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―――オルフェオとエウリディーチェ。
愛する妻エウリディーチェを亡くしたオルフェオ。
ジュピターの使い愛の神アモーレから、冥界にいる復讐の女神や死霊たちの心を動かすことができるのなら、エウリディーチェを連れ戻すことができると伝えられる。
しかしエウリディーチェがこの世に戻るまで決して彼女の姿を見てはならないという条件があった。
愛する妻を甦らせるために冥界へと赴くオルフェオ。
復讐の女神や死霊たちを竪琴で静め、エウリディーチェを再会する。
だが現世へと戻る最中、後ろを振り向かない夫に不審を抱き足を止める。
振り向かない夫をなじる妻。オルフェオはついにエウリディーチェを振り向いてしまう――。
その途端、エウリディーチェの姿は消えてしまい、絶望したオルフェオは自ら命を絶とうとした。
だが、そこへアモーレが現れ、オルフェオの愛の深さにエウリディーチェを甦らせたのだった。
神へ感謝し喜ぶオルフェオとエウリディーチェ。
嬉しそうな笑みを浮かべて舞台を観ているローランドを見て、マリアーヌは顔を綻ばせた。
愛の大団円、に満足げなローランド。
「よかったですわね」
幕はすでに下り、身支度を整え、マリアーヌはローランドにエスコートされ階下へ下りていきながら微笑みかけた。
「ええ、ほんとうに」
大きく頷くローランド。
昨夜ハーヴィスがローランドを「素直」と言っていたが、実にその通りだと思わずにはいられない。
ローランドが好きなのはハッピーエンドか喜劇で、悲劇を見た日にはかなり落ち込んでしまうのだ。
今日見たオペラも『オルフェオとエウリディーチェ』だったからよかったものの、『オルフェオ』の悲しいラストであったら今の笑顔はないだろう。
オペラひとつで気分が大きく変わってしまう。
オペラを見て楽しさはわかるものの、だが感情移入しきれないでいるマリアーヌにとってはローランドの素直さがとても優しいものに感じられた。
「エウリディーチェがオルフェオに不信を抱くところは本当に哀しかったですね。でも―――」
馬車に乗り込み、岐路につく中でもローランドは今日の舞台についてしみじみ語っている。
マリアーヌはその都度頷き、微笑む。
正直様々な恋愛に関する書物やオペラを見てきたが、雰囲気はわかりはするものの理解には及んでいなかった。
だがローランドの話を聞いているのは楽しかった。
「ローランド様に想われる方はとても幸せでしょうね」
マリアーヌは感じたままを言った。
ローランドは一瞬呆け、そして顔を真っ赤にさせる。
「そ、そうでしょうか」
焦ったように上擦った声のローランドに、ええ、とマリアーヌは微笑む。
「そうだと思いますわ。私、恥ずかしいのですが色恋というものがわからないのです。でもローランド様のような優しい方を恋人にされた女性はとても幸せだと思いますわ」
ますます顔を赤くさせながらも、ふと怪訝そうにローランドはマリアーヌを見つめる。
「……マリアーヌは、恋をしたことがないのですか?」
「ええ」
「そ、そうなのですか」
驚いているような、落胆しているような複雑な表情を浮かべるローランド。
「ローランド様はきっと素敵な恋をされてきたのでしょうね。いまはいらっしゃらないのですか?」
「え?」
「いえ、最近ローランド様とご一緒させていただいていますが、本当はお誘いしたい女性がいらっしゃるのではないかと思いまして」
マリアーヌは言いながら、色を失くしていくローランドを怪訝に思う。
黙りこんだローランドに慌てて言葉を続けた。
「差し出がましいことを……申し訳ありません」
目を伏せ謝る。
視線をちらり向けると、ローランドは難しい顔をして俯いている。
余計なことを言ってしまった、そうマリアーヌは自分の失態に内心ため息をついた。
どうにか場の空気を換えねばと会話の糸口を探しながら口を開く。
「……そういえば、ローランド様。お読みになられましたか?」
最近話題の本に話を振るも、ローランドの反応は少ない。笑みを返してはくるものの何か心あらずな風だ。
結局オセに着くまでその調子だった。
「―――ありがとうございます」
ローランドに手を借り馬車を降りる。
「今夜はとても楽しかったです。またお誘いくださいね」
