21






 楽しそうな歓声を上げ、庭園を走り回っているのはイアンとイーノスだ。
 本当ならば静かにするように注意しなければならないのだが、いまマリアーヌとエメリナにその余裕はなかった。
 満杯になったお腹をしめつけるコルセットに二人とも息も絶え絶えになっているのだ。
「ねぇ……もうちょっと休んでから散歩にすればよかったわね」
 苦しそうにエメリナが呟く。
 マリアーヌもまた眉を寄せ、小さく頷いた。
 結局全種類頼んだケーキは3分の1くらいは残してしまった。
 最後は何杯目かわからない紅茶でケーキを飲み込むという、まったくもって無駄な行為となっていた。
 イアンとイーノスは自分の好きなケーキを食べ、食べれなかった分は持って帰ると早々から決めていたようで苦しむことなく悠々と楽しんでいる。
「もうしばらくはケーキ見たくないわね」
「うん……。甘い匂いだけでもきついわ」
 エメリナが憂鬱そうに目を細め、マリアーヌも憂鬱な面持ちでため息をつく。
「美味しかったんだけどねぇ」
「美味しかったわね」
 ちらり、互いを見る。視線を合わせ、マリアーヌとエメリナは声をたてて笑った。
 苦ではない沈黙が訪れ、二人は思い思いに庭園を眺めた。
 しばらくして、元気ねぇ、とぽつり小さく聞こえてきたエメリナの声に、マリアーヌはそっとエメリナの横顔を見る。
 イアンとイーノスを見つめる眼差しは優しく、だがどこか寂しげだ。
 故郷の家族のことを思い出しているのだろうか?
「……エメリナ。大丈夫?」
 たまらずマリアーヌは問い掛けた。
 エメリナは目をしばたたかせてマリアーヌに視線を向ける。
 迷うようにエメリナは曖昧な微笑を浮かべる。
 マリアーヌは不安が湧き上がってくるのを感じた。
 出かけに行こうと誘いにエメリナの部屋へ行ったときのことを思い出す。
 蒼白で覇気のなかったエメリナ。
 やはり、なにかあったのだろうか?
 不安と困惑でに身を強張らせるマリアーヌにエメリナは一瞬目を伏せると、笑顔を向けた。
「あのね……もしかしたら私……身請けされるかもしれないの」
「………え?」
 瞬間、マリアーヌは指の先から冷えていくような気がした。
 身請け。客がエメリナをオセから買い上げるということだ。
 思ってもみない言葉に呆然とする。
「決まったわけじゃないんだけどね」
 苦笑するエメリナに、マリアーヌは返事もできない。
 娼婦を気に入り傍に置こうと客が買い上げることは珍しいわけではない。
 もとよりオセの娼婦は質が高く、社交の場に出しても恥ずかしくないようマナーも徹底されている。
 一夜ではなく愛人を探しにくる客も多い。
 だから、エメリナがそうなっても不思議ではない。
 しかし彼女はオセで人気ナンバーワンなのだ。
 いや、そうじゃない。
 理由を探すも、結局エメリナがいなくなるかもしれないということが、マリアーヌにはショックだった。
「どなたに……? レスター様?」
 エメリナを贔屓にしている、それなりに力を持つ貴族の名をあげる。
 動揺しきったマリアーヌにエメリナは小さく首を振り、苦笑した。
「ううん。まだお会いしたことはないの。そういうお話があるっていうだけで、気に入ってもらえなかったら白紙になるかもしれないしね」
「………そうなの」
 声がどんどんしぼんでいく。マリアーヌは顔を上げていることができず、うつむいた。
 エメリナの常連客でない者がエメリナを身請けするかもしれない。
 それはその人物がよほど高い地位にいるということなのだろう。
 オセで一番の人気を誇るエメリナを差し出すのだから。
 だが逆を言えば、エメリナにとっては良い話なのだ。
 オセでさまざまな客に身を差し出すよりも、安定した生活を与えられるほうがいいはず。
 寵愛を得ることができれば、愛人であろうが力を得ることもできるかもしれない。
 ぐっと拳をにぎりしめて、マリアーヌは心を落ち着かせる。
「………エメリナならきっと気に入ってもらえるわ。だって本当に綺麗で優しいし……」
 そしてようやくの思いで必死に笑顔を作りエメリナを見上げた。
 きっと上手く笑えてはいないだろう。
 だが笑って送り出さなければならないのだ。
 頬の強張りを感じながらも微笑を浮かべるマリアーヌをエメリナは物憂げに見つめる。ややして、微笑んだ。
「ありがと、マリー。私頑張るわ」
 そっとエメリナがマリアーヌの手をとり握り締める。
「ねぇマリー。もし私がいなくなった――――」
 真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。
 だが途中でイアンとイーノスによって遮られた。
「なに2人で話してるの?」
「遊ばないのー?」
 2人を取り囲んで見上げてくる双子にマリアーヌは曖昧な笑みを浮かべる。
 エメリナも苦笑しつつ、ぽんと双子の頭を軽くたたく。
「……なんでもないわよ。そうだ、かくれんぼでもする?」
 双子に向けるエメリナの笑顔はいつもどおりの一点の曇りもない艶やかなものだ。
「「する!!」」
 元気よく頷く双子にエメリナも楽しげにベンチから離れる。
 ――――イアンとイーノスには今夜にでも話すから、とエメリナが小声で言った。
 小さく頷きながら、マリアーヌはまるで本当の姉弟のようにしてじゃれあっているエメリナたちをしばしぼんやり眺めていた。













