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 ジェラードの表情の変化に、マリアーヌは後方にいる男を振りかえった。
 男はわずか口角を上げてはいたが、その眼は無感情にジェラードを捉えている。
「………お知り合いですか?」
 マリアーヌがそう訊くと、男は光を宿した眼差しを向けてきた。
「それはこちらが聞きたいな。ただの知り合いではなさそうだが……?」
 男の言葉にマリアーヌよりも先にジェラードが反応する。
 強張った顔に笑みを作ったジェラードは男に向かって深く頭を下げた。そして口を開こうとした。
 だがそれは男の鋭い声に阻まれた。
「お前には訊いておらん」
 ジェラードの顔が再び強張る。
「申し訳ございません」
 傍にいるマリアーヌにはジェラードの声がわずか震えていることに気付いた。
 残虐極まりないジェラードが、男を恐れている。そして明らかに男とジェラードは主従関係にあることが見て取れた。
 もしこの男が例の人物であるのであれば、ジェラードは―――。
「……ジェラード様とは以前夜会で知り合ったのです。まだ社交界に慣れていなかった私に、とてもよくしていただいたのです」
 微笑を浮かべマリアーヌは男を見つめ言った。
 男は片眉を上げ、じっとマリアーヌを見つめ返す。ややしてふっと口元を歪め、マリアーヌのもとへ歩み寄る。
「まぁいい。それよりも、この夜を楽しまねばな?」
 マリアーヌの手から酒とグラスを取ると、身をひるがえした。
 マリアーヌも男に続こうと一歩踏み出しかけたと同時に、新たな声が響いた。
「……マリアーヌ?」
 その声を聞いた瞬間、マリアーヌはなんともいえない複雑な気持ちになった。
 クラリッサから伝言は聞いていないのだろうか。
 そう思いながらマリアーヌは戸口を見た。
 そこにはローランドが心配げな表情で立っている。マリアーヌと目が合うと少し安堵の色を見せながらも、その視線がジェラードや男の後ろ姿へと向けられていることに気づく。
 そしてマリアーヌはジェラードの顔色がまた変わったことにも気付いた。
 強張った顔がより一層色を失くし、焦燥を浮かべている。
「探していました。………ですが……お邪魔でしたでしょうか」
 ローランドがわずか困惑したように言った。
 それにマリアーヌは笑んで首を横に振る。
「いえ、勝手に―――……」
「おや、これはまた珍しい者と出会う夜だな」
 だがマリアーヌの言葉を遮るように、男が笑いを含んだ声で言いながら振り返った。
 ローランドは男を見て驚いたように目を見開くも、すぐに頭を垂れた。
「ご無沙汰しております、叔父上」
 ″叔父上″というローランドの言葉にマリアーヌはやはりと確信した。
 この男はまず間違いなくオセの家を開いたエリーザの夫ゴードストン公ダスティアンで間違いないだろう。
 ローランドを見る男の目は冷たい。そこに叔父と甥の関係などないような、無関心にも似た色を浮かべている。
「ローランドにジェラードか……。ずいぶんと正反対の男どもと親しいとは……ますます興味深いな」
 男は笑いを含んだ声で言いながらマリアーヌを一瞥する。
 ローランドは戸惑ったように視線を揺らし、ジェラードは蒼白な面持ちで視線を落としている。
「娘―――、名前は何という」
 笑みを消した男が問う。
 マリアーヌは息を殺しているジェラードに気付きながらも、ハーヴィスから与えられた名を、名乗った。
「マリアーヌ・ベレスフォードと申します」
 瞬間、男―――ダスティアンが眉間にしわを寄せた。
 その目が鋭く光、マリアーヌを見据える。
「ベレスフォード、か。なるほどな」
 ダスティアンは再び冷酷な笑みを浮かべると、マリアーヌのそばに歩み寄った。手が伸び、マリアーヌは顎を掴まれ上向きにされる。
「オセの家の者か―――」
 オセの家の顧客であれば″ベレスフォード″がオセの家のオーナーの名だと知っている。ダスティアンは顧客ではないが、オセの家を開いたエリーザの夫なのだ。知っていて当然だろう。 
 ダスティアンと視線が合わさり、マリアーヌは緊張に強張りそうになるのを必死で耐えた。
 見定めるようにダスティアンがマリアーヌを見つめる。
 場は張り詰めたように緊迫していた。
 ややして、ダスティアンの手からマリアーヌは解放された。 
「マリアーヌ」
「はい」
 名を呼ばれ、即座に返事をする。
 さきほどまでとは違う空気。名を知らなかったときとは違う。
 いまダスティアンとの間にあるのは″主従関係″に似たものだ。
 ダスティアンには有無を言わせずひれ伏させるようなオーラがあった。
「ジェラードは、客か」
 その言葉に、びくりとジェラードが身を強張らせるのを視界の端にマリアーヌは捉える。
 そう、ジェラードはオセの家の顧客だった。
