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ぽつぽつと降り出し始めた雨に、マリアーヌはエメリナに「また明日ね」と笑みを残し墓地を後にした。
帰路を足早に進んでいると、目前に暗い傘が見える。
こちらに向かってきている傘がだんだんと近づき、その主を見てマリアーヌは破顔した。
「エリック!」
約3ヶ月ぶりの再会だ。
小さな笑みを口元に浮かべたエリックのもとへ駆け寄るとエリックは「ご無沙汰しております」と傘の中へマリアーヌを入れ、手にしていたもう一本の傘を差し渡した。
「まぁ持ってきてくれたの?」
「はい。先ほど帰宅した際に、マリアーヌ様が墓地へ向かわれているのを見かけましたので……」
雨はさほどひどくはないが、それでもだんだんと雨足を強めてきている。
傘を受け取り、マリアーヌは満面の笑みのまま礼を言う。
「ありがとう、エリック。助かりました」
「いえ」
短く答えるエリックは無表情に近い。だが微かな笑みと、優しい眼差しが確かに向けられていることをマリアーヌは知っている。
数ヶ月に数日会うだけだが、エリックとの信頼関係は築けていると思っていた。
雨の中、ふたり傘を並べ屋敷へと戻る。
「今度はなにを買ってきてくれたの?」
図々しい問いかけかもしれない。だがエリックはいつもお土産を買ってきてくれており、会うたびに楽しみだった。
そしてそんなことを素直に訊く事ができるのもエリックがどんなことでも自然と受け入れてくれるからだろうか。
マリアーヌは密かに兄というものがいたとすればこんな感じなのだろうかと、エリックと話しているとたまに思うのだ。
「とくに珍しいものではないのですが―――。ラーバのカメオです。イヤリングとブローチなのですが。精巧で美しい細工で……マリアーヌ様にお似合いになりそうでしたので」
目元に柔らかな笑みをたたえるエリックに、マリアーヌは顔を綻ばせる。
「エリックは本当に目が利くから、楽しみだわ。とっても素敵なのでしょうね」
「気に入っていただけたらよろしいのですが」
もちろん気に入るわ!、そう屈託なく微笑む。
しばし談笑しながら歩みを進める。
ふと、マリアーヌは胸の痛みのことをエリックに相談してみようかと思った。
エリックならどんなことでも答えてくれそうな気がする。
「……ねぇ、エリック」
おずおずとエリックを見る。
「どうかされましたか?」
「あの……少し訊いてみたいことがあるのだけれど」
「はい」
真摯に頷くエリックに、マリアーヌは言葉を選ぶ。
"突然動悸がしだした"
"胸が苦しくなった"
そう身体の変調を言えばいいだろうか。
「……たいしたことではないのだけれど、少し……痛くて」
マリアーヌは無意識に歯切れ悪く言いながら、自分の胸を押さえる。
エリックは一瞬怪訝に、そして心配げに眉を寄せる。
「心臓ですか?」
「え……、いいえ。違うの」
心臓ではない。もっと曖昧なのだ。心臓は確かにさっき速いリズムを刻んでいた。
だが鈍い痛みのような、重苦しさを感じさせるのは胸の奥。
うまく言葉が見つけられず、マリアーヌはため息をついた。
「ごめんなさい。たいしたことじゃないの」
微苦笑を浮かべ、気にしないでと告げる。
エリックは考えるようにマリアーヌを見つめている。
「胸が苦しいのですか?」
問われ、曖昧に微笑む。
「少しだけね。少し動悸がしただけ。ハーヴィスが疲れているからだろうと言っていたし、きっとそれだけのことなの」
自分を納得させるように言う。
だが"その名"を出しただけで、微かに心臓の音が跳ねる。
「ハーヴィス様が」
エリックの言葉にぴくりと小さく、無意識に、肩が震えた。
ほんの一瞬、そのマリアーヌの様子にエリックが瞳を揺らした。
「……ハーヴィス様がそうおっしゃられるなら、そうなのでしょう」
柔らかい眼差しで安心させるように言われ、マリアーヌもまた柔らかく頬を緩めた。
「そうね」
「お土産に、新しい茶葉も持って帰ってきております。あとでお飲みください」
「まぁ! 嬉しい! ありがとう、エリック」
エリックが持ってきてくれるものは、いつでもマリアーヌの心を惹き付けるものばかり。
マリアーヌは破顔し、そして再び雑談を始め屋敷へと向かった。
エリックに今回の旅の話を聞きながら執務室の前まで着くと、小さな鳴き声とともにカテリアが現れた。
エリックがカテリアへと一礼する。
それを一瞥するようにして、マリアーヌの足元に擦り寄るカテリア。
「おいで」
マリアーヌはカテリアを抱き上げ、執務室の扉をノックした。
短い返事が中から聞こえ、入る。
椅子に深く腰掛け書類に目を落としているハーヴィス。机の上にはいつものように飲みかけのワイン。
その姿を見たとたんに胸が弾む。無意識にマリアーヌはカテリアを抱く手に力をこめた。
不審そうにカテリアがマリアーヌを見上げるが、それに気づくことはない。
なんなのだろう、さっきまでは落ち着いていたはずなのに、この胸の苦しさは―――。
「ただいま戻りました」
マリアーヌの心中をよそに、エリックがそうハーヴィスに声をかける。
ようやくハーヴィスは視線を上げマリアーヌたちのほうへと顔を向けた。
「ああ、エリック。お疲れ様。例のものは?」
目を細めるハーヴィスのもとへ歩み寄るエリック。
「用意できました」
「そう」