相変わらずどこか暗いローランドに必死にマリアーヌは笑みを投げかけた。
と、ローランドが不意に真っ直ぐマリアーヌを見つめる。
「また誘ってもいいですか?」
目を逸らせないほどの強い視線に、マリアーヌは困惑しながらも「もちろんですわ」と頷く。
「ぜひまたご一緒させてください」
「マリアーヌ」
「はい」
「僕が誘いたいと思うのは貴女だけです」
「……はい……?」
告げられた言葉の真意が読み取れずマリアーヌは曖昧に微笑む。
すっとローランドが一歩足を踏み出し、マリアーヌの左手をつかんだ。
そして―――、ほんの一瞬ローランドの唇がマリアーヌの唇に触れた。
マリアーヌは目をしばたたかせる。
「すみません」
言って、するりとローランドは手を離した。身を翻し馬車に乗り込む。「では、また……」
そう言ってローランドが御者に合図をし、馬がいななく。
我に返ってマリアーヌはお辞儀をし、「お気をつけて」と見送る。
馬車は走り出し、あっというまに遠ざかっていった。
完全に見えなくなってからマリアーヌはようやく屋敷へと入っていった。
マリアーヌは自室でシンプルなドレスに着替え、帰宅したことを報告するためにハーヴィスの執務室に向かった。
ノックの後中へ入ると、いつものようにワインを堪能しているハーヴィスと、ソファーの上で丸まっているカテリアの姿がある。
「やぁ、お帰り。楽しかったかい?」
ワインを傾けながら、たいして興味もなさそうな表情で聞いてくるハーヴィス。
「ええ、もちろん」
頷きながらもマリアーヌは自分の顔が冴えないことを知っていた。
案の定ハーヴィスが目を細め、身を乗り出してくる。
「なにかあったのかい?」
一転して好奇心に彩られた眼差しを向けてきた。
マリアーヌはなんとも言えずにカテリアのそばに腰を下ろし、その背を撫でる。
「なにかあったというか、たいしたことではないのだけれど」
ローランドとの別れ際のことを思い出す。
沸いてくる感情は―――困惑。
「ローランド様がどうかしたのかい?」
ちらりと様子を伺うように顔を上げたカテリアを抱きかかえ、マリアーヌは首を傾げ口を開いた。
「送っていただいたときに、ローランド様が私に口づけされたの」
別れの挨拶なのかしら? 今までとは違ったものだから、少し驚いて―――、とマリアーヌは目をしばたたかせる。
………ニャァ、と低く鳴いてマリアーヌの手から抜け出すカテリア。
まるでため息でもつくようにもう一つ鳴き声を落として、カテリアは部屋を出て行った。
なにか気に入らなかったのだろうか、とマリアーヌがドアのほうに視線を向けていると、
「………それは」
ハーヴィスが呟き、そして大きく吹き出した。
声を立てて笑うハーヴィスにマリアーヌは眉を寄せる。
「なに……、なにかあるの?」
これまでローランドは手の甲や頬になど挨拶的なキスはもちろんあった。だが、そのたびに頬を赤らめていたほどに純粋な青年だった。
だから突然の口づけは予想外でマリアーヌは理解しがたいものだったのだ。
「ローランド様が以前口づけは特別なものと仰ってたの。確か恋愛小説について話していたときかしら」
「ふーん」
ハーヴィスが椅子から立ち上がり、ワインを持ってマリアーヌの隣に腰掛ける。
「それで?」
異様に目を輝かせて訊いてくるハーヴィスを不審に思いながら、マリアーヌは少し逡巡し重く呟いた。
「……ローランド様は」
言いかけ、迷う。
ローランドの人となりを自分は十分に知っている、とマリアーヌは思っている。だから今から言うことが、内心はばかられた。
「……私を買いたいのかしら」
「は?」
ハーヴィスが呆けた声を出す。
マリアーヌは視線をハーヴィスに向け、違うわよね、と弱弱しく目を伏せる。
今度はハーヴィスの大きいため息が聞こえてきた。
見ると、心底呆れたような表情をしている。
「あのねぇ、マリー。そんなことを言うとローランド様はひどく傷つかれるよ」
「わかっているわ。ただ……わからないのだもの。……特に意味はないのよね?」
去り際のローランドの真剣な眼差しが意味があるものだと言っているような気もするが、わからない。
困惑するマリアーヌにハーヴィスがふと微笑み、マリアーヌの頭にぽんと手を乗せた。
「意味はあるよ」
そう言いながら、幼い子をあやすように頭を撫でる。
「そうなの? どんな……?」
