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――――僕を、殺すかい?
言葉の意味がわからず、マリアーヌはハーヴィスを眉を寄せ見つめた。
「君は自分をひどく責めているが、エメリナが死んだ夜、そしてそれからずっと、僕のことも責めているだろう? 君があの方と出会ったのが偶然にしろ、引き金にしろ、直接エメリナを売ったのは僕なのだから」
そう、自分自身が憎いと同時に、この男も憎かった。
エメリナを差し出した、ハーヴィスが。
「エメリナが、君が自分を責めているのを知ったら、彼女もまた天国で自分を責めるかもしれないよ?」
微笑したままハーヴィスは続ける。
「だから、僕を憎めば、責めればいいよ」
そう言ってハーヴィスはマリアーヌの手をとり、自分の首へとあてがう。
「憎い僕を殺して、決着をつけたらどうだい」
ハーヴィスの首筋に置かれたマリアーヌの手。その手の上に重なったハーヴィスの手が、ゆっくりと力を加える。
「君に殺されるんだったら、構わないよ」
一点の曇りのない目。
マリアーヌは涙を止め、呆然とする。
ハーヴィスはゆったりとソファにもたれた。そしてマリアーヌは促されるようにハーヴィスの膝の上に馬乗りになると、ハーヴィスの首に手をかけた。
殺す?
この、男を?
涼しげな顔をしたハーヴィスを食い入るように見つめる。
本気、なのだろうか。
するはずない、と高を括って言っただけなのだろうか?
後者、だろう。
そう思い、マリアーヌは声を震わせて呟く。
「………私が……できないと思ってるの」
ハーヴィスは小さく笑う。
「いいや。君が望むのなら自分で死んでもいいが、それだと満足できないだろう?」
なぜ、この男はこんなにも冷静なのだろうか。
マリアーヌはほのかな恐怖を覚えた。
「憎くないのかい?」
首に手をかけたまま動けずにいるマリアーヌに、ハーヴィスが囁く。
憎い、に決まっている。
「僕がなぜ君を優先させたかわかる、マリー」
エメリナのかわりはいくらでもいる、と言っていたのが蘇る。
「カテリアは、本当に人に懐かないんだ。だから」
だから―――
可愛い愛猫の世話係をなくしたら、僕の仕事が増えるだろう?
笑いを含んだ声が耳をなでる。
そして、マリアーヌはハーヴィスの首を絞めた。
ギリギリと手に力を加える。
目は、視線はハーヴィスとまじわったまま。
自分の指が、ハーヴィスの首に食い込むように沈んでいるのがわかる。
どれだけ力をこめればいいのか。
あの時。
あの、母親に首を絞められた時、どれだけ力が込められていただろうか。
そんなことをぼんやりと思った。
ややしてそっとハーヴィスが目を閉じる。
マリアーヌはのしかかるように、ハーヴィスのほうへと体重をかけるようにして、さらに力を込める。
そして。
ハーヴィスの肩に額が置れた。
「……っ……」
苦しげな吐息が漏れる。
それは、マリアーヌのもの。
ハーヴィスの首にあった手は、すでに解かれ、抱きしめるように背中に回っている。
できるわけが、ないではないか。
涙が、ひとつ、ふたつと、頬を零れ落ちる。
オセの家へ来て、自分の手をとったのはこの男なのだ。
暖かい手を差し伸べたのはこの男なのだ。
光も、幸せも、エメリナやイアンとイーノスに出会わせてくれたのも―――――この男なのだ。
冷たく残酷で、そして優しい、ハーヴィスがすべてを与えてくれたのだ。
そして、いま自分を抱きしめてくれる、暖かな手も、きっとこれからもあるだろうもの。
それを、手放せるわけがない。
もう、手放せるわけがない。
闇の中に、ひとり戻れるわけなどないのだから。
ハーヴィスの手が、そっと優しくあやすように髪を背を撫でる。
「許さない……」
震える声で呟く。
答えるように、ゆっくりゆっくりと髪が撫でられる。
許さない。
うわ言のように何度も何度も呟く。
それはハーヴィスへ向けているような、そしてマリアーヌ自身へと向けているようなものだった。
