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 メイドなのか商売仲間なのか、二人の少女にマリアーヌは身体の隅々まで丁寧に洗われた。
 汚れも垢もすべてこすり落とされた感覚がある。
 お風呂から出ると髪の手入れをされ、身体にはオイルを塗られた。
 顔には白い粉をはじめとしてあらゆる化粧をさせられ、コルセットも息がつまるような細いものをつけられた。
 着飾ることも一つの商売なのだから、とマリアーヌはされるがまま。
 だが鏡の中の自分を見たとき、少しだけ感嘆してしまった。
 いかにここへ来るまでの自分が汚れていたのかを改めて思い知らされるほどの肌の白さ。
 自分から漂う香りの心地よさ。
 そして身をつつむドレスが上質のものであることはその肌触りでわかる。
 ここへ来る前、ほんの1ヶ月だけだが働いていた娼館とは雲泥の差だ。あの店は娼館というよりは行きずりの売春宿といったほうが正しいかもしれない。
 マリアーヌは鏡の中の自分に見惚れ、だが違和感もまた感じていた。
 いくら綺麗にしようとも、自分は空っぽなのだから、所詮虚像にも見える。
 身支度を整え終えると二人の少女は去っていき、マリアーヌだけになった。ソファーに座り、黙って待っているとステファンがやってきた。
「ご準備は整いましたでしょうか。お食事の準備が整っております。どうぞ」
 そしてまたステファンに促され部屋を後にした。
 ステファンの後に続きながら、廊下を見渡す。濃い緑色の絨毯が敷き詰められた廊下。蝋燭はいたるところに置かれ、あの薄暗い石に囲まれた廊下とは違う。
 どうやらあの薄闇に包まれた廊下はハーヴィスのいた部屋ともうひとつ、こちら側へくるために通った執務室のような部屋の二つしか繋がっていないようだった。
 まるで迷宮のような廊下を歩き、ようやくひとつの部屋の前でステファンが止まる。ノックもなしに扉を開け中に入っていく。そしてその部屋にあるもうひとつの扉をノックした。
「どうぞ」
 中からハーヴィスの声。
 食事とはハーヴィスも一緒なのだろうか。
 マリアーヌは眉を寄せ、ステファンに促され部屋へと入っていった。
 一際明るい部屋の中、テーブルの上にはさまざまな料理が置かれていた。
 チキンの丸焼きにパイ、大きな器に入ったスープ。山盛りのパンに山盛りのサラダ。色とりどりのケーキにフルーツ。
 そして深い色合いをしたワインをハーヴィスは飲んでいた。
 この大量な食べ物を二人で食べるのだろうか?、マリアーヌは顔をしかめた。
 いままでろくにご飯など食べていないから目の前の料理に急激にお腹は空いてきていた。だがもともとマリアーヌは食が細いのだ。
 それにハーヴィスもまたそんなに大食には見えなかった。
「座って」
 ハーヴィスが笑いながら言った。
 ステファンが椅子を引く。戸惑いながらマリアーヌは腰を下ろした。
「さぁ食べようか。今日は君と出会えたことのお祝いだからマナーなど気にしなくていいよ。遠慮せず食べてくれ」
 遠慮せず、と言われてもどこから手をつければいいのかわからない。
 戸惑って料理を見ていると、身支度を整えてくれた娘たちとは違う別の少女が入ってきて給仕を始めた。
 目の前に取り分けられた料理に恐る恐るフォークを突き立てる。
 カリッと焼かれたチキンの皮。ナイフで切ることもせずに一口には大きい肉を運ぶ。
 鼻をくすぐる香草の香り。こうばしさとジューシーさが口いっぱいに広がる。
 もごもごと口を動かして数十秒かけてようやく飲み込んだとき、自然とマリアーヌの頬が緩んだ。
「美味しい?」
 視線を上げると、ハーヴィスが目を細めて見ている。
 マリアーヌは小さく頷き、視線をそらして再び目の前の料理を見る。
 頬が落ちるような、これまで食べたことのない料理の数々。
 一口食べてみて、強烈に自分が飢えていることに気づく。
 だが躊躇してしまう。
 満たされることが、なぜか不安に思えた。
「これは君のために用意したんだから、全部食べてもいいんだ」
 ハーヴィスの言葉に、マリアーヌはぎゅっとフォークを握り締める。