「わからない?」
頭を撫で続けられ、心地よさを感じながらマリアーヌは小さく頷く。
「さっき言ってただろう? ローランド様にとって口づけは特別なものだって」
「……ええ。口づけは愛する人にだけしか―――」
言いかけ、言葉を失う。
だがすぐに自嘲する笑みを浮かべ「そんなことないわ」と首を横に振った。
「なぜないのだい」
「なぜって、だって私は」
「君は?」
髪を梳くように撫で続けてくるハーヴィス。
思いもかけず真剣な眼差しで見つめられて、マリアーヌは戸惑い言葉を捜す。
「君は、可愛い女の子だよ。マリー」
笑ってハーヴィスが言った。
女の子、という言葉に一瞬なにか複雑な想いが駆け巡った。
だがそれがなにか気づくこともなく、「でも」とマリアーヌは視線を揺らす。
「ローランド様は人柄だけを見る方だからね。相手がどのような立場であっても好意を持てば気にはなさらないさ」
「でも……」
「マリーはローランド様がそういう方だって知っているだろう?」
頷くしかない問い。だけど素直に頷くことはできない。
「ありえないわ」
「そうかな。君以外は皆気づいているさ。僕も、もちろんクラレンス様もね」
からかわないでと言いたかった。
だがハーヴィスの眼差しに嘘はないことを知る。
第一に―――ローランドがいい加減な人物でないことを、知っているのだから、真実なのだろう。
それが認めきれなくとも。
「マリーはローランド様のことが嫌い?」
マリアーヌは、まさか、と大きく首を振る。
「好きよ。あんなに優しい方いらっしゃらないもの」
「それは異性として?」
すぐに返される問い。
マリアーヌは混乱する頭の中で、
「わからない」
小さく呟く。
「ねぇ、マリー」
ハーヴィスの手はずっとマリアーヌの髪を撫で続けている。
「ローランド様のキスはどんな感じだった?」
「……どんなって」
「今までのキスと違った?」
「今までは……仕事だったもの」
そう仕事の一環でしかないものだった。
口づけなどと優しい言葉で言えないものばかりだ。
もちろんその行為を拒否する客も中にはいた。
「もしまたローランド様がキスをしたいと言ってきたら?」
考えの及ばないことにマリアーヌはなにも言えなくなる。
「ローランド様は無理強いはしないだろうから。まぁ今日はきっとマリーがじらして咄嗟に行動に移したのだろうけど」
じらす?、なにをだろうと疑問しか浮かばない。
「恋人同士にならない限り、もうローランド様は君にキス……いや口づけをしないだろうね」
ハーヴィスは笑ってマリアーヌの目を覗き込んでくる。
「どうする?」
「なにが……?」
「だからローランド様は君を好きなのだから、君は? 受け入れるかい、あの方の気持ちを」
いつしかハーヴィスの表情は楽しげなものに変わっていた。
「ローランド様は心の通い合った、恋人同士の口づけを交わしたいと思っていらっしゃるだろうね」
「恋人……同士」
「そう」
つと、ハーヴィスの指がマリアーヌの唇に触れた。
「ローランド様の口づけはどんなだったかい? 優しかった?」
笑いを含んだ声。
「……一瞬触れただけだもの」
「なにか感じた?」
「なにを?」
「なにか」
「わからない……」
考えれば考えるほどわからなくなる。
恋などというものに囚われたことなどなかったのだから。
「わからないわ。いままでキスが……特別なものだなんて思ったことなかったから」
ギュッと自分の手で手を握り締め、視線を落とす。
「全然違うよ。仕事のものと―――、恋人と交わすものはね」
マリアーヌは不思議な気持ちでハーヴィスを見上げる。
ハーヴィスにもそんな相手がいたのだろうか?
まったく想像もできないことだった。
「ねぇ、マリー」
唇から頬へ、ハーヴィスの指先が流れる。
「なぁに?」
頬に添えられた手の暖かさに自然と微笑みながら小首を傾げる。
「試してみる? どんな感じか。―――恋人同士の口づけとやらを」
そう言った男の目はひどく楽しそうに笑っていた。
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*「口づけ」と「キス」を混ぜて使用しているのはワザとです*
2009,4,9
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