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「よくお似合いです」
 にこにこと揉み手で言ったのは仕立屋サノアだった。
 サノアの視線の先には姿見の前に立つマリアーヌがいる。
 1週間後に迫る夜会のために発注していたドレスが仕上がり、いま試着しているのだ。
 大きく襟ぐりのあいた濃緑のドレス。ギュッとウエストは締められ、ふんわりと広がったスカート。黒のレースが襟ぐりや袖口に施されている。
「いいんじゃないかな」
 マリアーヌのそばに歩み寄ったハーヴィスが満足そうに笑う。
 姿見に一緒に映るハーヴィスの姿を捉えながら、マリアーヌは胸の内でそっとため息をつく。
 近づくだけで緊張してしまう自分に、ため息がでてしまうのだ。
 だがここ数日でとにかく公私混同をしないよう、気持ちの揺れが表面にでないよう細心の注意を払ってきていた。そしてそれにもようやく少しは慣れてきたころだった。
 マリアーヌはハーヴィスにたいしてとくに何を言うでもなく、サノアへと頷いて見せた。
 ほっと安堵の微笑を浮かべるサノア。
 それからハーヴィスはサノアとともに応接室へ行ってしまった。
 マリアーヌはサノアの店の者に、もともと着ていたドレスへと着替えさせらてもらう。そして執務室に向かった。
 まだハーヴィスは戻っていない。
 机の上に置いてある一つの名簿を手にすると、マリアーヌはカテリアの部屋に行った。
 カテリア用の丸いベッドに身を丸めているカテリア。その傍に腰を下ろす。
 寝ているのだろうか。
 そっと背中を撫でると、カテリアは小さく喉を鳴らした。
「ドレス、素敵な出来栄えだったわよ」
 マリアーヌの言葉にカテリアはとくに興味なさ気に身を起こし、膝の上に乗ってくる。
 身を丸めて再び目を閉じるカテリアに微笑しながらマリアーヌは名簿に目を通し始めた。
 名簿には今度ローランドともに参加する夜会の出席者が載っている。主催者でもないのに、一人の客も洩れなく記されている。
 その中にはオセの家を懇意にしている名も少なくなく載っていた。
 マリアーヌはリストにある名前をすべて記憶するべく読んでいく。顔はわからなくとも、名を知っておくことに不利はない。
 指で名をなぞりながら見て行く中で、ふとマリアーヌは手を止めた。
「………ゴードストン公……ダスティアン」
 その名を呟くと、ぴくりカテリアが耳を動かす。
 ゴードストン公ダスティアンと言えば、クラレンスとは対になる相手。
 そして―――このオセの家を開いたエリーザの夫、だ。
 そもそも両公爵家の間を密にするためだったはずのエリーザとダスティアンの結婚。
 だがいま両家の間には冷え切った溝しかない。
 ダスティアン派の者はオセの家を利用もしていない、のだ。
 どういういきさつで両家の間が断絶したのかは教えられてはいなかった。
「ダスティアン……様、カテリアはお会いしたことある?」
 もとはエリーザの愛猫であったカテリアならば、会ったことがあるだろう。
 そう思ってなんとなく訊いてみたが、カテリアはちらりマリアーヌを見るも興味なさ気に目を閉じた。
「精力的なお方だよ」
 突然割り込む声。
 いつの間に入ってきていたのか、扉に寄りかかったハーヴィスが目を細めている。
「……おどろかせないで」
 軽くにらむと、ただハーヴィスは笑って肩をすくめた。
「お会いしたことあるの?」
 気を取り直してハーヴィスに尋ねる。
 ハーヴィスはその場から動きはせず、笑ったまま頷いた。
「一度、だけね。もう何年も前の話さ。エリーザが死んだときに、一度だけ。見ただけ」
 その眼がひどく愉快そうに歪む。
 それを内心不思議に思いながらマリアーヌはカテリアの背を撫でる。
「クラレンス様はお嫌だろうが……、僕としてはぜひダスティアン様にもオセを利用していただきたいと思っているよ。一度くらいは、ね」
 そう思わないかい。
 ハーヴィスが薄く笑い、言う。
『利用していただきたい』、それはおそらく夜会でなんらかの繋がりを持てということだろうか。
 だがしかし、最後呟かれた言葉はマリアーヌへと向けられたものではないことはわかる。
 マリアーヌはカテリアを見た。
 目を閉じたまま無反応のカテリア。
「ま。あの方はすぐに帰られるだろうし、君が会えるかはわからないけれどね」
 そこで、マリアーヌは夜会に関してハーヴィスやクラレンスの間で飛び交っていた“彼の男”がダスティアンであることに気付いた。
「……善処します」
 ハーヴィス、エリーザ、そしてカテリア。
 不意に、この三人の関係性が奇妙に思えた。とくに意味などないのだが。
 そしてマリアーヌはぼんやりとハーヴィスを視界に捉えながら、了承の旨を告げた。
 もし彼の男に会えた時には、オーナーの言葉を伝える、ということを。
 ハーヴィスは満足げに微笑むと部屋を出て行った。







***







 
 それから夜会までの日々はあっという間だった。
 ハーヴィスへの想いも変わらず。
 どうすればいいのだろうか、わからないままマリアーヌは気持ちをもてあましていた。
 そうして夜会の夜。
 マリアーヌを迎えにきたのは久しぶりに会うローランドだった。
 あのオペラを見た夜以来。抱きしめられて以来、だ。
 気まずさはあるが、それを表に出すわけにはいかない。
 そしてローランドもまたいつもと変わらず穏やかで優しい微笑みを浮かべていた。
「綺麗です、マリアーヌ」
 いつも以上に化粧も髪もきっちりとしている。ドレスに合わせてコートも新調したものだ。
 自分にそそがれるローランドの眼差しに社交辞令などではないことを認め、内心躊躇いながらも笑みを返す。
「ありがとうございます」
 そして差し出された手に、手を重ねた。
「―――今宵はよろしくお願いします」
 一歩ローランドのもとへ踏み出したとき、背後から声がかかる。
「はい。………マリアーヌをお借りします」
 わずか愁えたように一瞬瞳を揺らし、ローランドがハーヴィスに向かって言った。
 マリアーヌはローランドの横に並び振り返る。
 ハーヴィスもまた、いつもと変わらない笑み。柔和で―――だが、真意の知れない笑みをたたえている。
「行ってまいります」
 短く言うと、
「楽しんでおいで」
 他意などない。ただ普通に言われただけ。
 それなのに、そこに何か違和を感じてしまうのは、自分がひねくれているからなのだろうか。
 マリアーヌはぼんやりそんなことを考えながらも、表面は美麗な笑みを浮かべ頷いた。
 それからローランドに促され馬車に乗り込む。
 マリアーヌとローランドを乗せた馬車は、御者のムチの音とともにゆっくりと走りだした。




 




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2010,1,17