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「阿片の輸入を禁止したとか―――」
「まぁたいした問題はないだろう。以前だって禁止令は出たのだ。あちらの阿片市場は巨大だ、禁止令などたいした抑止力にはならんさ」
 確かに――、そう返事をし微笑するハーヴィス。
 話の腰を折らないように、マリアーヌはハーヴィスと、そしてその向かいに座るクラレンスにワインを注いだ。
「そういえば、最近ウォルトが頻繁に来ているらしいじゃないか」
 ほの暗い室内。ワイン色をした絨毯に豪奢でなく静かに存在し光を落としているシンプルなシャンデリア。
 ハーヴィスは穏やかな笑みを浮かべたまま、目を細めワインを味わうクラレンスに頷く。
「ええ」
 わずかにクラレンスの眼差しが鋭くなる。
 二人の邪魔にならないように静かに控えていたマリアーヌはちらりとハーヴィスの様子を伺った。
 ウォルトというのは地方貴族の出で、現在クラレンスの側近として従事していると聞いていた。
「どっちだ?」
 クラレンスが再度問う。
 このオセの阿片窟は2つにわかれている。
 ひとつは娼婦を配し、阿片を使用した上で更なる快楽を得るための棟。
 そしてもうひとつは、阿片を味わうだけの場所。だが、使用方法が違うのだ。
 前者が丸薬の阿片を飲むのに対して、後者は吸引する。
 パイプを使い、直接阿片を吸い込む。経口よりも即効性があり、依存性も大きくなる。
 そして、廃人になる確率も。
 客の望むままに、がモットーであっても、その顧客は貴族や高官たちだ。
 あまり阿片中毒になるのが望ましくない客には、利用を控えてもらうこともある。
 数秒の間を置き、にっこりとハーヴィスは笑む。
「ウォルト様には、先日新しい阿片パイプのご注文をたまわりました」
 それが、答え。
 クラレンスは眉をひそめた。冷たい視線がハーヴィスにそそがれる。
 ウォルトの注文を受けたということは、クラレンスの配下にあるものと知っていて、黙認していたということだ。
 マリアーヌは思わず心配をあらわにハーヴィスを見つめた。
 ややして、クラレンスが大きなため息をついた。
「つまらん男だな」
 呟きは、冷ややかで刺すようなものだった。
 一瞬、マリアーヌは鳥肌がたつのを感じた。
 だが反してハーヴィスはまったく動じることなく笑みを浮かべ続けているだけ。
「―――たかが阿片に溺れるとは、その程度の男ということだったか」
 クラレンスの重い声に、マリアーヌは少しして、ウォルトのことを言っているのだと気づいた。
 ハーヴィスがクラレンスの怒りを買ったわけではないらしい。
「私としたことが、目が衰えたかな」
 そこでクラレンスはようやく笑った。
「ウォルト様におかれましては、最近奥様を亡くされたのこと。それが原因でしょう」
「原因がなんにせよ阿片に溺れれた人間は使えない。まぁ廃人にならないていどに遊ばせておけばいい」
 そう言ってクラレンスはワインを一気にあおった。
 かしこまりました、とハーヴィスがにこやかにワインを注ぎ足す。
 マリアーヌはそっと安堵のため息をついた。
 さて代わりを誰にするか、と呟いていたクラレンスがふとマリアーヌに視線を止めた。
 初めてクラレンスと出会ってから、もう一年近くがたつ。
 厳格さを漂わせ、爵位を持つクラレンスはマリアーヌにとって敬う存在だ。
 決して気安く接することはできないが、だがクラレンスはまるで孫でも見るかのように、マリアーヌには眼差しを和らげる。
「そういえば、マリアーヌ。君の選んだ少女はなかなかの逸材だったらしいじゃないか」
 クラレンスが微笑を浮かべ言った。
 マリアーヌは何のとこかわからず、逡巡する。
 答えきれずにいると、
「一ヶ月ほど前に奴隷市場で買った少女のことだよ」
 すぐにハーヴィスが助け舟を出した。
 マリアーヌはハッとし、奴隷市場へ行ったときの事を思い出す。
 痩せ細った、暗い目をした少女。