 オセに戻り、ハーヴィスにケーキを届に行ったが執務室に主の姿はなかった。
 どこにいったのだろうかと思うも、帰ってくるのが遅くなったため、マリアーヌはケーキを厨房に預けると仕事に向かった。
 今夜もまた早々とエメリナと双子には指名が入っており、それぞれを送り出すとマリアーヌはいつものように掃除をはじめた。
 双子の部屋はおもちゃが床いっぱいに広がっている。
 それを片付けるのは大変だが楽しくもある。
 不思議と胸の奥が暖かくなる気がするのだ。
 たまにエメリナが弟や妹の話をしていることがある。
 いたずら好きの弟、泣き虫の妹にいつも苦労していたと言っていたが、そう話す表情はいつも暖かいものだった。
 マリアーヌにとって家族と呼べるものは母だけ。
 それもあまり今では記憶に残っていない。
 冷たい手だけは―――ふと思い出すが。
 マリアーヌはため息をつき、休みがちになってしまう手を動かし双子の部屋の掃除を終えた。そして今度はエメリナの部屋へ向かい掃除をはじめた。
 エメリナ宛に客からの花束が届き、それを活け終えると疲労感を感じソファーに腰を下ろした。
 昼に食べた大量のケーキがまだ胃の中に居座っているのがわかる。そのせいかいつもより気だるく感じていた。
 一つ二つと欠伸をし、マリアーヌはクッションを抱きかかえると、目を閉じた。
 エメリナの香りが移ってしまっているソファーはやわらかな居心地のよさがある。
 毎日のようにこのソファーには自分がいて、そしてエメリナがいて、イアンとイーノスが座っている。
 それは当たり前のことに思っていたが、そうではないのだ。
 エメリナがいなくなれば、もう4人でいることもなくなる。
 それに今後イアンやイーノスも、エメリナのように身請けの話が出てくるかもしれない。
 仕方のないこと、だ。
 わかってはいるが、もう少し一緒にいたい。
 考えるでもなく湧き上がってくる想い。
 エメリナや双子のことを想いながら、マリアーヌはいつしかまどろんでいった。

 








 夢、だろうか。


 暖かな手が、髪をなでている。
 幼い自分が、誰かの膝枕でうとうとと眠っている。
 優しい、優しい手が、ゆっくりと、そっと髪を撫でて、子守唄を唄っている。
 火のはぜる音。
 薄い毛布。

