5
カチャカチャと金属のこすれる音が小さく響く。
ハーヴィスは優雅に、マリアーヌは無理やり、子羊のローストにナイフを入れる。
この場にジョセフィーヌがいたなら、きっとムチがしなっていてことだろう。
音を立てるな、力を入れすぎるな、などと昼間言われたことが思い出される。
だがどうやっても切れないものは切れない。持ちなれないナイフは皿の上を滑ってしまうのだ。
今日のメインディッシュだという子羊のローストとマリアーヌは格闘し続けている。
なんとこの骨の邪魔なことか。骨をつかんで食べれたら一番楽なのに。
そう内心歯軋りしながら、ようやくの思いで、ナイフで引きちぎるようにして切り分けた肉を口に運ぶ。
美味しい、だがリラックスできないディナーに味も半減してしまう。
「そんな難しい顔しなくってもいいよ」
ハーヴィスが笑いながら言った。
だがマリアーヌは強張った顔のままジャガイモのソテーにフォークを突き立てる。
「まぁ朝食と夕食は自分のペースで食べるといいよ。昼食はきっとゆっくり味わう間もないだろうからね」
楽しそうなハーヴィスにさらにマリアーヌは顔を歪める。
「それで? カテリアとは仲良くなれそうかい?」
そこでマリアーヌは少しだけ、戸惑ったように視線を揺らした。
ちらりとハーヴィスの傍らの椅子の上で丸くなっているカテリアを見る。
カテリアの世話、というより逆にカテリアに気を使ってもらっているような気さえしていた。
「……なにをしたらいいのかわからない」
自分よりも、もっと頭がよく上品な者のほうがカテリアも楽しいのではないだろうか。
そんなことを思うのは、まるでカテリアが猫なのに自分よりもはるかに知識を有しているように見えるからだろうか。
たとえば、攫われ、今日売られてきたあの少女のようなお嬢様のほうが、自然にカテリアと接することができるのではないのか。
マリアーヌは食べる手を止め、伺うようにハーヴィスを見た。
視線に気づいたハーヴィスが、そんなに気をはることはないよ、と優しく言った。
マリアーヌはしばし逡巡し、思い切って問いかけた。
「あの………女の子はなんで……仕事を選ばせてあげなかったの」
ハーヴィスが不思議そうに顔をあげる。そして傍らのカテリアに視線を投げかけて、「ああ」と呟いた。
「今日売られてきた少女のことかい? カテリアと一緒に見てたんだね」
聞こえてきただけだ、そう思ったがあえて否定することでもなくマリアーヌは黙って頷く。
「きのう私に仕事選んでいいって言ってたじゃない」
ハーヴィスはワインを飲み、肉を口に運ぶ。
ゆっくりと咀嚼してから、ふっと笑った。
「言いはしたがね、最終的に決めるのは僕なんだ。だから希望に添えないこともある。マリアだってそうだろう?」
確かにそうだ。
マリアーヌはギュッとナイフとフォークを握り締めて、じっとハーヴィスを見る。
「一応希望は聞くよ。そして僕がその希望する職にあっていると思えば、希望通り。ほかにぴったりと思えるものがあれば、僕の一存でそっちに回ってもらう」
それもまた当然のことだろう。
そう思うのに、それでも、と思ってしまうのはなぜなのか。
この穏やかな表情をした男が、いまだ悪徳の家オセのオーナーだと実感ができないからなのだろうか。
「でも………すごく泣いてたし……」
ポツリとこぼれた言葉に、ハーヴィスが吹き出した。
思わずムッとしたが、目に映った冷たいハーヴィスの笑みに、言葉を失くした。
すぐにハーヴィスは冷酷な笑みを消す。そしておどけた表情を浮かべると、
「泣いているほうがいい、という客もいるんだよ」
と言った。
意味がわからず眉を寄せるマリアーヌにハーヴィスは首を傾け、目を細めた。
「あの少女には娼婦の素質があるんだよ。ある種の男を悦ばせる素質がね――――」
にっこりと向けられた笑顔はいつものように優しげな穏やかなもの。
ハーヴィスはそれっきり何も言わずフォークを優雅に口元に運んだ。
マリアーヌもまた少しの間ハーヴィスを見つめていたが、食事を再開した。
なにかわからないモヤモヤとしたものが、胸の中で渦巻いていた。
次の日の朝の仕事は初日よりも少しだけ要領よくこなせた。だが昼からの勉強は相変わらず激しい疲労をともなう。
そしてカテリアとの時間になると、ハーヴィスからノートと辞書を一冊もらった。
とりあえずカテリアの相手をしながら勉強もするようにということだった。
童話も満足に読めないのだから仕方がない。
言われるままに読み書きの勉強をした。
ぎこちなくペンを走らせていると、カテリアの鳴き声がしてくる。右前足を器用にノートの一部分に置き、鳴く。
よく見てみれば、綴りが違っていたり文法が間違っているということに気づく。
そのたびにマリアーヌは慌てて書き直しては、驚きをあらわにカテリアを見るのだった。
カテリアの世話が終わるとだいたい睡眠5時間くらいとり、朝の仕事となる。
仕事は2、3日すれば慣れてきたが、昼の勉強と夜のカテリアの相手はなかなか慣れることがなかった。
そうして5日がたった夜、ハーヴィスから告げられた。
「明日は休みだから、ゆっくり寝てていいよ」
一瞬、意味が理解できなかった。
きょとんとしてマリアーヌはハーヴィスを見上げる。
「………休み?」
不思議な言葉でも聞いたかのようにマリアーヌが呟くと、ハーヴィスはにっこりと微笑む。
「ああ。オセの家は営業だが、上は休みなんだ。日曜日だしね。もちろんマリーの大好きなお勉強も、残念ながらお休み」
日曜日だから?