 忘れていたわけではない。だがあの時買われた少女たちは、すぐに娼婦としての訓練を受けるべく別の棟に行ってしまい、まったく会うことがなかったのだ。
 ハーヴィスからたまに元気にしていると聞くことはあったが。
「なんだ、まだ会ってはいないのか? ハーヴィスの話では、それは美しい娘らしいではないか」
 美しい……。
 わずか一ヶ月で、あの少女はどれほどの変貌を遂げたのだろうか。
「はい。まだ会ってはいないのですが、オーナーから美しいと評をいただいているとは……。ホッとしましたわ」
 にっこりとマリアーヌはクラレンスに微笑を向けた。
「眼識があるというのはよいことだ。私にもマリアーヌのように若く優秀な部下を持ちたいものだな」
 クラレンスの言葉に、砕けた口調で、
「本当に僕も優秀な部下を持って幸せです」
 ハーヴィスが続いた。
 からかうようにマリアーヌに視線を寄越すも、その眼差しは優しい。
「まぁ……クラレンス様やオーナーに、そのように仰っていただけるなんて、身に余る光栄です」
 大げさに畏まって頭をさげるマリアーヌ。
 内心恐縮しつつ、だが余裕をもった笑みをつくり向けた。
「大事にせねばならんぞ? ハーヴィス」
「もちろんです」
 クラレンスとハーヴィスの明るい笑いが部屋に響き渡った。
 たいしたことではないのかもしれない。だが仕事を認めてもらったような気がし、マリアーヌは少しだけ心が弾むのを感じていた。










 クラレンスを見送り、ハーヴィスとともに執務室へと戻った。
「ちょうど今日話そうと思っていたんだよ」
 さきほどクラレンスから貰ったばかりのワインを早速開けながら、ハーヴィスが楽しげに言った。
「なにを?」
 マリアーヌはソファに腰掛け首を傾げる。
「話に出た少女二人のことさ」
「――――リサとフェリシテ?」
 マリアーヌの選んだ少女がリサ。ハーヴィスが選んだ少女がフェリシテという名だった。
「ああ。明日から仕事をはじめてもらうんだ」
 約1ヶ月の準備期間を経て、ようやく娼婦として客をとるようになるのだ。
「そう―――」
 よかった、と思う。それと同時に言葉にできない靄がかかったような暗い思いもよぎる。
 だがそれを実感する間もなく、ハーヴィスが明るい口調で続けた。
「それでね、もうしばらくしたら二人が来るんだが。頼みがあるんだ、マリーに」
「頼み?」
 ハーヴィスは頷き、そして目を細める。
「マリーに、リサの名をつけてもらおうかと思ってね」
 私が名前を?、と戸惑ってしまう。
「リサという名前も悪くないんだけど、もっと華やかな名前がいいと思うんだ」
 そう言われても急なことに思いつくはずもない。人に名前をつけるなどはじめてのことなのだ。さまさまざまな名前が浮かんでは消えていく。
「適当でいいよ」
 ハーヴィスが軽く混乱しているマリアーヌに小さく笑いかける。
 華やかで、でも適当でいい、とはどうすればいいのだとさらに目を白黒させるマリアーヌ。
「で、でも―――」
 困ったようにハーヴィスに視線を投げかけたとき、扉が叩かれた。
 規則的なノックの音に、
「どうぞ」
 と、ハーヴィスが声をかける。
 扉を開けたのはステファン。
 そしてその後から二人の娘が入ってきた。きらびやかなドレスを身にまとった少女たち。
 ふわふわと綿毛のようにやわらかそうな亜麻色の髪をした少女と、絹糸のように艶やかな白銀の髪をした少女。
 健康的なばら色に頬を染めた二人は、それぞれ社交界式のお辞儀を優雅に披露する。
「よく似合っているじゃないか、二人とも」
 笑みをこぼしながらハーヴィスが軽く手を叩く。
 少女二人は恭しく「ありがとうございます」と言い、微笑む。
 マリアーヌはただ二人を見つめていた。
 これがあの奴隷市場で売られていた少女なのだろうか、と驚きを隠せない。
 以前娼婦たちの世話をしていたときには、すでに教養や性技を仕込まれた娼婦たちを相手にしていたため、最初との違いを認識はしていなかった。
