10






 強烈な酒の匂いを漂わせた息が顔に吹きかかる。
 ゴツゴツした大きな手に口を塞がれ、マリアーヌは大きく目を見開く。
 地面に落ちたランプの灯に映し出されたのは二人の男だった。
 マリアーヌの口を塞ぎ、背後から抱きしめるように腕を絡みつかせている男は屈強な身体をしていた。
 もう1人の男は背の高い痩せた男。
 陰気な眼差しがマリアーヌに向けられている。
 二人の男がオセの客でないことは見て取れる。
 着ているものは高価には程遠い薄汚れたもの。髪もボサボサとしており、無精ヒゲと黒ずんだ肌をしている。
「もっと静かにしろといっただろう、馬鹿野郎」
 痩せた男が言った。
「ゴメンゴメン兄貴、でも塀が高いんだからしょうがねぇだろう」
 ヘラヘラと笑いながら答えるのはマリアーヌを抱える男。
 二人の男が喋るたびに吐かれる酒気を帯びた息に、マリアーヌは眉を寄せた。
「ったく、それにしてもこんなに早く見つかっちまうとは」
 痩せた男は言いながら、懐を探る。
「まぁでも、ちょうどいいか」
 そして取り出したナイフをマリアーヌの首筋に当てた。
 思わず身を震わせるマリアーヌ。
 痩せた男はニヤニヤと笑いながらマリアーヌに顔を近づける。
「おい、金庫はどこだ?」
 口を塞がれたままのマリアーヌは首だけを横に動かす。
 つ…、とナイフの刃先が柔らかな首に微かに食い込む。
 チクリとした痛みを感じマリアーヌは頭の中が真っ白になるのを感じた。
「嬢ちゃん、正直に言えよ。お前、その格好は娼婦じゃないだろう? 金庫のある部屋でいいんだよ。案内してくれるかい?」
 男は残忍な笑みを浮かべ、再度ゆっくりとした口調で言う。
 だがマリアーヌは同じく横に首を振ることしかできない。
 本当に知らないのだから。
 痩せた男は射抜くような目でマリアーヌの瞳を覗き込む。
 知らない――――。
 必死で目で答えるようにマリアーヌは視線を返した。
 ややして男は舌打ちをするとマリアーヌの首からナイフを離した。
 冷えた刃先が遠のいたことに、わずかに緊張が緩む。
 だが、
「おい、このガキとっとと殺せ。屋敷に入るぞ」
と、男の冷めた声に、全身が強張った。
 ぐっとマリアーヌをつかむ男の手に力が入る。
 マリアーヌはなんとか逃げ出す方法がないか必死に考える。
 だが混乱した頭では浮かばない。
「ええ、もう殺すのかぁ? なぁ兄貴」
 そう言ってマリアーヌの口を塞ぐ男が、ざらついた舌でマリアーヌの首筋を舐めた。
「殺す前にさぁ、こいつヤってもいい?」
 男の手がマリアーヌの胸をまさぐる。
 全身に鳥肌が立つ。身をよじろうとするも強い力で抱え込まれていて身動き一つとれない。
「はぁ? お前、俺達がなにしに来てるかわかってんのか。金盗りにきたんだぞ」
「そうだけどさぁ。ここは売春宿なんだろう? でも娼婦には手だせねぇんだろう。だからさぁ、こいつでいいからさぁ」
 粘っこい声で言いながらマリアーヌの耳に舌を這わせる。
「お前なぁ……。こんなガキでよくその気になるな」
「いいじぇねぇか、可愛くて。な、すぐ済ませるからよ。なぁ兄貴」
「仕方ねぇな。2分だけ待っててやるよ。とっととヤッて、殺せ」
 わかった、と嬉しそうに笑い男はマリアーヌを塀に押し付けた。
「最期にいい思いさせてやるよ」
 楽しそうに唇を歪めながら、男はマリアーヌのドレスの裾から手を入れる。
 太ももを這う生温い体温のざらついた手。
 無理やりに足を開かせようとする手にマリアーヌは弾かれたように暴れだす。
 だが男はものともせずマリアーヌの下着を剥ぎ取ると右足を抱え、身体を寄せてきた。
 娼婦をしていたとき知らない男に身体を開くことは当然だった。
 だが今は、怖くてしかたがなかった。

 イヤ。

 涙を滲ませマリアーヌは必死に無駄な抵抗をする。
 男はゴソゴソとすでに固くなった男自身を取り出し、マリアーヌにあてがう。
 瞬間、全身を駆け抜ける嫌悪感に小さな悲鳴をあげると、口を塞いだままの男の手に、指に噛み付いた。
 渾身の力を入れ噛み付いた指の皮膚がプツリと切れるような音がした。
 そして口内に流れ込む男の血。
「グアッ!」
 思わず男が手を離したすきに、マリアーヌは男からすり抜け逃げ出した。
「オイッ!!!」
 痩せた男が、舌打ちとともに追いかける。
 マリアーヌはもつれそうになる足で必死に走る。

