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マリアーヌはゆっくりと息を吐き出した。
湯船に顔半分まで沈んでいたから、お湯がぶくぶくと泡立つ。
そして顔をだし、またため息をつく。
広い浴槽の中で身を丸めて、ようやくマリアーヌは落ち着いた。
体の端々が鈍く痛む。
久しぶりの労働はきつかったが、心地よくもあった。
だが、つい先刻まであっていた勉強は激しい疲労を感じさせるものだった。
昼食を終えるまでに2時間半も費やした。
一口、二口食べてはジョセフィーヌから小言が飛ぶ。
ナイフ、フォークの持ち方、スープの飲み方、ナプキンの使い方。数えだせばキリがないないくらいに注意を受けた。
幸いにも初日だから、というジョセフィーヌの好意によってムチがマリアーヌのお尻に飛ぶことはなかったが。
長い昼食を終えたあとは、ジョセフィーヌによる姿勢と歩き方の指導。
それが1時間ほどあり、その後はようやく別の教師・初老のハリスへと変わった。
白髪のハリスは読み書きを丁寧に教えてくれた。
わずかな読み書きしかできいマリアーヌにとってハリスの授業は少しだけ楽しいものだった。
そしていまそれも終わり、マリアーヌはお風呂に入っている。
シェアが体を洗うのを手伝うと言ったが、それは拒否して一人ゆったりしている。
この後はいよいよカテリアの世話をする時間となるらしい。
そもそも夕方からお風呂にはいっているのも、カテリアのそばにつくのに汗臭くては失礼ということからなのだ。
仰々しいことだ、と思わずにはいられない。
マリアーヌはそうしてまた何度目かのため息を深く深くついたのだった。
猫のためというには広すぎる部屋だった。
白と赤だけが使用された絨毯。
本棚とピアノ。そしてカテリアの寝床なのだろうか大人一人が入れるほどの楕円のベッドのようなものがあり、たくさんのクッションが置かれている。
正面には暖炉と、そばにロッキングチェアがあった。
そのすぐちかくにハーヴィスがカテリアを抱いて座っていた。
なにか本を広げて見ている。
マリアーヌは昨夜の夕食時と同じく爪先から頭まで手入れの行き届いた出で立ち。今日はカテリアの好きだという深緑のドレスを着せられた。
カテリアの好きだというミモザの香りをまかれたが、マリアーヌにはなんの花なのかよくわからない。
ぼうっと部屋を見渡していたマリアーヌに、
「やぁ。どうだったかい? 初仕事は」
ハーヴィスがにこりと笑顔を向けた。
マリアーヌは視線を逸らせながら小さくうなずく。
答えになっていない返事にハーヴィスは笑いながら手招きをした。
マリアーヌはゆっくりと近づく。
「お座り」
ハーヴィスは自分の傍らに座るよう促した。
戸惑いつつ言われたとおりに腰を下ろす。
カテリアがちらりマリアーヌを見上げ、ミャァと鳴いた。
「疲れただろう、だって」
すかさずハーヴィスが言う。
ぽかんとしてマリアーヌはハーヴィスとカテリアを見比べる。
「……………別に」
ぼそり呟くと思わずため息をついた。
クスクスとハーヴィスが笑う。
「変な奴と思っているんだろう? 僕とカテリアは仲良しだからね、以心伝心なんだよ」
なぁ?、とハーヴィスがカテリアの背を撫ぜる。
カテリアが小さく喉を鳴らしたが、マリアーヌにはそれが肯定なのか否定なのかはわからなかった。
ハーヴィスとカテリアはくつろいだ様子で広げた本を眺めている。
ちらり本を見てみたが、小さな文字が羅列してあって、マリアーヌにはまったく読めなかった。
「………あの」
放っておけばずっとこのままの状態の気がして、マリアーヌはハーヴィスを見た。
「なに?」
そう言って、ハーヴィスは思い出したように、ああ、と微笑む。
「カテリアの世話のことだね」
カテリアを抱えたまま、ハーヴィスはマリアーヌのほうへ向き直った。
するりとカテリアがハーヴィスの腕から抜け出、二人を見上げるように真ん中に座る。
「……まぁ簡単に言うと、ご飯を食べさせてあげる。毛づくろいをしてあげる。カテリアは綺麗好きなんだよ。あとは話し相手になったり、本を読んであげたり、ピアノを弾いてあげたり、カテリアが望むことをしてあげる。そんなところかな」
指折り数えるようにしてハーヴィスが言った。
わかった?、と優しい眼差しがマリアーヌに向けられる。
噂では魔窟と呼ばれる店のオーナーとは思えないほどの柔和な笑みを浮かべた男を、眉をよせて、じっと見つめ返す。
言ってることは理解できた、半分だけ。
「マリー? マリア?」
ハーヴィスがにこにことマリアーヌに呼びかける。
「そういえば、君のことはなんと呼ぼうか。マリーかマリアでいいかな。そのときそのときで呼び分けるようにしよう」
返事のないマリアーヌに話しかけ続けるハーヴィス。
マリアーヌはさらに眉をよせた。
それを見てハーヴィスが苦笑し、カテリアがハーヴィスを見上げ呆れたように鳴いた。
「なにか不明な点があったかな? マリー、そんなに眉間にしわをよせていたらせっかくの可愛い顔が台無しだよ」
マリアーヌはため息が出そうになるのをぐっと我慢して口を開いた。
「毛づくろいっていうところまではわかるけど………。話し相手とか望むことをしてあげるとかって……」
「それは言葉どおりさ。特に深く考える必要もないよ。今日の仕事のことについて話してみたり、カテリアが音楽を聴きたそうにしていればピアノを弾いてあげる。望むことっていうのは、人間関係でもおなじだろう? 相手がいまなにをしたいと思っているかを読んで、手助けしてあげる。まぁこの場合はカテリアに奉仕、ということになるけわけだけど、そう畏まらなくってもいいよ」
なんでもないことのようにハーヴィスが答えた。
まるでなんでもない仕事の内容だ。
本当にただ猫のそばにいて、猫の様子を見て過ごすだけ。
昨夜ハーヴィスはここは"真っ暗"だ、と言っていたが、そうなのか?
