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 鳥のさえずりが木々の間を舞っている。
 頂上を過ぎた太陽は穏やかに光を地へと降り注いでいた。
 マリアーヌとローランドは木立の合間にある日陰に少し遅れたランチを広げていた。
 木陰は少し肌寒く、ローランドから借りたショールをマリアーヌは羽織り紅茶を味わっている。
「とても美味しいですわ」
 ティーカップを置き、マリアーヌはローランドに微笑みかけた。
 ローランドの愛馬ラディーンでの乗馬練習はとても楽しく心地よい疲労感を味わった。そのためか、いつもよりも食べ過ぎてしまっていた。
「よかった。たくさん召し上がってくださいね」
 嬉しそうにローランドが言う。
「はい、ありがとうございます」
 無邪気とも言えるローランドの朗らかな笑顔。
 決して隣にいていいはずもない、あまりに立場の違うローランド。
 だがそれを気にさせない人間的な暖かさがある。
 マリアーヌはサンドイッチを一口食べ、光に溢れた青い空を見上げると吐息をこぼした。
「……ほんとうに、いいお天気」
 ひばりの鳴く声が遠くに聞こえてくる。
 マリアーヌはぽつり呟き、そっと目を閉じた。
 太陽の下、こうして食事をするのはいつぶりだろう。
 カテリアとならオセの敷地内で昼をとることはたまにある。
 それ以外、自分以外の人間と、笑いながら、喋りながら食事をしたのは。
 ああ……、とマリアーヌは目をゆっくりと開け、ふっと口元に笑みを浮かべた。
 ケーキをたくさん食べた日のことが、少しの痛みとともに思い出された。
 たくさんの種類のケーキやお菓子に囲まれ、今はいない少女と、そして双子と笑いながら食べた日のこと。
 あのときは息をするのも億劫なほど満腹になってしまったが、それでも一生の中で一番楽しい食事だったことは間違いないだろう。
「どうかされましたか?」
 不思議そうな、だが優しいローランドの声に、小首を傾げ視線を向ける。
「昔、友人達と庭園沿いのテラスでたくさんのお菓子を食べた日のことを思い出したのです。あの日もすごくお天気がよくて、風が気持ちよくて楽しい時間だったなって」
 ローランドは「そうなのですか」と、笑みをこぼす。
「僕も友人と遠乗りにいったときは外で食べますが、なんとなく味がいつもより美味しく感じますよね。そうだ、今度はそのご友人もお呼びしたらどうですか」
 いいことを思いついた、というようにローランドが弾んだ声をかけてくる。
 マリアーヌは目を細め、
「お気遣い嬉しいです。ただ今はいないので」
「ご旅行中ですか?」
「ええ、二人は。一人は亡くなりまして」
 さらりと告げた言葉に、ローランドは一瞬目を見開き、笑みを消した。
「……すみません」
 沈痛な面持ちで呟くローランドに、謝ることなどございません、とマリアーヌは微笑んだ。
 だがローランドは我がことのように悲しげにうつむく。
「ローランド様……。そんなお顔なさらないでください」
 マリアーヌは苦笑して、ローランドの顔を覗き込む。
 そして明るい声で、
「友人との思い出は楽しいものばかりなんです。ふと懐かしく思っただけ」
 それだけのことなのです、マリアーヌは言って、小さく笑む。
「思い出させてくれた、この楽しいひと時にローランド様に感謝を言いたいくらいです」
 痛みがともなわないといえば嘘だ。
 だが昨日のことのように皆のことを思い出せるのは、それ以上に幸せでもある。
「それに……きっと、友人がいたら、誘われなくってもついてきていたと思いますわ」
 ありえない、しかし容易に想像できること。
 マリアーヌが思い浮かべてみて、思わず声を立てて笑うと、ローランドはようやく頬を緩めた。
「素敵なご友人たちだったのですね」
「ええ」
 満面の笑みで頷くマリアーヌ。
 ローランドが眩しそうに目を細めた。そして不意にマリアーヌの手をそっと握り締めた。
 強くなく、壊れ物に触れるかのようなローランドの手。
 マリアーヌは目をしばたたかせて、首を傾げる。
「ローランド様?」
「……マリアーヌ。僕……私は……」
 わずかに頬を赤くし、ローランドは言葉を詰まらせる。
 どうしたのだろうかと、続きを待つマリアーヌ。
「あの……。その……」
「はい?」
「私は……貴女の……」
 途切れ途切れの言葉は、ついに途切れてローランドはため息をつく。
「………私でよければ……マリアーヌの友達にならせてください……。離れているご友人の分まで私が、その……ご一緒しますから」
 しばらくして、ようやくローランドが苦虫を噛み潰すような表情に微かな笑みを作り言った。
 まじまじとローランドを見つめるマリアーヌ。
 素直にローランドの真心が嬉しく、ほんのりと心が温かくなるのを感じる。
「ありがとうございます、ローランド様」
 微笑みながら、手を握り締めているローランドの手に、空いている手を重ねた。
 パッと、さらに赤味を増すローランドの頬。
 ローランドは恥かしそうに、嬉しそうに、そして何故かほんの少し落胆の色を浮かべて笑顔を返したのだった。







