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 満腹になると眠くなってしまう。
 マリアーヌは大きく口をあけて欠伸をした。
 とたんにニャァ、と咎めるようなカテリアの鳴き声。
 開けたままの口に手をあてて、そろそろと口を閉じながらマリアーヌはカテリアをさりげなく見る。
 とたんに空と同じ色の瞳と目が合う。
 まるでなんでも見通しているかのような、理知的な感さえあるカテリアの眼差し。
 マリアーヌはじっとカテリアを見つめ、ぽつりと呟いた。
「………可愛くない猫……」
 ぴくりと耳を動かすカテリア。
 不満げに鳴くと、テーブルの上で大きく伸びをする。
 飛び掛ってくる気だろうかと思わず身を引くマリアーヌの前で、カテリアはつんと顔を背けテーブルから飛び降りると花園の中に歩いていった。
 マリアーヌはテーブルの上を片付けて、カテリアを追いかける。
 だがすぐに周りの花々に目を奪われて屈みこんだ。
 空色をした花がある。小さい花びらが5枚だけ。だが、一箇所にかたまるようにして花の枝が伸びていて、見ようによっては大きな花にも見えた。
「これなんていう花なんだろ」
 そっと触れながら呟くと、隣でニャーと鳴き声。
 カテリアがそばに来ていた。
「知ってるの?」
 視線を向けると、カテリアは頷くようにマリアーヌを見上げる。
「なんて名前なの?」
 思わず聞く。
 ニャー、と答えるカテリア。
 マリアーヌはしばしカテリアを見つめて、大きなため息をついた。
「猫語なんてわかんないよ」
 不満げに呟くと、カテリアもさらに教えるかのようにニャーニャー鳴く。
「………カテリアってジョセフィーヌみたい……」
 特に深い意味はなく言った言葉だったが、カテリアにはよほど不満だったらしい。
 冷たい眼差しでマリアーヌを見つめると、一声鳴き、ぴょんと飛んだ。マリアーヌの肩から頭へと乗り、ぽーんと地面に降りる。
 びっくりして首をすくめたマリアーヌに、カテリアが目を細め鳴いた。
 からかわれたような気がして、マリアーヌはムッとする。
「なにすんのよっ」
 思わず叫ぶと、一向に気にせず逆に馬鹿にするようにカテリアが鳴く。
「ちょっと!」
 マリアーヌは頬を膨らませて、カテリアを捕まえようと手を伸ばした。
 だがカテリアはひらりと身をかわす。
 そしてまたからかうように鳴く。
 なんなんだこの猫!
 マリアーヌは着慣れないドレスのせいでおよそ身軽とはいえない足取りでカテリアを捕まえようと走り出した。 
 そうして気づけば鬼ごっこのようになっている。
 ぴょんぴょんと身軽に逃げ回るカテリアを必死に追いかけるマリアーヌ。
 わざとらしく立ち止まってマリアーヌの手が届きそうになったところで逃げるカテリア。
 いつの間にかマリアーヌは夢中になっていた。
 ひらりとカテリアが噴水の縁に逃げた。
 ニャー…、と挑戦的な眼差しでマリアーヌを見上げる。
 マリアーヌはそろそろと近づき、いっきに飛び掛った。
 だだもちろんカテリアは捕まりそうになる寸前で縁の反対側へと跳躍する。
 マリアーヌはとっさに縁にのぼった。だがそのとき、ドレスの裾を踏んでしまい、ぐらりとバランスを崩す。
「っわ! あっ!」
 カテリアがキョトンとマリアーヌを見ている。
 マリアーヌはなんとか踏みとどまろうと、空気をつかむように手をばたつかせる。
 だがあえなく、あっというまに身を崩すと背中から噴水の中に落ちた。
 大きな水しぶきがあがり、草花にキラキラと飛び散る。
 マリアーヌは噴水の底にしたたかお尻を打ち付けて、「痛ーい!」と顔をしかめた。
 思わず半べそになりながら顔をあげると、カテリアがスラリと噴水の縁に立ち、呆れたように眺めている。
 ニャー……、ため息混じりといった感じでカテリアが鳴いた。
 マリアーヌは頬を膨らませると、次の瞬間さっとカテリアに手を伸ばした。
 不意をつかれたカテリアはマリアーヌに捕まえられそうになり、あわてて逃げようとする。
 だがマリアーヌが落ちたことであたりが濡れていたせいでカテリアもまた滑って噴水の中に落ちた。
 水の中でジタバタもがいているカテリアをマリアーヌが捕まえる。
「やった!」
 ずぶ濡れのカテリアにマリアーヌは思わず叫び、嬉しそうに笑う。
