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 執務室で帳簿を見ていたマリアーヌは幾度目かのため息をついた。
 ローランドは先刻帰っていった。ほんの小一時間ほど話しただけだったが、いつになく疲労を感じていた。
「おやおや、ため息ばかりついていると幸せが逃げていくよ」
 いつの間に入ってきたのかハーヴィスが扉のところで小さく笑っている。
「びっくりした」
 マリアーヌはわずかに目を見開き、呟く。
「声をかけようとは思ったんだが、物思いにふけっているようだったからね」
 歩み寄るハーヴィスにマリアーヌは苦笑を浮かべた。
「ローランド様がいらっしゃってたんだって?」
「ええ」
 自然と口調は重くなってしまう。ため息を吐きかけて、止めた。
 ハーヴィスは今度は声を立てて笑いながら机の端に腰掛ける。
「どうだったかい? "告白"された感想は」
 楽しそうな眼差しに、マリアーヌはほんの少しムッとする。
「そんな好奇心丸出しの聞き方、ローランド様に失礼よ」
 ハーヴィスは一瞬目を丸くするも、吹き出した。
「ごめんごめん。別に野次馬根性ではないよ。マリーにとっては初めてのことだろう。心配だったんだ」
 にこにこと言うハーヴィス。心配というが、やはり表情は楽しげだ。
 マリアーヌは今度こそため息をついた。それはハーヴィスに対する呆れが含まれたものだったが。
「……ローランド様とお話して、あの方が本当に心根が優しくて、素晴らしい方だって改めて実感したわ」
 いつか恋に出会える、そう微笑んでくれたローランドが思い出される。
 真剣な面持ちでマリアーヌは言った。
「へぇ……。それで気持ちは動いたのかな?」
 ハーヴィスが目を細め尋ねる。
 一瞬その言葉の意味を考え、マリアーヌは戸惑いに視線を揺らし俯いた。
「………わからないわ」
 正直な気持ちだった。
 ローランドの優しさは痛いほど伝わってきた。
 彼に愛される女性は幸せだろう、そんなことさえ思いもした。
 だが、だからといって"恋"や、そこにいたる想いを抱いたかといえば否だ。
 沈黙するマリアーヌの顎にハーヴィスの手が伸び、上を向かされた。
 微かに笑むハーヴィスと視線が合う。
「そんなに気落ちすることもないさ。"恋"をしなければならない、そう思ってするものじゃないからね」
 ローランド様もそんな気はないだろうしね、とハーヴィスが優しく言った。
「……そう?」
「そう」
 にっこりと頷くハーヴィスに、マリアーヌの心も穏やかになっていく。
 ハーヴィスの手は顎から頬に上がり、そっと撫ぜる。
 マリアーヌはハーヴィスをじっと見つめた。
 頬から伝わる暖かさ。その感触に―――昨夜のことが思い出された。
 "恋人同士のするような”――――キスを。
 動きの止まったマリアーヌを不思議そうに首をかしげ見つめるハーヴィス。
 不意にマリアーヌは背筋に電流のようなものが走るのを感じた。そして急激に頬が熱くなっていくのがわかる。
 大きく、速く、音をたてだす心臓。
「………マリー?」
 生まれてはじめての、いやそういえば昨夜もあった感覚にマリアーヌは動揺する。
 胸元をギュッと握り締め眉を寄せるマリアーヌ。
「どうしたんだい?」
 怪訝そうにハーヴィスが、また頬をつと指で撫でる。
 視線はまじわったまま。
 ハーヴィスの声に、ビクリと肩が震える。触れられた頬から熱が全身を駆け巡った。顔が真っ赤になっていることが容易に想像できる。
 そんなマリアーヌの様子に一瞬だけ驚いたようにハーヴィスが目を見開いた。
「……っ」
 なにか言おうと口を開こうとするも、うまく言葉が出てこない。
 己の身体の異変に―――思考が追いつかない。
「…………なんだか……ちょっと体調が……」
 ややして、ようやくそれだけを告げた。
 すっとハーヴィスの手が離れていく。そして視線も逸らされる。
 それが何故か寂しく感じた。
「風邪でも引いたんじゃないのかい。少し部屋で休んでいたらいいよ。あとは僕がしておくから」
 いつものように柔らかい口調。だが微かに宿る冷たさ。
 いつものように優しい微笑。だが視線は逸らされたまま。
 マリアーヌが目を通していた書類に視線をむけているハーヴィス。
 胸の奥が微かに痛むのをマリアーヌは感じた。
 しかしそれさえも今まで覚えたことのない痛みだ。
 体調管理には気をつけているつもりだったし、とくに調子が悪いということもなかったはず。