 ダスティアンの配下であるにも関わらず―――だ。
 クラレンスと対になるダスティアン。その派の者はオセの家を利用などしない。
「はい。いまはいらっしゃっておられませんが、以前は大変お世話になっておりました」
 微笑とともに返せば、震えあがったジェラードが慌てたように口を開いた。
「ダスティアン様、それは―――……」
「黙れ」
 ダスティアンの低く威圧感のある声が遮る。ジェラードは言葉を失くし、立ち尽くした。
 そして、ガシャンと大きな割れる音が闇夜に響く。
 地面にはダスティアンが持っていた酒とグラスが粉々に砕け割れている。
「ジェラード、処分しておけ」
「―――は、い」
「全部だぞ?」
 うっすら笑うダスティアンに、ジェラードは何か言いかけた。だがダスティアンの冷たい一瞥に、言葉を失くしたようにうなだれた。
「ローランド」
 場を支配しているのはダスティアン、だ。
 マリアーヌは息を詰め、支配者に声をかけられたローランドをそっと見遣る。
 空気に呑まれたかのように立ち尽くすローランドは掠れた声で「なんでしょうか」と返事をする。
「クラレンスに伝えておけ。老いたるものは早々と立ち去れとな」
 瞬間ローランドは眉間にしわを寄せ、瞳を揺らす。
「それともう一つ」
 マリアーヌへとダスティアンの視線が向けられる。
「お前に、この女は無理だ」
 そう笑い、ダスティアンはローランドへと言い放った。
 息を飲むローランドは顔を強張らせ、きつく唇を噛み締めるとダスティアンに強い眼差しを向ける。
 だがダスティアンが気にするはずもなく、声は最後にマリアーヌへとかけられた。
「―――マリアーヌ」
 ダスティアンの視線を正面から受け止めながら、笑みを返す。
「はい、ダスティアン様」
 従順ともとれるその言葉、声に、ダスティアンは満足げに口元に笑みをのぼらせた。
「今宵の続きはいずれ、設けよう。そのときは楽しませてもらうぞ?」
 それまでとは違い若干砕けた物言い。
 マリアーヌはスカートの裾を持ち上げ、恭しく礼を返した。
「楽しみにお待ちしております」
 そしてダスティアンは退場していく。
 残されたのは″処分″されたジェラードと、いまだ険しい表情のままのローランド、そしてようやく安堵の吐息を落としたマリアーヌ。
 ガラスを踏みしめる音がして視線を向ければ、ジェラードが苦渋に顔を歪ませ割れたグラスを踏みにじっている。
「……ジェラード様?」
 微笑とともにマリアーヌはジェラードに声をかけた。
 ジェラードは鋭い眼光でマリアーヌを即座ににらみつける。
 だがマリアーヌは微笑のまま、小首を傾げた。
「そのようにガラスを踏まれては、怪我をなさいますかもしれません。おやめになったほうがよろしいかと。それに、ダスティアンさまは―――」
 微笑から、艶やかな笑みへと、ゆるゆると口端を持ち上げていく。
「″全部″処分するようにとお命じになられておりました。このような華やかな場で、すでに捨てたものが憚っているのは非常に見苦しいかと。早々とすべて、片づけていただけますでしょうか」
 その言葉が暗に示すのは―――この夜会から、社交界から去れ、という辛辣な皮肉。
 ジェラードは頬を痙攣させ、殺気をあふれさせる。
「ジェラード様。おわかりですか? ダスティアン様は私に次のお約束をされたのです。このような光栄なこと、まだ私など田舎娘ではありますが、ダスティアン様にお気に召していただけるよう尽力つくす所存です」
 怯むことなく、凛と言いきれば、ジェラードは歯ぎしりし顔を背けた。
 そして足早にその場を去っていった。
 ジェラードの後ろ姿を睨むように見送る。その姿が完全に見えなくなって、マリアーヌは身体を震わせるように息を吐きだした。
 まさかこのような展開になるとは思いもよらなかった。
 予想外なことばかりが起きた夜会だか、憎きジェラードに一矢報いたことは多少なりと胸が空くことだ。
 それにダスティアンははっきりと次を示した。マリアーヌがオセの家の者だと、クラレンスと繋がりがあると知ってのうえでのこと。
 この場限りの社交辞令とも考えられるが、それをみすみす逃すことなどしない。
 絶対に繋がりを持たねば、と心に決める。
「………マリアーヌ」
 この後のことを考えていたマリアーヌは、すっかりとその存在を忘れていた。
 躊躇いがちにかけられた声に我に返る。ハッと見れば、複雑な表情をしたローランドがじっとマリアーヌを見つめていた。
 ダスティアンやジェラードを前にしても揺らぐのを堪えたというのに、ローランドの眼差しにマリアーヌは思考を止め気まずさに視線を落とすことしかできなかった。



 




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2010,4,18