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「恋人同士のような……?」
 小首を傾げ、マリアーヌは訊き返す。
 頷くハーヴィスに「恋人でないのに?」とさらに問う。
 そんなことしても意味がないのではないか、と言うと、ハーヴィスは小さく笑った。
「ほんと……マリーはムードというものがないねぇ」
 そう言われても、とマリアーヌは困惑した瞳でハーヴィスを見る。
 ハーヴィスはマリアーヌの唇をなぞっていた指を再び頬に添え、囁いた。
「僕を見つめて」
 言われるままにハーヴィスを見つめる。
 エメラルドグリーンの瞳に自分が映っているのが見える。
 恋人同士というものはこうして見詰め合うものなのだろうか?
 指示を出したハーヴィスはといえば真剣には程遠い笑いを含んだ瞳でマリアーヌを見つめている。
「目を閉じて」
 再び囁かれ、再び言われるままに目を閉じる。
 頬から顎にハーヴィスの指が流れ、わずか上を向かされた。
 そしてそっと触れてきた暖かな体温。
 優しい口づけだった。
 数秒して離れる唇。だが間をおかず再び触れ合う。
 ついばむようなキスが数回降ってくる。
 空気を吸い込むためにわずかに無意識に開いた唇から舌が入ってきた。
 ハーヴィスとキスをするのは何回目だったろうか。
 2、3回だったろうか。
 いずれも意味をもたないキスだった。もちろん今しているものも、だろう。
 だがぼんやりするほど、今かわされるものは優しく甘かった。
 口内を味わうように這うハーヴィスの舌を感じながら、ハーヴィスはキスが上手かったのだな、と初めて気づいた。
 頭の芯がぼうっとし出した頃、ようやく解放される。 
 軽く上がってしまった息を整えながら、ゆっくり目を開ける。
 途端に視線がぶつかる。
 柔らかい笑みをハーヴィスは浮かべていた。
「どう?」
「……優しかった?」
 おずおずと問うように答えるマリアーヌ。
 クスリとハーヴィスが笑った。
「そうだね。設定は想いが通じて初めて交わす口づけ、のような感じかな」
 マリアーヌはソファの背もたれに頭をもたれかけながら何の気なしに聞いた。
「ハーヴィスの初めてのキスはいまみたいな感じだったの?」
「僕?」
 ハーヴィスはきょとんとして声をたてて笑う。
「僕の初めては10歳のときに近所に住んでいたアニーっていう8歳の子だったからね。ほんと少しだけ触れるくらいの可愛いものだったよ」
 当時を思い出したのか、懐かしむような笑顔。
 それは初めて見る表情だった。これまで見たどれでもない笑み。
 朗らかで少年のような―――。
「ま、僕もマリーに自慢できるような素敵なキスはないけどね」
 すぐに笑みは"今"のハーヴィスのものへと変わる。
 一瞬見せた"過去"のハーヴィスの顔に、マリアーヌはなにかもやもやとしたものを感じた。
 なぜ彼はここにいるのだろう―――。なぜ―――。
 いくつかの疑問が泡のように湧いて、だが形としては残らずに消えてしまう。
 ぼんやりとハーヴィスを見つめていると、ふと思い出したようにハーヴィスが懐中時計を取り出した。
「もうこんな時間か。ちょっと席を外すけど、マリーは? 今日は休みなんだから部屋でゆっくりしているといいよ」
「うん……。もう少しここで休んでから戻るわ」
「そう」
 じゃあ、とハーヴィスが部屋を出て行った。
 一人残された部屋の中、なにもすることもなくなにか考えようとして、だが億劫で思考は断たれる。
 なぜかひどく疲れを感じていた。
 マリアーヌはため息一つつき、ハーヴィスの飲み残したワインを一気に飲み干す。
 甘い香りと熱く喉から裡へと流れていく感触。飲み足りなく、ワインを継ぎ足しあおる。
 ニャアと鳴き声がかかり、うつろな視線を向けるとカテリアが戻ってきていた。
 おいで、と手を伸ばしカテリアを抱きしめる。
 お酒の匂いがするせいかカテリアが匂いをかいでくる。
「……カテリア……、恋ってしたこと……ある?」
 ぽつり呟いた。
 カテリアは猫。だが猫だってつがいになるのだ。感情的なものだってあるのだろう、きっと。
 そんなことを考えながら、カテリアの顔を覗き込む。
「キス……って特別なものらしいの……」
 ローランドから突然落とされた口づけはほんの一瞬で、ただ驚きだった。
 ハーヴィスから落とされたのは……。
 ふとマリアーヌは自分の唇に触れる。唇から伝わってきた暖かさが思い出される。
 ―――――そして、眉を寄せた。
 急に胸の奥が針で刺されたように痛んだのだ。
 なんだろう、と胸を押さえると、急激に心臓が早鐘を打ち出す。
 まだ二杯しか飲んでないのに酔ってしまったのだろうか?
 マリアーヌはそう思いながらも再びワインを手にする。
 ニャー、と咎めるようなカテリアの声が響いたが、数杯飲んだ。
 急激に酔いが回る。身体は熱を帯び、頭は靄がかかる。睡魔が襲い、マリアーヌはカテリアを抱えたままソファに倒れこむ。
 鼓動は一層早くなり、ああやはり酔いのせいなのだ、とマリアーヌは考えながら目を閉じた。
 あっという間にマリアーヌは深い眠りの中に引きずり込まれていった。