確かに今日の仕事や勉強はきつくはあったが、それだけだ。
疲労は、なにか身体にムズ痒いものをあたえている。
それがなになのかはわからない。
ただ、お風呂の中で疲れを癒していたときの充足感が、今思い出すと逆に苦しい。
「最初からカテリアの望むように世話をすることは難しいだろうけど、そのうちなれていくだろう。
とりあえず注意すべき点は清潔さと洗練さくらい。それもいずれ時間が解決することだよ」
黙りこんだマリアーヌを気に留める様子もなく、ハーヴィスは軽い調子で言った。
「ああ、あと、夕食は僕も一緒にとるよ。仕事があるから毎日同じ時間というわけにはいかないだろうけどね。お腹がすいたらシェアに言ってなにか軽く食べておいてもいい」
ぽんぽんと続けられる言葉にマリアーヌはなにも返事をしなかった。
「マリー」
ハーヴィスが呼びかけるも、マリアーヌは視線すら上げない。
ぐるぐる回る胸のうちの不安に拳を握り締めているだけだ。
「マリー……。マリア」
ハーヴィスはマリアーヌの顔を覗き込む。
ビクリとわずかに身を引くマリアーヌ。
「わかったかい? 大丈夫だね?」
これもちゃんとした仕事だよ。カテリアはわがままだから、いじめられないようにね。
そうハーヴィスが笑った。
ニャァ、と不満げにカテリアが鳴き、マリアーヌのひざの上にのぼってきた。
「じゃぁ、あとはよろしく頼んだよ」
マリアーヌの薄く頬紅をつけた柔らかな肌をハーヴィスが優しく触れ、言った。
自分の膝の上で丸くなっているカテリア、そして立ち上がるハーヴィスを見る。
マリアーヌは何を言うでもなく、いや何も言えずに、暗く瞳を揺らす。
ハーヴィスは軽くマリアーヌの頭をたたいた。
「僕は仕事にいってくる。この部屋のつくりとかゆっくり見ておきなさい。僕の執務室はあの扉から出て廊下を挟んだところだから、なにかあれば来るといい」
どこまでも優しい口調だった。
指差された暖炉脇にある一見して扉とは見えない、壁と同じ色をした扉。
「今日は優しくしてあげるんだよ、カテリア」
そう笑みを残して、ハーヴィスはその扉の向こうへと去っていった。
音もなく扉が閉ざされ訪れたのは沈黙。
まだ冬には早いため暖炉に火はない。
数箇所に置かれた蝋燭の炎が揺ら揺らとゆれ、マリアーヌの影を大きく映し出す。
猫はマリアーヌの膝の上でくつろいでいる。
雪のように白い毛並み。
マリアーヌは恐る恐るその背に手を伸ばす。
だが寸前のところで、止めた。
深いため息がもれる。
たとえ説明をうけても、実際一人残されると、どうすればいいのかわからない。
猫など、路地裏や居酒屋の薄汚れ、食べ物をあさっている姿しか見たことない。
やせ細り、どこかでひっそりと死んでいる。そんな姿しかマリアーヌは知らない。
猫と餌をとりあったことさえあるというのに。
「わかんないよ………」
ぽつり呟くと、ゆっくりとカテリアが顔を上げマリアーヌを見た。
青い目、まるで宝石のように綺麗な青いカテリアの瞳に映る、ぼんやりとした自分。
カテリアはしばらくマリアーヌをじっと見つめると、膝の上からおりた。そして本棚の方へ行き、ミャーミャーと鳴き出した。
マリアーヌはハッとして、カテリアのそばにきた。
カテリアは右の前足で本棚の一部をトントンと触っている。
「なに……? これ?」
マリアーヌは薄い一冊の本を取り出した。どうやら童話のようだ。
カテリアがその本を再びトントンとたたく。
「えっと……読むの?」
頷くようにカテリアがのどを鳴らす。
マリアーヌはしばし考え、ハーヴィスがしていたように絨毯の上に本を広げた。
マリアーヌとカテリアは本を覗き込む。
「……………み……水の子」
たどたどしく表題を読む。
そして本文と続くが、あまり文字を読めるわけではないので、すぐにつまづいてしまう。
「……えっと……え……」
文字を指でなぞり、必死で考えるがわからない。
泣きそうな表情で固まるマリアーヌ。
カテリアはそんなマリアーヌをじっと見上げてたが、しばしして今度はピアノへと向かった。
軽やかにイスに飛び乗る。
ポーン、一つ音がして、マリアーヌはカテリアのそばにいく。
カテリアの隣に腰を下ろして鍵盤を見る。
ピアノなど触ったこともない。