 そして、一口一口、ゆっくりと料理を食べていった。
 濃いオレンジ色をしたスープはかぼちゃだった。いままで食べたことのある薄いスープとは違い、濃く、そして甘い味。
 ミートパイはぎっしりと肉が詰まっていて、パイは音がたつようにサクサクしている。
 いつのまにかマリアーヌは夢中になっていた。
 チキンをのどに詰まらせてはかぼちゃのスープを飲みパイを、サラダを食べ、そしてパンを頬張った。
 さすがにテーブルに出されていたすべてを食べきることは無理だったが、それでも予想以上の量を食べていた。
 呼んでもいないのにタイミングよく給仕する少女によって目の前に取り分けられているのは暖かな料理からデザートへと変わっている。
 柔らかなスポンジとたっぷりの生クリーム。フルーツの数々。とろけるような甘さにだんだんとマリアーヌの心も穏やかになっていっていた。
 そんな中、ニャァ、と鳴き声が響いた。
 見るとカテリアがまるで咎めるようにマリアーヌを見ている。
 ぽかんとするマリアーヌにクスクス笑いながらハーヴィスが声をかける。
「口元に生クリームがついているよ」
 はっと手で口元をぬぐう。
「まぁ僕は今日くらいいいかと思ったんだけど、カテリアはお気に召さなかったみたいだね」
 カテリアはまた一声、今度は不満げに鳴く。
「今日は初めての晩餐なんだから、多めに見てあげてもいいだろう?」
 そう笑いながらハーヴィスは優しくカテリアの背をなでる。
 それに答えるかわりに、カテリアはハーヴィスの膝の上で目を閉じ丸くなった。
 マリアーヌはその様子を不思議な面持ちで見つめていた。
 ―――金持ちは変わっているんだ。
 そんなことを言っていたのは誰だったか。
 ご多分に漏れずハーヴィスもその類なのだろうか。
 マリアーヌはケーキを突き刺したフォークをもったまま思った。
「さぁ、食べて」
 にっこりとハーヴィスが促す。
 マリアーヌは少し戸惑いつつも、再び甘い世界に落ちていった。




 すべて食べ終えて香りのよい紅茶を飲んだとき、マリアーヌは大きなため息をついた。
 最初からコルセットのせいで苦しかったのに、満腹でさらに苦しい。
 だが苦しさのなかに漂う満足感。
 感じたことのない、それは不思議な安心感がある。
「満足していただけたかな?」
 そう聞いてきたハーヴィスはどうやら大して食べてない様子だ。
 ワインはすでに二本目をあけている。
 この程度の料理等、日常的なものなのだろう。
 マリアーヌは視線をあわせないようにしながら、小さく頷いた。
「そう、それはよかった」
 その声は穏やかで優しい。
 だが、いままでマリアーヌに物を恵んだ者にあった同情や哀れみの響きはない。
 マリアーヌは無意識のうちに頬を緩めかけた。
 しかしすぐに我に返り、顔をこわばらせうつむく。
 ハーヴィスはそんなマリアーヌの態度を一向に気にする様子もなくワインを飲み続けている。
「……あの」
 しばらくして、マリアーヌは小さく口を開く。
「なに?」
 ハーヴィスとカテリアが同時に視線を向ける。
 マリアーヌはわずかに顔を上げ、カテリアを見、そしてハーヴィスを見た。
「あの……、旦那さん。あたしの仕事――――」
 だが言い終わらない内に大きな笑い声が響き渡った。
 驚いて真っ直ぐに視線を向けると、ハーヴィスが身をよじり笑っている。
 呆気にとられるマリアーヌ。
 カテリアは美しい藍色の瞳を冷たく光らせ、ハーヴィスを見上げる。
 二つの視線に気づいたハーヴィスは口を押さえながら、マリアーヌを見た。
「ああ、ごめん。"旦那さん"なんて呼ぶものだから」
 言いながらも笑いがとまらない様子のハーヴィスにマリアーヌは少しムッとした。
 以前いた娼館では女将が取り仕切っていた。女だから女将。男なら旦那なのだろうかと迷った末に言ったのに。
 そうマリアーヌは唇をかみ締める。
 黙りこんだマリアーヌに、ようやく笑いを静めたハーヴィスが改めて笑顔を作って言った。
「ハーヴィス、と呼んでいいよ」
 自分の雇い主、自分を買った男を呼び捨てにする?、とマリアーヌは戸惑う。
 にこやかな笑みをたたえたままのハーヴィスにマリアーヌは迷うようにして口を開く。