***










 ニャァ――――。
 カテリアの鳴き声がした。
 それはひどく鋭く、険のある声だった。
 どうしたのだろう、とマリアーヌは思う。
 だが思考は続かない。
 まだ身体も頭も深い眠りのそばにあるのだ。
 意識が戻るほどでもない、だが少しだけ浅くなった眠りの中、話し声が届いてくる。
「ああもう、煩いな」
 うんざりしたようなハーヴィスの声。
 それに対し、唸るカテリア。
「別にたいしたことじゃないだろ」
 ケンカでもしているのだろうか?
 ふわふわと全身が浮いているような感覚だ。
 目を開けようとしたが開けるほどの力もない。
「悪かったよ、はいはい、俺が悪かった」
 まるで悪びれもない声。
 それにたいしてもまた怒るようなカテリアの鳴き声が鋭く響く。
 眠りは波のようにゆらゆらと。
 現実の音はさざなみのようにマリアーヌへと届いては流されていく。
「ちょっと味見しただけだろう。嫉妬深いんだから」
 嘲笑を含んだ声に、微かに殺気が漂う。
 だが言葉を理解できない状況のマリアーヌにその場の空気が伝わるはずもない。
「心配しなくとも、もう手は出さないさ」
 ニャァ――。
 当たり前だ、とでも言うような威嚇する鳴き声が応じる。
「"君の大事な可愛いマリー"にはね」
 その言葉が告げられる寸前にマリアーヌは深い眠りに沈んでいった。






 そしてまたふわふわと意識が浮遊しだしたのはどれくらいしてだったのだろうか。
 抱きかかえられているようだった。
 暖かな体温と知った匂いに、眠りの中だというのに口元に微笑がのぼる。
 その暖かさが傍にあるだけで全身が安堵に包まれ、眠りの密度は濃さを増す。
 やがてふわりと体温が離れ、背に冷たく柔らかさを感じた。
 なじみのあるシーツの感触。
 だが離れていく体温がいやで無意識にその手をつかむ。
 驚いたようにその手が一瞬震えたが、すぐに包み込むように手を握ってくれた。
 そしてもう片方の手であやすように頭を撫でられる。
 心地よさに、再び眠りがすべての意識をさらいにくる。
 完全に眠りに落ちたころ、そっと手が離された。
 
「マリー………早く………。………しておくれ」

 耳元で囁く声。
 だがそれがマリアーヌに届くことはない。
 囁いた当人はマリアーヌの額にキスを落とすと、静かに部屋を出て行ったのだった。






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2009,4,17