許さない。
ごめんなさい。
嗚咽混じりに、呟きながら、マリアーヌは反する言葉を胸の内で繰り返した。
ごめんなさい。
マリアーヌは、声を上げて泣き続けた。
***
雨はわずかに弱まってきているようだった。
だが風は相変わらず、うねり声を上げている。
そして時折、稲光とともに雷鳴が遠くから聞こえてきていた。
いつのまに眠ってしまったのだろうか。
泣きつかれ、眠ってしまったのだろうか。
マリアーヌは腫れぼったく重いまぶたを持ち上げた。泣きすぎて真っ赤になった目に、ハーヴィスが映った。
ソファに寄りかかり、ハーヴィスは眠っていた。
寝顔を見るのは初めてだった。
ハーヴィスも眠るのだという妙な想いが浮かぶ。
ぼうっとハーヴィスを見つめた。
いったいどれくらい寝てしまったのかわからないが、ハーヴィスと口論したのが遠い昔のことのような気がした。
この首を絞めたのだ、と思い出す。
本気だったのだろうか。
わざと、首を絞めるようにしむけたのだろうか。
よく、わからない。
マリアーヌは小さな吐息を漏らす。
ただ、涙とともに吐き出した想いは、少しだけ心を穏やかにしていた。
「エメリナ………。ごめんね」
自然と口をついて出ていた呟き。
今は亡き友への、言葉。
返事は、ない。
マリアーヌは再度吐息をつき、大きく首を振った。
また沈みこみそうになる気持ちを、引きずり起こす。
自分を責めるだけだった昨日までの自分は、なんの現実も見ず逃げていただけだと、気づいたから。
だから、また同じことを繰り返さないように。
罪と罰と、悲しみと苦しみを噛み締める。
そしてマリアーヌはエメリナを想い、稲光を走らせる窓の向こうに視線を転じた。
――――ニャァ。
しばらくして、小さな鳴き声と、同時に一際大きな雷鳴が轟いた。
どこかに落ちたのではと思わせるほどの大きさだった。
暗い室内が稲光に照らし出される。
ふっとマリアーヌは窓からハーヴィスへと視線を向けた。
ちょうど、ゆっくりとそのまぶたが開く。
あまりに大きかった雷鳴に起きたのだろうか。
ハーヴィス、とマリアーヌは口を開きかけ、止まった。
幾度となく、視線を合わせたことはある。
幾度となく、その眼差しを受けたことはある。
優しいときもあれば、氷のように冷たいときもあった、その眼差し。
だが、いままで見た、どれとも、いま向けられている眼差しは、違った。
ハーヴィスと視線を合わせたまま、動けない。
まるで引きずり込まれそうな、底の知れない暗さを思わす眼差し。
冷たいと感じるよりも、恐怖を覚えさせる眼差し。
息を止め、マリアーヌはハーヴィスの瞳に釘付けになる。
どれくらいだろうか。
ほんの数瞬だったはずだ。
だが永遠に続くような気がした。
すっと、突然ハーヴィスの目は再び閉ざされた。
寝ぼけていただけ、かもしれない。
すでに寝息がたっている。
寝ぼけていただけ、なのだ。
寝ているときに、ふと目が開いた、それだけなのだ。
ただ、一瞬目があっただけ。
それなのに、いまだにマリアーヌは動けないでした。
見知らぬ男を、見たような気が、していた。
そして―――――。
ドクリ、と胸の奥が、軋んだ。
突然早くなる心臓の音に、ようやくマリアーヌは胸を押さえ、止めていた息を吐き出す。
収まらない激しい動悸と、焼きついて離れないハーヴィスの眼差し。
どうしたのだろうかと狼狽し、自分自身を怪訝に思った。
それからしばらくして、マリアーヌはソファにもたれ、目を閉じた。
だが、眠れない。
結局眠りについたのは、雨と風が、その力を弱めだした明け方頃のことだった。
――――ニャァ。
どこかで、咎めるような鳴き声が、小さく響いた。
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2006,6,15
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