「ハー……」
 ハーヴィス。
 たったそれだけだが、結局言うことができずに口をつぐんだ。
 そしてそれをごまかすように、
「その……あたしがその猫の世話係っていうのは何なの」
と言った。
 瞬間、カテリアがぴくりと耳を動かし、やや不満気な眼差しをマリアーヌに向ける。
 それに気づいたハーヴィスが苦笑した。
「カテリア、とちゃんと呼ばないといけないよ。カテリアは君の主人なのだから」
 笑いを含んではいるが、至極真面目に言われた言葉。
 続いてカテリアが一声鳴く。
 それはまるで『そのとおり』と言っているようだった。
 マリアーヌは眉を寄せる。
「………意味がわからない。結局あたしは何をすればいいの」
 猫が主人などと意味不明だ。
 金持ちの中には猫などに大層な金を使うものもいるという。
 ハーヴィスもまたそうなのだろうか。
「あたしはこの身体で金を稼ぐためにきたの」
 そう、胸を押さえ低く言う。
 ハーヴィスは不思議そうに首を傾げる。そして席をたつとマリアーヌのそばにやってきた。
 テーブルの端に腰掛け、マリアーヌの綺麗に整えられた髪に触れ、そっとなでる。
 その静かな手つきはカテリアの毛並みを整えているのと同じように優しいものだ。
 マリアーヌはハーヴィスを見上げた。
「しかし、君はここへ売られてきたんだよ? 僕の言うとおりに黙って働けばいいんじゃないのかい?」
 それともそんなに身を売りたいのかい?
 マリアーヌは顔をこわばらせ、視線をそらした。
 そんなわけではない。
 男に組み敷かれ、自らを汚したいわけではない。
 ただ――――。
 ただ。と、だがマリアーヌはもやがかかった胸の中の想いを形にすることができない。
「それにカテリアの世話だって十分身体を使うよ」
 ハーヴィスの言葉に、さらにマリアーヌはうつむく。
 そんなことはわかっている。
 しかし違う。
 心の中に広がるのは陰鬱な闇。
 それが、こんなにも眩い部屋の中では、闇がかすんでしまう。
 なにも考えられないくらいの辛い仕事でなければ、いけない。
 わけのわからない歯痒さ。
 ギュッとマリアーヌはこぶしを握り締めた。
「心配しなくても、そんなに楽な仕事じゃないよ」
 ハーヴィスはマリアーヌの顔を覗き込み、微笑む。
「カテリアは夜行性だからマリアーヌのそばにいてもらうのは夜。それまではさまざまな仕事をしてもらう。下働きとしてだがね。寝ている暇もないかもしれないよ」
 かなりハードになるだろう、ハーヴィスが言った。
 マリアーヌはほんのわずか顔を上げる。
「まぁここは悪徳の家。君はまだわかっていないだろうが、身を売ることで闇の中に浸っている必要もないくらいに、ここは真っ暗だよ」
 薄く、ハーヴィスは笑った。
 さらに顔を上げてマリアーヌはハーヴィスと視線を合わせる。
 笑っているがなんの感情も見出せない瞳。
「君が心配することはないよ」
 ハーヴィスはそっとマリアーヌの額に口付けを落とした。
 ふっとハーヴィスの眼差しが和らぐ。
「まぁ、とりあえず今日はもうお休み。また明日仕事のことについては教えてあげよう。眠れないかもしれないが、よく睡眠はとっておいたほうがいいよ。本当にハードになるだろうからね」
 言って、ハーヴィスはマリアーヌから離れ、再び席についた。
 カテリアはテーブルの上で身をまるめて、じっとマリアーヌを見ている。
 リン、とハーヴィスがテーブルに置いてある鈴を鳴らした。
 数秒とおかずステファンが入ってくる。
 ハーヴィスがちらり視線を向けると、ステファンはマリアーヌを見て「お部屋へご案内します」と頭をたれた。
 マリアーヌはワインを飲んでいるハーヴィスを見つめ、そしてのろのろと席をたつ。
 今日何度目か再びステファンに促されて部屋をあとにする。
「おやすみ」
 そう、背中にハーヴィスの声がかかった。
 ゆっくりと扉が閉まる。
 マリアーヌはひどく、疲れを感じた。
 
 
 





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2005,11,13