 ――――誰か、助けて。

 そう叫ぼうとしても、恐怖で声が出ない。
「この野郎ッ」
 痩せた男のあとから、もう1人の男も怒りの形相で追いかけてくる。
 転びそうになり、なんとか踏みとどまり、見えてきた屋敷の扉に安堵する。


 もう少し、もう少し。


 扉のところさえ行けば、助かるような気がした。
 しかしあと3メートルほどのところで、マリアーヌの動きが止まった。
 グッとつかまれたのは後ろで一つにまとめた髪。
 大きいほうの男の手がマリアーヌの髪をつかみ力任せに引っ張った。
 そして、
「この野郎ッ! 痛かったじゃねぇかッ!!」
 そう怒声を上げると、屋敷の壁にマリアーヌを打ち付けた。
 頭から壁にぶつけられ、鈍い痛みが駆け抜ける。
 強烈なめまいとともにマリアーヌの身体はゆっくりと地面に崩れ落ちた。
「クソガキッ!!」
 チキショウこの売女、と怒鳴りながら男がマリアーヌを蹴りつける。
 朦朧とする意識。

 ――――助けて。

「もういいから、とっとと殺せ! あまり騒ぐと人がくる!」
 苛立たしげに言ったのは痩せた男。
 ブツブツと文句を言いながら、もう1人の男は懐からナイフを取り出した。
 そして男はマリアーヌに手を伸ばした。
 瞬間、

 シャァッ――――。

 威嚇するような唸り声が響いた。
 マリアーヌは虚ろな眼差しで、目の前に現れた白い毛並みを見る。
 守るようにマリアーヌの前に立ちふさがった白い猫―――カテリア。
「なんだぁ、この猫」
 ナイフを手にした男はカテリアを蹴り退けようとした。
 だが、それが実行されることはなく、次の瞬間響いたのは絶叫だった。


「う、う、ウァァ―――ッ!!! う、う、お、俺の腕がぁッ!!」


 ドサリと、なにか重たいものが地面に落ちる音が響く。
 そしてもう一つの悲鳴が上がる。
「ギャァァ!! た、助け―――……」
 二人の男の恐怖を滲ませた叫び声が夜闇に広がる。
 しばらくして悲鳴は消え、いくつかの足音とともに引きずるような音が地面を通して伝わってきた。
 マリアーヌは動くことも何が起こっているのか見ることもできずに横たわっている。
 ニャァ――。
 心配げな鳴き声が、マリアーヌの耳元でした。
 朦朧とした眼差しをカテリアに向ける。
 そしてカテリアのそばに一つの影が歩み寄った。
 ふわりとマリアーヌの身体が抱きかかえられる。

 暖かな手、甘い香り。


「――――大丈夫かい、マリー」


 ひどく優しい声が囁いた。
 身体を包み込む暖かさに緊張が緩む。
 
 ハーヴィス―――。

 音のない声で呟き、マリアーヌは意識を手放した。









***










 悲鳴、鳴き声、断末魔。
 苦しみ悶える声が充満している。
 息苦しい空間。
 目を開けようとするが開けることができず、ただただ女の悲鳴を、男の断末魔を聞くことだけしかできない。
 耳をふさぎたいが身体も動かない。
 心を、身体を突き刺すような叫び声にマリアーヌは眉を寄せた。
 そして急にすべての音が止む。
 ふっと首筋に冷たい感触。
 マリアーヌの細い首にまとわりつく冷たい手。
 ギリギリとその手は首を絞めていく。

 イヤダ。

 氷のように冷たい手によって、自分もまた冷たく死んでいくような気がした。

 怖い。

 動かなければ。
 目を開けなければ。

 そう、必死で鉛のように重く感じる身体を動かそうと試みる。
 それを阻止しようと首に絡みついた冷たい手はいっそう締め付ける。


 死にたくない。
 怖い。


 腕に力を入れる。
 自分の身体に動けと命じる。
 ゆっくりと、指先が動いた。
 ほんのわずかやっとの思いで、動いた。

 ふっとその手が暖かさを取り戻す。

 指先に感じる暖かな感触。
 手を包み込む、暖かな手。




 そうして、マリアーヌは目を開けた。



 薄暗い室内。見慣れた天蓋。
 目の端に柔らかな灯が見える。
 これは夢の続きなのだろうか、それとも現実なのだろうか。
 マリアーヌはそっと空気を吸い込む。
 はっきりとしてくる意識とともに、頭がズキンと痛んだ。
 その痛みが、現実だということをわからせる。
 悲鳴にあふれた夢から醒めれたことに安堵する。
 そして実際に夢でなく殺されかけたことも思い出した。
 助かったのだ。
 ぼんやりとマリアーヌは思い、わずかに首だけを動かした。
 すぐそばにカテリアが身を丸めて眠っていた。
 自然と頬が緩む中、カテリアの向こうにハーヴィスがいるのを認めた。
 ベッドのすぐ横で、なぜか左手だけで本を支え読んでいる。
 そこで違和感を覚え、マリアーヌはようやく気づいた。
 シーツの中、自分がハーヴィスの手を握っていることに。
 