そして勉強も?
マリアーヌは目をしばたたかせ、休み、と頭の中で反芻する。
休みがあるなんて、本当に変わっている所だ。
そう思いつつ、ふとジョセフィーヌの顔が浮かぶ。勉強もなしということは明日はあのムチを手にした恐怖のジョセフィーヌに会わなくてよいのだ。そう思うと無意識のうちに頬が緩んでいた。
「まぁカテリアの世話は休みなくあるけどね」
はっとしてマリアーヌが顔を上げると、ハーヴィスが目を細めて見つめている。
マリアーヌは口を引き結んで、ぎこちなく視線をそらした。
「明日はカテリアと一緒にこの館の散策でもしてみるといい」
なぁカテリア、とハーヴィスはカテリアの頭を撫でた。
カテリアはちらり顔を上げただけで、すぐに広げていた本へと視線を戻す。
カテリアのかわりにマリアーヌは小さく頷いた。
その日の夜は少しだけ読み書きの練習を長く取り、そして眠りについた。
休みなんていらないのに。
そう思いもしたが、新たな生活による日々の疲れは夢さえも届かない深い眠りの中へマリアーヌを連れて行ったのだった。
頬にほんのり暖かな感触がした。
心地よい眠りの中で、マリアーヌは夢うつつに手を動かし、頬に触れる。
指が、なにか硬く、だが柔らかなものにぶつかった。
ぼんやりと目をあけるマリアーヌ。
ニャー――――。
「……………」
カテリアの青い瞳がマリアーヌを見下ろしていた。
ニャー、と再び、まるで「おはよう」というようにカテリアが鳴く。
頬にある感触はカテリアの前足が乗っていたのだった。
ようやくカテリアが前足をのけると、マリアーヌは身を起こした。
頬をさすりながら、カテリアを見ると、カテリアもじっと見ている。
しばし無言。
ちらり時計を見るとすでにお昼だった。
ニャー、とカテリアが再び鳴き、ベッドから降りてマリアーヌを見上げる。
早く用意しなさい、とでも言っているかのような眼差しにマリアーヌはしぶしぶ用意を始めた。
シェアも休みなのだろうと思い、一人ドレスを選んでいたら「おはようございます」とやってきた。
一番地味そうなドレスを探していたのに、シェア曰くカテリア様のお好きなデザインというドレープとフリルをふんだんにあしらったピンクの可愛らしいドレスに着替えさせられた。
容赦なく腰をしめつけるコルセットに、思わずため息が漏れてしまう。
そしてシェアからバスケットを受け取った。
中にはマリアーヌ用のサンドイッチとフルーツと、そしてカテリア用のチキンを煮たものとパン。
どうやら弁当持参でこの敷地内の散策に行けということらしい。
「今日はいいお天気ですよ、マリアーヌ様」
お休みを楽しくお過ごしくださいね、シェアはそう行って地上へとマリアーヌを送り出した。
楽しく、といってもカテリアという、いまだに意思疎通をはかるのが難しい相手と一緒だ。
閉じられた地下へのドアを眺め、そしてマリアーヌは腕に中に抱いたカテリアを見る。
カテリアは一声鳴くと、するりと地面に飛び降りた。
軽やかな足取りで館を出て歩いていく。
マリアーヌは慌ててその後を追った。
毎朝野菜を洗うために井戸へは行くが、こうして館の周りを歩くのははじめてだ。
館の掃除をしていると部屋数の多さに驚くが、歩いてみてそれだけのものを所有するこの敷地の広さに改めて驚いてしまう。
休みのために人の気配もなく静かな館。白い壁が青空とやわらかな日の光に輝いて見える。
通ったことのない道をカテリアについていく。
地面は石畳になっており、両端は一面芝生だ。客用のための道なのだろう。
やがて前方にアーチ状の門とその奥に噴水、そしてそばにテラスが見えてきた。門から先は花園になっている。
たくさんの花々が咲いていた。思わず足を止め、小さな白い花や赤い花に目を奪われる。
今まで見たことのないような花がたくさんあった。
カテリアの鳴く声に顔を上げると、テラスに設置されたテーブルの上にのぼっている。
マリアーヌはテラスに行くとカテリアのそばにバスケットを置き、椅子に座った。
キッチンマットを広げて料理を並べる。
ハーヴィス曰くカテリアはあっさりした味付けが好みだそうで、カテリア用のチキンはハーブで煮て少し味付けをしただけのもののようだった。
マリアーヌはチキンをぎこちない手つきで細かく切り分け、小皿に乗せる。パンもまた一口大にちぎり置いた。
「いただきます」
ニャァ、とマリアーヌに続きカテリアが鳴く。
そして二人はランチを食べ始めた。
マリアーヌのために用意されたサンドイッチは香ばしく焼かれたチキンとチーズにレタスやトマトが挟まった分厚いものだった。
口を大きく開けて頬張る。
チキンのジューシーさやトマトの酸味などがバランスよく口の中に広がる。
ここへきて一週間ほどたつが、毎日味わったことのない美味しさに頬が落ちそうになる。
無意識のうちに顔をほころばせ、わずかにパンのかすをこぼしながらサンドイッチを頬張っているマリアーヌ。その横で行儀良く、なにもこぼすことなく食べているカテリア。
マリアーヌとカテリアは陽だまりの中でゆったりと食事をしていった。
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2005,12,7
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