頷くハーヴィスは満足そうに冷たい微笑を浮かべる。
「早速、ご報告していいかな。一刻も早く欲しいとおっしゃられてたからね」
「もちろんです」
淡々と仕事の話が交わされる中、マリアーヌは依然として扉のそばで立ち尽くしていた。
ニャァ―――。
機嫌の悪そうなカテリアの鳴き声に、ハーヴィスへと視線を向けていたマリアーヌは我に返る。
見下ろすと、カテリアと目が合う。青い目が、じっと見つめてくる。
「マリー」
どうしたの、とカテリアに笑いかけようとしたマリアーヌは、ハーヴィスの声にひとつ胸の音を大きく高鳴らせ顔を上げる。
「気分はどう?」
目を細め歩み寄ってくるハーヴィス。
「え、ええ。大丈夫よ」
胸はいまだに煩く鳴っている。が、それが体調が悪いからかと考えると違うような気がしたのだ。
そのうち気にならなくなるはずだ、そう自分に納得させるように思いながら笑みを返す。
「そう?」
ハーヴィスはカテリアにまったく視線を向けることなく、首を傾げマリアーヌを見つめる。
「まだちょっと体調悪そうだけどね」
心配する口調。ハーヴィスの手が、マリアーヌの頬へと伸びてくる。
だが寸前で、ビクリとハーヴィスの腕が痙攣した。
「……ッ……」
ハーヴィスが眉を顰めて手を引く。
マリアーヌは呆然とハーヴィスの手を見る。白い袖にうっすらと血が滲み出していた。
困惑しながらマリアーヌは低い唸り声を上げたカテリアを見下ろした。
「……どうしたの、カテリア」
カテリアがハーヴィスの腕を引掻いたのだということがわかった。
だが今までに一度でもそんな光景を見たことがなく、驚きが湧き上がる。
ニャー……、と冷たい鳴き声が響き、するりとマリアーヌの腕の中からカテリアが滑り降りる。
ハーヴィスを見上げ、ふっと顔を背けるとカテリアは部屋を出て行った。
戸惑いながらもマリアーヌはハンカチを取り出しハーヴィスに渡す。
「大丈夫?」
「ああ。別にたいしたことないよ」
ハーヴィスはまったく気にしていないといった風に笑った。だがその瞳の奥底が陰鬱に翳る。
「まったく……、嫉妬深い女王だ」
ぼそりと呟かれた冷ややかな声。
「え?」
問い返すも、ハーヴィスは笑みを返すだけだ。
「マリー、今日は休んでいいよ」
ひらりと背を向け言うハーヴィス。
「……なぜ? 大丈夫よ」
胸の苦しさが微かにあるが、カテリアのことが気にかかってか先ほどまであった高鳴りはなくなっている。
「まぁたまにはいいんじゃないかい。たいしたことなくともこじらせたら大変だ。一晩寝れば―――全部忘れているかもしれないからね」
椅子に腰掛けながら、ハーヴィスは言葉最後でにっこりとマリアーヌに笑顔を向けた。
「でも……」
「マリーは日ごろから働きすぎだし、今日は降って湧いた休日と思ってのんびり過ごせばいいよ。それにご機嫌斜めらしいカテリア嬢のところにも行って欲しいしね」
カテリアのことが思い浮かび、マリアーヌは沈黙しハーヴィスを見る。
「……カテリアと仲直りしてね」
どうしてカテリアが機嫌を損ねたのかはわからない。
昨日も特になにもなかったはずだ。
執務室に入ってから、なにがカテリアの気に障ったのか……。
マリアーヌには原因がまるでつかめなかったが、ハーヴィスとカテリアにはいつも仲良くあってほしい。
そう想いを込めてマリアーヌが言うと、ハーヴィスが見上げてきた。
一瞬だけ冷ややかな嘲笑のようなものが浮かぶ。だがすぐに柔和な笑顔を見せ、「もちろん」と頷いた。
「エリック、マリアーヌを部屋まで送っていってくれないかい。お土産もあるんだろう?」
それまで後ろに控え存在を消すように立っていたエリックに向けて声がかけられた。
「はい」
エリックがいることを忘れていたマリアーヌは目をしばたたかせる。
なにか気恥ずかしさを感じた。
「マリアーヌ様、お部屋までご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「え、ええ。もちろん」
頷き、エリックに促され、開けられた扉へと向かう。
マリアーヌは出る寸前で振り向き、
「あまりお酒ばかり飲み過ぎないでね」と、ハーヴィスに言った。
苦笑とともに「善処するよ」と返ってくる。
そして部屋をあとにした。
自室へと向かいながら、無意識にため息がこぼれる。
「―――マリアーヌ様」
不意に声がかけられた。エリックが足を止めている。
「どうしたの?」
エリックは無表情だ。そこにどのような感情があるのか、マリアーヌにはわからない。
沈黙したエリックに、マリアーヌは首を傾げる。
「なんでもございません」
ややして、エリックが謝るように答えた。
何故だろう。
急に自分の周りで何か見えないものが動きだしたような気がした。
いや、胸の痛みを抱える自分もまたなにか起こったのか。
わけのわからない不安にも似た想いに、マリアーヌはそっと眉を寄せる。
「マリアーヌ様。参りましょう」
微かな笑みを浮かべ、エリックが言う。
頷いてマリアーヌは再び歩き始める。
まさか、自分の中で芽生えた感情がすべての起因であることなど、マリアーヌが知る由もなかった。
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2009,6,19
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