 だから目の前にいる少女たちが、ほんの一ヶ月前はやせ細り薄汚れていたなどとは信じられない。
 売られていたとは思えないほど、見目はどこぞの令嬢にさえ見える。
「フェリシテ、今日から仕事だね」
 亜麻色の髪の少女にハーヴィスが声をかけた。
「君ならすぐにオセのナンバーワンになれる。しっかり頑張りなさい」
 ナンバーワンに、それがただの励ましでないことが頷くフェリシテの笑みでわかる。
 あどけなさをわずかに残しつつも、艶やかな大人びた風貌をしたフェリシテは自信の垣間見える眼差しをハーヴィスに向けている。
「おまかせください」
 楽しみにしているよ、とハーヴィスは目を細める。
 いずれ遠くなくフェリシテがナンバーワンとなるのだろう。
 そしてそれにともなって、娼婦達の間では諍いが起きるかもしれない。だがそれも仕事へのやる気を起こさせるもととなるのか。
 ハーヴィスは簡単に最終的な仕事についての注意点をフェリシテに確認している。
 しばらくして、
「新しい部屋へ案内させるから、明日に備えなてゆっくり休みなさい」
 言って、ハーヴィスが控えていたステファンを呼んだ。
 フェリシテは去り際まで一分の隙もない優雅な所作で部屋を辞していった。
 一人残ったリサを、マリアーヌはさりげなく見つめる。
 クラレンスが言っていたとおり、美しい少女だった。フェリシテよりも、整った顔立ち。
 あの奴隷市場のときも感じたことだが、年齢のわりに余裕さえも感じさせる芯の強さがあるように思えた。
 正面を見据えるリサの眼差しは強かった。
「リサ。彼女がマリーだよ」
 ハーヴィスの言葉にリサがマリアーヌに視線を向ける。
 自分のことを彼女に教えていたのだろうか?、とマリアーヌは一瞬ハーヴィスを見、そしてリサを見た。
 ゆっくりとリサはお辞儀をした。
「初めてお目にかかります、マリアーヌ様」
 伸びやかな声の中に、少女の幼さを微かに垣間見た。
 マリアーヌは柔らかな微笑を向ける。
「はじめまして、リサ」
 ここへ連れてこられたことを、少しでも後悔させないように優しく、そして凛とした声で話しかけた。
 ハーヴィスは机にもたれ掛かり、ワインを飲んでいる。
「ここでの生活には慣れましたか?」
「はい」
 まっすぐにマリアーヌを見つめるリサの瞳は一点の曇りもなく澄んでいる。
「リサは飲み込みが早くてね。それになによりマリーと同じで勉強熱心なんだよ」
 そう、と笑みを浮かべたままマリアーヌは相槌を打った。
「で、名前はなんにする?」
 そうだった。
 マリアーヌは内心ため息をつきつつ、ハーヴィスを見る。
 まかせるよ、と片目をつぶるハーヴィス。
「マリアーヌ様にお名前をつけていただけるなんて、光栄です」
 そう言われると、少し困惑してしまう。自分もまたこのオセに働く一介の使用人なのだから。
 だが事実、この少女を選んだのはマリアーヌ自身なのだから、マリアーヌは顔には出さずに必死になって頭を働かせる。
 しばらくして、ふっと浮き上がった名をつぶやいた。
「エロイーズ……」
「エロイーズ? ――――響きは悪くないね。いいんじゃないかい?」
 あっさりと頷くハーヴィスに、マリアーヌはちらりとリサの様子を伺う。
 視線が合い、リサが初めて少しだけ笑んだ。
「ありがたく頂戴いたします」
 頭を下げるリサのそばにハーヴィスが歩み寄る。
「では今日からリサはエロイーズに名前変更決定だね。エロイーズ、よろしく頼むよ」
 ぽんぽんとハーヴィスはリサの肩を叩いた。
 マリアーヌはそんなにも簡単に決めてよかったのだろうかと思いもしたが、リサの表情にわずかな嬉しそうな色を見つけて安堵した。
「それじゃぁエロイーズ。自室に戻っていいよ。まぁ一週間はゆっくりしているといい」
 リサ――ことエロイーズにハーヴィスが話しているのを聞き、マリアーヌは怪訝に二人を見た。
 フェリシテは明日から仕事だと言っていたが、リサは違うのだろうか?