ポーン、また一つカテリアがその小さな前足で鍵盤をたたいた。
ぎこちなくマリアーヌも指で押してみた。
音が響く。
もう一度マリアーヌは指で押してみる。さっきよりもわずかに高い音が響いた。
無意識のうちにマリアーヌの頬が緩む。
ニャー、マリアーヌの演奏ともいえない、ただ音をならすだけの動作を促すようにカテリアが鳴く。
いつの間にか楽しそうにマリアーヌは色んな音を響かせていった。
それからしばらくして、ふいにカテリアが視線を暖炉横の扉へと向けた。
イスから降り、そちらへと歩いていく。
ややしてピアノに夢中になっていたマリアーヌはカテリアがそばを離れたことに気づき、部屋を見渡した。
カテリアの姿が、ハーヴィスの執務室へとつながる扉に消えていく。
マリアーヌも歩み寄ると、その扉の下にはカテリア用の小さな出入り口があった。
恐る恐る扉をあける。
廊下ということだったが、四角い箱という印象を受けた。
2メートルほど前にハーヴィスの執務室の扉。廊下の両端は行き止まりでそれぞれに扉がある。
そして執務室の扉にもカテリア用の出入り口があった。
扉と同じ色をした小さなカーテンがつけてある。
カテリアはそこから執務室を覗いている。
不意に、執務室から大きな声が響いてきた。
泣き声だ。
「助けてくださいっ!」
少女の泣き喚く声にマリアーヌはそっと耳を澄ませた。
「私……さらわれたんですッ。お母様とメイドだちとピクニックに行っていて……男にさらわれたんです!!!」
悲痛な叫び。
扉越しでその少女がどんな様子なのかは見ようがないが、震えて引きつった声は少女が絶望のどん底にいることを感じさせる。
「だから、だから、助けてくださいっ。家に帰していただければ、十分なお礼はしますからっ」
涙まじりの声で必死に訴える少女の言葉をマリアーヌは冷めた表情で聞いていた。
攫われたにしろ、なんにしろ、売られたら終わりだ。
家へ帰ることなど不可能だろう。
自分とは違って不本意な状況だが、少女にとってはオセの家に売られてきたことはわずかばかり幸運だったかもしれない。
ここでは職業を選ばせてくれる、そうハーヴィスは言ったのだから。
マリアーヌがそう考えていると、少女の様子になどまったく関心なさそうな、よく通るハーヴィスの声が響いた。
「イレイン・ストライフ、泣き止みなさい」
ハーヴィスがその少女・イレインのそばへ行っているのか、かすかな足音が聞こえてきた。
足音が止まった次の瞬間、なにか打つような乾いた音が響いた。
間をおいて悲鳴があがり、泣き喚く少女。
マリアーヌはそっと扉に手を置き、困惑した。
ハーヴィスが少女を叩いたのだろうか?
「イレイン。君がどこのお嬢様かなどということは僕には関係ないんだよ?」
その声は優しく、だがどこか冷たい響きを感じさせるものだった。
「君はこの”オセの家”に売られてきたんだ。きっちりと仕事はしてもらうよ」
「……お願いッ、助けて……。イヤイヤ……」
血を吐くような声だ。
それに反する穏やか過ぎるハーヴィスの声が、ゆっくりと少女に告げた。
「君には娼婦をしてもらおう。君にぴったりだ。楽しい――――仕事だよ」
笑いを含んだハーヴィスの言葉。
イヤァ!!、と泣き叫ぶ少女。
―――――ステファン。 イレイン嬢を連れて行ってあげろ。Bの2棟だ。
ハーヴィスの声。
そして2、3の足音が部屋の中へ入ってきた。
「ヤメテ、助けて!!!」
絶叫と、体を引きずるような音が響く。ややして扉の閉まる音。
しん、と静まり返った。
呆然とするマリアーヌは足元をすりぬけた風に、ふと視線を下に向けた。
カテリアが部屋へと戻っていっていた。
マリアーヌもゆっくりと身を翻した。
何故、あの少女は―――――。
ぼんやりしていたマリアーヌが視線を感じ目を向けると、カテリアが冷たい眼差しで見つめていた。
そしてカテリアが一声鳴く。
だが、マリアーヌにはカテリアがなんと言っているのかわかる由もなかった。
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2005,11,27
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