 それなのに、一体自分はどうしたのだろうか。
 胸の痛みと、それに対する困惑で、マリアーヌは固まる。
「マリー?」
 返事のないのを怪訝に思ったのかハーヴィスが再び視線を向けた。
 ぽんと、頭にハーヴィスの手が置かれる。
 にっこりとハーヴィスはいつものように笑い、言った。
「ローランド様とお話はマリーにとっては慣れない話だっただろうから、ちょっと気疲れしてしまったのかもしれないよ? 少し休めば気分もかわるだろうから、部屋に行っておいで」
 そうなのだろうか。
 そうかもしれない。
 マリアーヌは頭を撫でる感触に心が落ち着いていくのを感じながら、小さく頷いた。
「ごめんなさい。少し休んでくるわね……」
「ああ、行ってらっしゃい」
 ゆるゆるとハーヴィスが手を振る。
 マリアーヌはぎこちなく笑みを向け、自室へと戻った。
















 今日で一生分のため息をついてしまっているのではないだろうか。
 そう感じるほど、何度目かわからないため息をついてマリアーヌはベッドから身を起こした。
 部屋に戻って、ほんの一刻。
 まだ胸は早く鼓動を刻んでいるが、先刻のような激しい熱は感じられない。
 マリアーヌは頬に手を当て、自分の身体を見下した。
 先ほどの変調は一体なんだったのだろうか。
 微かに苦しい胸を押さえ、ベッドを出る。
 特に具合が悪いというわけでもないから、仕事に戻ろうか―――。
 迷いの中で、そういえば今日はまだエメリナのお墓へ行ってないことを思い出した。
 身づくろいを整え、部屋を後にする。庭園で花を摘みエメリナのもとへ向かった。
 風がなく、うっすらと暗い雲が覆う空。
 一雨くるのだろうか、そう空を見上げながら思う。やがて墓地につき、マリアーヌは笑顔で「エメリナ、こんにちわ」と花を墓前に置いた。
 いつも1日あったことを話す。だが昨夜今日とあったことは、なかなか口に出して"お喋り"しずらく、マリアーヌは頭の中でエメリナに語りかける。
『昨日ね、ローランド様にキスされたの。―――あの方が私を好きだなんて、今でも信じられないのだけれど……』
 自らの言葉とともに思い出される一連のローランドとの会話。
 エメリナならばどんな反応をし、どう対応をしてくれるのだろうか。
 きっと―――エメリナは楽しそうに笑いながらも、暖かな眼差しを向け話を聴いてくれるのだろう。
 ぼんやりと墓石に記されたエメリナの名を見つめる。
「……エメリナはきっと恋もしたことあったのよね」
 呟きながら、脳裏に甦る光景はローランドから昨夜のハーヴィスへと変わってゆく。
 途端に、心臓が跳ね上がる。
 マリアーヌははっきりと痛んだ胸に、眉を寄せつつ胸元を押さえた。
 心臓はドキドキと速いリズムで鳴っている。
「なんなの、一体」
 ハーヴィスのことを考えた途端に、とマリアーヌは胸の内でため息をつく。
 そう、ハーヴィスのことを考え出した途端に、だ。
 そのことに気づきはする。だがもうずっと一緒にいるハーヴィスに対して、自分の中の何が反応したのかなど、マリアーヌが気づくことはなかった。
 ただ―――。そういえば、と首を傾げる。
 生前エメリナと交わした会話がふと甦った。
『もしこれから先、胸がドキドキしたり苦しくなったりしたら、私に言ってね』
 胸に手を当て言ったエメリナ。
 仕事の後とかたまにドキドキしてるときがある、そう返したマリアーヌにエメリナは落胆した表情をしたのだ。
『そういうのではなくって、なにもしていないのに!』
 なにもしていないのに――――?
 そう言えば、それが今の状況に当てはまっているような気もする。
 あの時エメリナに約束したのだ。
 そんなことが起こったときは、一番にエメリナに言うと。
 マリアーヌは当時のことを思い出し、しばし感傷に浸る。
 そして首を傾げ、問うた。
「ねぇ、エメリナ。今ドキドキしているのは……、エメリナが言っていたものと同じなのかしら?」
 じっと墓石を見つめる。
「―――エメリナはこれがなにか知っているの?」
 きっと知っているのだろう。
 笑顔で、『マリー、それはね』と教えてくれるかもしれない。
 だが返事はない。
 彼の少女はもういないのだから。
「そのうち治まるわよね?」
 ぽつり漏れた呟きに、笑うように微かな風がマリアーヌの頬を撫でていった。
 そして―――、雨が降り出した。
 





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2009,6,5