 話を終え、リサがマリアーヌの目前に進んできた。
「私、マリアーヌ様のご迷惑にならないよう、一生懸命に頑張ります」
 そっとマリアーヌの手をとり、リサが言った。
 やわらかく、さほど大きさの変わらないリサの手。マリアーヌは頬を緩め、手を重ねて握り締めた。
「なにかあったらいつでも私に言ってくださいね。私はいつでもリサの味方ですから」
 リサは頷き、それから恭しくお辞儀をすると部屋を出て行った。
 扉が閉まり、数秒沈黙が流れる。
 そしてパンパンとハーヴィスが手を叩いた。
「上等、上等。マリー、なかなかいい対応だったよ」
 マリアーヌはほっと気を緩めて、ハーヴィスに微笑を向ける。
「本当に綺麗でびっくりしちゃったわ。リサも、それにフェリシテも」
 あんなにも変わるものなのね、と言うと、ハーヴィスが可笑しそうに吹き出した。
「なに?」
「いやいや、相変わらず自分のことをわかってないんだなと思ってね。―――まぁうちは高級娼館だからね。それなりに頑張ってもらうさ」
 自分のこととはなんのことだろうかと思うも、すぐにハーヴィスが言葉を続ける。
「それに今回は二人ともかなりの掘り出し物だったのは事実だよ。いつもいつも完璧な娼婦が出来上がるとはかぎらないからね」
「……そうね。……あ、そういえばリサは仕事は明日からではないの?」
 最後ハーヴィスがリサに言っていたことが気にっていた。
 ハーヴィスはワインを一飲みし、小さな笑いをこぼした。
「リサ――いやエロイーズにはもうひとつの娼婦の仕事をしてもらうつもりなんだよ」
 驚いたように目を見開いてマリアーヌは「それって」と呟く。
「とりあえず、一週間後にロースリー卿の邸宅へお伺いすることになっている」
 オセの娼婦の中でナンバーワンになってもおかしくないレベルの娘が数人集まった棟がある。その棟にいる娘たちはオセの中で仕事をすることはない。
 オセへ来ない要人のもとへ直接出向くのである。
「若干エロイーズは歳が若すぎるかと思ったけど、彼女は冷静で物怖じしない性格をしている。だからどんな場面でも対応できるだろうと思ってね」
「そうなの……」
「心配しなくても大丈夫だよ」
 できることなら目の届くオセの中で娼婦として働く姿を見ていたかった。
「ちゃんとどう仕事しているか教えてあげるから」
 マリアーヌの心配な胸のうちを察したように、ハーヴィスがマリアーヌの頭を撫でた。
 マリアーヌは小さなため息をつき、苦笑混じりに頷いた。
「………ところで、マリー。僕も聞きたいことがあるんだけど」
 と、ハーヴィスがマリアーヌを覗き込む。
「なに?」
「なぜエロイーズっていう名にしたのだい?」
 マリアーヌはきょとんとして、そして目をしばたたかせる。
「なぜ……って特には」
「もしかしてアベラールとエロイーズとか?」
 再度マリアーヌはきょとんとした。
「当たり? まさかマリーが愛のエロイーズの名をとるとはね。意外にロマンチックなところがあるんだね」
 からかうようにハーヴィスが目を細める。
 マリアーヌはわずかに頬を染めて、恨めしげにハーヴィスを見た。
 先日ジョセフィーヌから、アベラールとエロイーズという男女の様々な困難にあいながらも愛を綴った書簡集を借り、いま読んでいる途中だったのだ。
「……ふっと思い出しただけなの。だって急に言われて思いつかないじゃない」
 わずかに頬を膨らませると、ハーヴィスが笑い出した。
「急に言ったのは悪かった。でもマリーのお陰で素敵な名がついてよかったよ」
 ぽんぽんと頭を軽く叩く手に、マリアーヌはちらりとハーヴィスを見上げた。
「でもね、適当っていうのでもないのよ。なんとなくだけど、エロイーズのようにリサにも愛する人に出会ってほしいなと思ったのもあるし」
 それは本心で、マリアーヌはしみじみと呟いた。
 と、反して突然ハーヴィスがさらに大きな声で笑い出した。
 お腹を抱えて笑うハーヴィスにマリアーヌは呆気に取られる。
「どうしたの?」
「……いや、いや、ごめん」
 口元に手をあて、笑いを沈めるのに必死な様子なハーヴィス。
 しばらく笑い続け、そして目に滲んだ涙をぬぐいながらハーヴィスはマリアーヌの頬に手を滑らせた。
「マリーもようく書簡集を読んでおくといいよ」
「……え? ええ」
「まぁ感想は―――」
 君が恋を知ってから聞いてみたいがね。
 言葉は途中で途切れ、マリアーヌにすべてが届くことはなかった。







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2006,9,4