子でクラレンスというこのオセになくてはならない人物を出迎えるのは万全ではない。
「……わかりました。少し休みます」
 胸の内でため息を落とす。
「マロー、それまでよろしくお願いします」
「はい、かしこまりました」
 軽く頭を下げるマローを目にし、目の前のエリックへと視線を戻す。
 なんと声をかければいいのか、迷ったほんの一瞬の間にマリアーヌの腰へとエリックの手が添えられた。
「お部屋までお送りします」
 変わらず淡々とした口調だったが有無を言わせない雰囲気がある。ぐっと腰に添えられた手が歩みを促すように押してくる。
 仕方なくマリアーヌは「ありがとう」と微笑みを作ると、歩を進め始めた。








「なにか御入用のものがありましたらおっしゃってください」
 マリアーヌの部屋につき、ソファーに座らせるまで傍についていたエリックはじっと見つめてくる。
 それが居心地悪く感じるのは何故だろう。
 エリックが帰ってくるのを待ち遠しく思うほどに、マリアーヌは彼を信頼し人として好きだった。
 だがいまなにか心に引っ掛かり素直に言葉を紡ぐことができない。
「……大丈夫。ありがとう、エリック」
 目を合わせることができずエリックの肩あたりを眺めながら礼を言う。
 いえ、と返事があり―――沈黙が落ちた。
 エリックが部屋を出ていく気配がない。
 微動だにしないエリックからなにか責められている気分になり目を伏せた。
「……ローランド様は」
 重苦しい沈黙の落ちた室内にわずかに冷えた声が響いたのはしばらくしてからだった。
 突然出てきた名前に意味がわからず、つとマリアーヌは顔を上げる。
 視線は合わない。
 エリックは窓の方を見ていた。
「あの方はお優しい方です。………貴女を大事にされるでしょう」
 思わずマリアーヌは眉を顰める。
 なぜそんなことを言いだすのだろうか。
 ローランドが自分に好意を寄せていることはまわりに知られているのかもしれないが、それにしても今までそんなことを言われたことなどなかった。
 なぜ、いま―――。
 わからない、という気持ちの隅に競りあがる不安と予感。
 マリアーヌはたまらずに立ち上がりエリックを見据えた。
「エリック、どうしたというの? 今日はおかしいわ。それに―――ローランド様と私は何の関係もないわ。あの方と私は」
「毒が」
 ずっと窓の方にあったエリックの視線がゆっくりとマリアーヌに向けられる。
 そしてその瞳に射すくめられる。
 冷たく、だけれど熱をはらんだ瞳。
「まわられているだけです」
 肌が、粟立つ。
 ハーヴィスの部屋で、ベッドの上で快楽ゆえにそうなったのとは違う。いま身に迫っているのは息が止まりそうなほどの混乱と不安。
「………毒?」
「そうです。貴女は性質の悪い毒に侵されてるのです」
 なにを、言っているのだろうか。
 意味がわからなかった。
 だがエリックは真剣な顔をし、目を逸らさない。
「……なにを」
 エリックの空気に呑まれてはダメだと、必死に微笑を浮かべようとした。
 が―――。
「……っ」
 伸ばされた手。それが胸元に触れる。
 白く柔らかく隆起したそこにエリックの指が添った。
 まるで首に剣を突き立てられたかのような恐怖と威圧感。
「ここにも毒を盛られた……痕がある」
 冷たい指が数度肌の上を滑る。
 マリアーヌはただ立ち尽くしていた。
 ゆっくりとエリックが動くのを、ただただ凍りついたように、見ていた。
 指が離れていく。
 かわりに―――ざらりとした生温かいものが肌を這った。
 それはほんの数秒のことだったが、ひどく長く感じた。
「消毒です」
 離れていくエリックの顔を呆然とマリアーヌは見つめる。
 いま起こったことが理解できない。
 エリックはいまなにをした?
「失礼します」
 凍りついたように固まるマリアーヌに頭を下げ、エリックは部屋を出ていった。
 扉が閉まる音が響いて、糸が切れたようにソファーへと沈んだ。
 心臓に鉛でも詰められたかのように息苦しい。
 いったい、なんだというのだろうか。
 ソファーの上に足を上げると、膝を抱え顔を伏せた。
 わからない。
 なにもかもわからなかった。
 エリックの舌が胸を這った感触はまだ残っている。それを頭から追い払うようにすると、混ざり合うようにして甦り、頭の中を占領するのはエリックの瞳と―――、最後に見たハーヴィスの俯く姿だった。
『毒を盛られた痕がある』
 その言葉の意味を知るのはそれから小一時間ほどしてからだった。
 鏡に立つ自分の姿に、気づいた。
 ドレスから覗く胸の隆起に赤い―――口づけの痕跡が残っているのを。
『性質の悪い毒に侵されてるのです』
 毒はゆるやかに体内をまわり、身体をすべてを浸食していく。
 その毒がなんであるか。
 もう―――手遅れだ、と。
 深い意識の底、マリアーヌは無意識の中で、そう思った。


 




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