* **










「おかえり」
 毎日毎日、相も変わらずワインをあおっているハーヴィス。
 よそ行きのドレスのまま執務室に来たマリアーヌはにっこりと笑みを浮かべる。
「ただいま戻りました。オーナー? 飲みすぎですわよ、最近」
 今夜のドレスはシックなダークグリーンのドレス。年齢にしては大人びすぎたデザインだが、マリアーヌは難なく着こなしていた。
 大きく開いた胸元には眩いダイヤのネックレスが輝いている。
「何故か最近とくにお酒が美味しくてね。僕にとっては大切な栄養源なのだよ」
 大げさに、だから仕方ないのだ、と言うようにハーヴィスはにっこり笑う。
「そんなことよりも、どうだったかい。お芝居は」
 さらに苦言をと口を開きかけていたマリアーヌを制するように、ハーヴィスが続けた。
 マリアーヌは小さくため息をつき、そして今日観てきたオペラのことを思い出し微笑した。
「とても楽しかったわ。すごく笑いがたえなくって。ローランド様もずっと笑ってらっしゃったわ」
 ローランドと知り合って、早数ヶ月が経っていた。
 初めて乗馬の練習をした日、友達になりましょう、とローランドが言ったことは間違いのない事実だった。
 身分の差などまったく気にする様子もなく、あれからも頻繁に乗馬やピクニックへとマリアーヌを誘ってきた。
 最初はやはりマリアーヌのほうが身分的なものを気にし、行動をともにすることを躊躇っていた。だが何度か会うごとにローランドの真っ直ぐで親しみやすい性格に、マリアーヌも自然と友人として打ち解けていっていた。
 ただ観劇等の社交場へは、誘われても断っていた。
 いくら自分が仮の家名を持っていても、ローランドと友人だとしても、公の場に出向けば様々な人々の好奇の視線が向けられるのはわかっていたからだ。
「ローランド様のお陰で、とくに気になることもなかったし」
 それが今夜、マリアーヌがローランドとともに観劇へとおもむいたのは、クラレンスからの招待だったからだ。
『ローランドが、君とどうしても観に行きたいと毎晩泣いているぞ』
 数日前、クラレンスとローランドが仕事でオセへと来たときのことを思い出すと、マリアーヌはいまでも笑みをこぼしてしまう。
 仕事の話のあと不意にクラレンスが言った言葉に、真っ赤になって、泣いてなどいません、とローランドは慌てて、それこそ本当に泣きそうになっていた。
「まぁこれからはたまに社交の場に出て行くといいよ、ローランド様と一緒にね」
 ローランドのことを思い出し微笑を浮かべるマリアーヌにハーヴィスが軽く告げる。
 社交の場、という部分にマリアーヌは素直には頷けなかった。
 ニュールウェズ家の遠い親戚だと、今夜ローランドは話し掛けてきた知り合いの貴族たちにマリアーヌを紹介した。
 ローランドは周囲の好奇の目からしっかりと護ってはくれたが、これから度々ともに社交の場へおもむけば良からぬ噂が立つかもしれない。
「そう深く考えることはないさ」
 マリアーヌの考えを読んだかのように、ハーヴィスが笑う。
「多少は―――、顔を売っておくのも必要だからね」
 続けられた言葉にマリアーヌは怪訝に首を傾げた。
「御得意様にお会いしたら、ご挨拶よろしく頼むよ」
 出不精な僕の代わりに……子爵の妹としてね、と片目をつぶるハーヴィスに、ようやくマリアーヌは意図するところに気づき小さく笑みをこぼす。
 御得意様、オセの上得意である貴族達。
 その中の一部はハーヴィスが子爵の名を騙っていることを知っているのだろう。
 社交界へ入り、顔を売るのも仕事のうち。
 マリアーヌは帰ってきたときとは違う、仕事の顔へと表情を変化させ、ハーヴィスに「かしこまりました」と微笑んだのだった。







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2007,10,16