 あれは、あの暖かな手は――――母だったのだろうか。






 ぼんやりとまぶたを上げると、優しい眼差しと目があった。
「大丈夫? マリー」
「………エメリナ……、ごめんなさい私……寝てた?」
 頬の下にある柔らかなクッションから身を離すのは寂しい。
 クッションを抱えながら、マリアーヌは起き上がってソファーの背にもたれかかった。
 いったいどのくらい寝てしまっていたのだろうか。
「うん、気持ちよさそうに。いい夢でも見ていたの?」
 エメリナが目を細めてきいてくる。
 仕事から戻ってずいぶんたつのだろうか。エメリナの前に置かれたティーカップは空だ。
 仕事中に居眠りをしていた自分自身にため息をつき、マリアーヌは微かに苦笑した。
「うーん……よく覚えてないけど……あの人が出てきた気がするわ」
「あの人?」
 首を傾げたエメリナに「母親」と短く答える。
 エメリナはわずかに眉を寄せ、なにか言いたげにマリアーヌを見つめた。
「ねぇマリー……」
 ややして重くエメリナが口を開いた。
「なに?」
「………マリーは……お母さんのこと嫌いだったの?」
「え―――?」
 きょとんとしてマリアーヌはエメリナの視線を受ける。
 口元に手をあて、マリアーヌは母親のことを考える。
 ひび割れ乾燥したガサガサの手で叩かれていたことしか思い出せない。
「………さぁ……。あの人は私のことを嫌いだったと思うけれど」
 今は亡き、母親。
 マリアーヌの首を絞めた夜、母親は隔離された。
 村人に保護されたマリアーヌはその日から母親に会うことはなかった。
 ただ、村を出てしばらくしたころ、母親が死んだということだけ聞いた。
 病気だったか、事故だったか――――覚えていない。
「嫌いって言われたの?」
 真剣なエメリナの眼差しに、なぜか居心地の悪さを感じる。
「………汚いって言われたかしら」
 身を売った日は、決まって罵倒と暴力を向けられた。
「いつも?」
「そうね……。私が男を誘っている姿が醜くて嫌だったんでしょうね。汚らわしいっていつも叩かれたし」
 抑揚なく言うマリアーヌに、エメリナははっきりと顔を歪めた。
 以前、エメリナには昔身を売っていたことを話したことがあった。
 だが母親のことは言っていなかった。
 言う必要もないと思っていた。
「………マリー」
 エメリナがなにかを耐えるような表情で呟く。
 マリアーヌにはエメリナがなぜ暗い顔をしているのかがわからなかった。
 エメリナもまた、自分を汚いと思ったのだろうか?
 不意に、どす黒い暗い闇が心の中に染み出してくるような気がした。
 不安に揺れるマリアーヌの瞳。
 エメリナがそっとため息をつくと立ち上がり、マリアーヌの傍らに座った。
「私……思うんだけど」
 マリアーヌの手に手を重ね、エメリナはなぜか哀しそうに微笑んだ。
「マリーのお母さんはマリーのこと大好きだったって思うよ」
 ドクン、と胸が軋むのを感じた。
 マリアーヌは乾いた笑みを浮かべる。
 そんなわけないわ、と。
 そんなマリアーヌの手を、エメリナはギュッと握り締めた。
「私もね、オセに売られてくるときすごく親ともめたの。
 たとえどんなに生活が苦しくても娘を売るなんてできない、って。
 お前を犠牲にして得る金なんていらないって」
 エメリナが優しくマリアーヌを見つめる。
「でも姉さんは事情があって一人で赤ちゃんを産んだばっかりで、弟や妹は育ち盛りだし食べ盛りだし―――どうしてもお金がいると思ったから、強引に説得したんだけどね」