 その満面の笑みに、捕まえられたカテリアも不承不承降参というようにニャァと鳴いた。
 水につかりっぱなしだということを気にもせず、マリアーヌはただただ楽しくてカテリアを抱きしめる。
「カテリア! あたしの勝ちよ」
 そう声をたてて笑うマリアーヌ。
 そんなマリアーヌをカテリアは目を細めて見つめた。
「―――――おやおや、これはまた楽しそうだね」
 突然響いた声に、びくりとマリアーヌが振り返ると、口元に手をあてて笑いながらやってくるハーヴィスがいた。
 噴水の前までやってきて、ハーヴィスがマリアーヌとカテリアを見下ろす。
「どうしているかと見にきたんだけど、二人ともずいぶんと仲良しじゃないか」
 こらえきれないといったふうにハーヴィスがクスクスと笑った。
 マリアーヌの腕から力が抜け、カテリアが解放された。そしてマリアーヌからすっと笑顔が消える。
 ハーヴィスは服が濡れることを気にする様子もなくカテリアを抱き上げた。
 気まずそうにマリアーヌはうつむく。
「……ごめんなさい」
 マリアーヌは小さな声で謝った。
 カテリアを抱きかかえたハーヴィスは不思議そうに首を傾げる。
「どうして謝るんだい?」
「だって……カテリアを濡らしてしまったし……。ドレスも……」
 そう沈んだ声で言うと、ハーヴィスが声を立てて笑った。
「そんなこと気にする必要なんてないさ。きっとカテリアがけしかけたんだろうし」
 なぁ?、と含み笑いをして腕の中のカテリアへと視線を投げかけるハーヴィス。
 そしてカテリアを抱いたまま、片手をマリアーヌへさし伸ばした。
「走り回ってずぶ濡れになったって、泥だらけになったっていいんだよ。君やカテリアが楽しければね」
 微笑むハーヴィスをマリアーヌはじっと見上げる。
 ニャァ―――。
 そう気にするな、と言うようにカテリアが鳴いた。
 マリアーヌはおずおずとハーヴィスの手をとると、立ち上がった。
 ドレスはぐっしょりと濡れて重い。
 幸い上半身はそこまで濡れてないが髪は乱れてしまっていた。
 水をしたたらせながら噴水から出るマリアーヌをハーヴィスは笑いながらも優しい眼差しで見ている。
「とりあえず、濡れたままだと風邪をひいてしまうかもしれないからね。お風呂に入って温まったほうがいい。――――カテリアはお風呂が大好きなんだよ」
 ハーヴィスは言って、身をひるがえすと館へと歩き出した。
 マリアーヌもあとに続く。
 地下への階段のところで床が濡れてしまうと躊躇うマリアーヌだったが、すぐに掃除させるからいいよ、と促されお風呂へと直行した。
 大理石で作られたお風呂にはたっぷりのお湯が張られている。
 ハーヴィスはマリアーヌにカテリアを預け、湯船の中にオイルのようなものをいれていた。
 湯気とともに薔薇の匂いが香りたつ。
 そしてハーヴィスは腕まくりをすると、自らカテリアを優しく洗い始めた。
 オセの家のオーナーが猫をお風呂に入れてあげている。
 なんとも奇妙な光景に脱衣所でマリアーヌはあっけにとられて立ち尽くしていた。
 と、ハーヴィスがマリアーヌを振り返る。
「入らないのかい? ほら、早く脱いでおいで。――――ああ、1人じゃドレスは脱げないのかな」
 促し、呟くハーヴィスにマリアーヌはさらにあっけに取られた。
 自分も一緒に入るのだろうか。いや、入れといっているのだろうか。
 困惑しているマリアーヌに、脱ぐのを手伝おうか、と腰を浮かせるハーヴィス。
 マリアーヌは慌てて手を振りそれを辞退すると、仕方なくドレスを脱ぎ始めた。
 髪留めを取り、髪を広げる。
 柔らかなブロンドの髪は少しウェーブがかかっていて、マリアーヌの胸を隠す長さ。
 コルセットを苦労して外すと、締め付けから開放され緊張が緩む。
 だが、今の状況に強張りを隠せないでいた。
 カテリアだけか、もしくは自分がカテリアをお風呂にいれてあげるのかと思っていたマリアーヌは白い自分の肌を、体を見下ろし、そっとため息を吐き出す。
 ハーヴィスはどういうつもりなのだろうか。
 今の状況は成り行きながら、もしかすると自分はハーヴィスの愛玩としてそばに置かれていたりするのでは………。
 そんなことを思いもする。
 マリアーヌは緊張しながら、一糸まとわぬ姿で浴室へと入った。
 泡だらけになったカテリアが目に入って、思わずマリアーヌの口元に笑みが浮かぶ。
 日頃澄ました顔でいるカテリアが、妙に可愛らしく見える。
「さぁ、マリー。君も洗ってあげるよ」
 カテリアを見ていたマリアーヌの手をハーヴィスが引っ張った。
 マリアーヌはギョッとしてわずかに身を強張らせるが、オーナー命令なのだからと黙ってハーヴィスのそばに座る。
 ハーヴィスの長い指がマリアーヌの肩に触れる。
 そして次の瞬間、勢いよく頭からお湯をかけられた。
 突然のことにお湯が口にはいってしまい、思わずむせるマリアーヌ。
 ごめんごめん、と言いながらハーヴィスは香りのよい石鹸でごしごしと頭から体まで洗い出した。
「はい、手を伸ばして」
 言われるがままに手を伸ばすと、ハーヴィスが肌触りのよいタオルで丁寧に洗う。
 だがさすがに「立って」と言われ前を洗おうとされたときには、そのタオルをとりあげて自分で洗った。
 ハーヴィスは照れることないのにと笑っている。
 まったくもって何の淫猥な考えも持っていなさそうな態度のハーヴィスにほっとするが、少しだけ不安にもなった。
 自分にはそれほど魅力はないのだろうか―――――。
 かけるよ、とハーヴィスが言い、また頭からお湯をかけられる。
 泡を洗い流すと、湯船に入った。
 カテリアは浴槽の縁につかまるようにして入っている。
 それがまた奇妙で可愛らしい。
 横目にそれを見ていると、ハーヴィスがマリアーヌの手を取り、マッサージをはじめた。
 慣れた手つきで指を一本づつ丁寧にもみほぐしていく。
 困惑せずにはいられないマリアーヌにハーヴィスは懐かしそうに漏らした。
「よくエリーザにもこうしてマッサージをしていたんだ」
 エリーザ?、怪訝な表情でハーヴィスを見ると、「オセの家の主さ」と言った。
 前のオーナーということだろうか。
 マリアーヌはハーヴィスをぼんやりと眺める。
 色の白い、とても闇の仕事をしているとは見えない男だ。
 柔らかそうなプラチナブロンドの髪がわずかな湿気を含んで鈍く輝いている。すっきりと整った顔立ちは穏やかな表情を浮かべている。
「僕の顔になにかついてるかい?」
 不躾なほどに見つめてしまっていたようだ。
 苦笑するハーヴィスにマリアーヌは慌てて顔を背けた。
 するとさらにハーヴィスが苦笑いを含んだ声で言った。
「マリーはいつも視線を逸らしちゃうね。僕は嫌われているのかな?」
 ハーヴィスの視線を感じながら、マリアーヌは聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声で「別に……」と答えた。
 そう?、とハーヴィスが笑う。
「手がだいぶ荒れているね。掃除や洗い物をしているとひどくなるな。あとでとてもよく効くクリームをあげるよ」
 指先から手首、そして腕へとハーヴィスの手がすべる。
 マリアーヌはよどみなく動くハーヴィスの手を見る。
 ほどよい力加減で指先を腕を揉み解され、ぼーっとしてしまう。
「気持ちいい?」
 にっこりと笑顔を向けられ、マリアーヌはハッとしてうつむく。
「そんなに恥ずかしがらなくってもいいのに。そういうことじゃないのかな?」
 クスクス笑うハーヴィスにマリアーヌは唇をかみ締め、そして突然ぎゅっとハーヴィスの手を握った。
 きょとんとするハーヴィスを正面から見つめる。
「ねぇ、あたしは本当はなにをすればいいの? 本当はハーヴィ………、あんたを満足させるのが役目とか……」
 マリアーヌの言葉に、さらにハーヴィスは目を点にした。
「……満足って?」
 そう呟いて、次の瞬間たまらないといったように吹き出し笑い出す。
「そんなことはありえないよ! 僕そんな誤解させるようなこといったかなぁ。僕が君に手を出すなんてありえないよ。それに万が一があったとしても君は――――」

 まだ子供じゃないか。

 そう、ハーヴィスが言った。
 カッと頭に血が上った。
 マリアーヌは湯船から出て、ドンとハーヴィスを押し倒した。
 マリアーヌの全身から零れ落ちる水滴が、ハーヴィスの洋服を、ぽつりぽつりと濡らしていった。








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2005,12,7