 お金がほしい。
 お金があれば、お母さんもおいしいものが食べれる。
 お金があれば、お母さんも荒れた手をしないですむ。
 あの―――――暖かい手に戻れるのに。


 そう思ったのは、いつだっただろう。


「マリーのお母さんは……悔しかったんじゃないのかな。マリーに身体を売らせてしまった自分が、どうしようもできない力のなさが、辛かったんじゃないかな」
 それは考えてもみなかったことだった。
 母親が辛かった?
 確かにいつも顔を歪ませていた。
 だが、それは―――。
「でも……」
「もちろんだからといってマリーを叩いていたっていうのは許せないし、間違ってると思うけどね。ただ、どうすればいいのかわかんなかったんだろうって思うの」
 マリアーヌは息をつめ、胸元を押さえる。
「だってマリーが初めて……身を売ったのは11歳のときだったんでしょう? まだ幼い娘にそんなことをさせて……平気でいれるはずがないよ。本当に嫌いだったら、お金を持って帰ってきた娘を叩くなんてこと、しないでしょう? 怒るどころか、きっと喜ぶはずだよ」
 マリアーヌは視線をそらし、うなだれた。
「………わからない」
 力なく首を振ることしかできない。
「だって、お金があればいいと思ったの。だって、お腹が空いていたの。私も"お母さん"も。だから、だから――――。でも」
 "お母さん"は、喜んでくれなかった。
 ぽつり、マリアーヌは呟いた。
 やつれて疲れた様子の母親を見ているのが辛かった。
 幼い自分にできる仕事は微々たるものだったのだ。
 
『マリアーヌ、ごめんね。またお野菜のスープだけなの。でもね、お給料がでたらご馳走を食べましょうね』
 母親は、すまなそうに、だが微笑んでいた。

「マリーはお母さんのこと嫌いだったわけじゃないでしょう?」
 ずっと、もう長い間、母親の笑顔など思い出したことも、いや笑っていたことがあったことさえ覚えていなかった。
 マリアーヌは小さく、小さく首を縦に振った。
 なぜ忘れていたのだろう。
「そう。ごめんね、マリー」
 エメリナが細い指で、マリアーヌの頬をぬぐった。
 そこで初めてマリアーヌは、自分が泣いているのに気づいた。
「ただ、なんとなく……ちゃんと愛されていたってことを知ってほしいなって思ったの」
 言って、エメリナは微笑んだ。
 ゆっくりとマリアーヌが顔を上げると、エメリナの穏やかな眼差しと目が合った。
「マリーのお母さんはもちろん、私も、イアンとイーノスもマリーのこと大好きよ?」
 それを忘れないで。
 エメリナは輝く笑顔を向けた。
 目頭が熱くなるのを感じながら、マリアーヌもぎこちなく笑顔を作る。
「………私も大好き」
「うん。―――だから、マリー」
 エメリナは目を細め、じっとマリアーヌを見つめる。
「約束してくれる?」
「約束……?」
「そう。もう二度と、身を売らないと。娼婦にはならないって」
 優しく、だが真剣な声色でエメリナが言った。
「私が言える立場じゃないけど、マリーの親友として、もうこの先なにがあっても、してほしくないの。私のわがままだけど。ね?」
 くすくすと笑い、エメリナは小首を傾げた。
 マリアーヌは涙を耐えるように唇をかみ締め、そして頷いた。
 いい子いい子、とエメリナが頭をなでる。
「いつか……。いつか、イアンとイーノスも一緒に、私の故郷に一緒に行こう?
 うちの家族ってうるさいくらいに賑やかで困っちゃうかもだけどね」
 エメリナの家族は、きっとものすごく優しく楽しいのだろう。
 うん、とマリアーヌは"いつか"に想いをはせ、笑った。
 エメリナはそんなマリアーヌにほっとしたように、目を細めていた。


 もうすぐエメリナはオセを出て行くかもしれない。
 だが、絆は切れないと信じられる。
「あのね、エメリナ。私ね……」
 知っててほしいと思った。
 エメリナに、本当の名前を。
 "マリー"ではなく、きちんと名前を呼んでほしいと思った。
 そう告げると、エメリナは、

『ずっと友達よ。――――マリアーヌ』

 と、花が開くように顔を綻ばせた。







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2006,4,20