 いつからなのだろう。

 マリアーヌはようやく光をとりもどした瞳でハーヴィスを見つめた。
 目が覚めてしまうと無意識のうちに手に力がこもってしまう。
「―――――」
 ぴくりと動いた手に、ハーヴィスが本から顔を上げた。
「マリー、おはよう」
 優しい微笑でハーヴィスが言った。
 カーテンで閉ざされた窓の向こうは真っ暗で、今が朝でないことはわかる。
 だがマリアーヌも「おはよう」と答えた。
 ハーヴィスは本をサイドテーブルに置くと、繋いだままの手にもう片方の手も添え、マリアーヌの手を包み込むようにした。
「気分はどうだい?」
 穏やかな眼差しを向けられ、マリアーヌはしばらくじっと見つめ返した。
 だいじょうぶ、と頷く。
 ハーヴィスはほっとしたように目を細めた。
「……あの……男たち…」
 声がきちんと出るか不安で、ゆっくりと口を動かす。掠れた声がこぼれた。
「どうなった……の」
 このオセの家に強盗に入ろうとした愚か者。
 男のざらついた舌や生温い手が思い出される。
「殺したの」
 ハーヴィスは首を傾げ、マリアーヌを見つめる。
 先ほどまで優しい光を宿していた瞳は、微かに冷たい色を浮かび上がらせた。
「まさか」
 あっさりとした口調で、ハーヴィスは小さく笑う。
「"オセの家"で、殺しはしないよ」
 そう言われても、マリアーヌの耳には薄れる意識の中で聞いた男達の悲鳴が残っている。
「まぁ、たまたま使い捨てのできる玩具をご所望されるお客様がいたから、差し上げたけどね」
 玩具――――。
 それが何を意味するのか、あの男達がどうなったのか、知る由もない。
 ただ、殺しはしないといっても、最終的にあの男達がこの屋敷から生きて出ることはないのだろうということは察した。
 狙う場所が悪すぎたのだ。
 あの男達だけでなく、あのイレインという少女もまた運が悪かった。
 そんなことをぼんやりと思った。
 この優しく暖かな手をした男が支配する―――、華やかで、ある者には残酷な場所。
「それにしても、マリーがこのまま目を覚まさなかったらどうしようかと思ったよ」
 マリアーヌの髪をそっと撫で、いつもの優しい微笑に戻るハーヴィス。
「まる1日眠っていたんだよ」
 気づいていたかい?、そう覗き込むハーヴィスにマリアーヌはわずかに目を見開く。
「……1日?」
「そうだよ」
 まだ離されていない、つながれたままの手。
 マリアーヌは戸惑ったように、ぎゅっと握り締めた手に視線を向ける。
「ずっと……そばにいてくれたの?」
 もちろん、と頷くも「まぁたまにトイレには行かせてもらったけどね」とハーヴィスは笑った。
 仕事はよかったのだろうか、そう不安そうな表情をしたマリアーヌにハーヴィスが目を細める。
「目覚めたときに1人だったら怖いかなと思ってね。それにマリーも手を離してくれなかったし」
 最後は悪戯っぽく笑いながら言った。
 離さなかった。
 その事実にマリアーヌは微かに顔を赤くし、ハーヴィスから視線を逸らす。
 なぜそうしたのかは自分ではわからない。
 ただ殺されると思ったあの時、あの後、抱きかかえられたときの安堵感は思い出せる。
 それは少し複雑で、少し心が暖かくなるものだった。
「ありがとう―――」
 ふとマリアーヌの唇からこぼれた言葉。
 ハーヴィスが少し驚いたようし、そして破顔した。
「いえいえ、大切なマリーのためならお安いごようさ」
 ニャァ―――。
 と、当然とでも言うように割り込む鳴き声。
 寝ていると思っていたカテリアが身を丸めたまま、マリアーヌを見ていた。
「カテリアも……ありがとう」
 マリアーヌは身体を横にし、右手でカテリアの背を撫でた。
 カテリアが小さく喉を鳴らす。
 そんな二人の様子をハーヴィスは優しい目で眺めていた。
「なにか欲しいものがあったら言うんだよ。お腹は空いていないかい? 仕事は休むようにしているから、しばらくは安静にしておくんだよ」
 幼子をあやすようにハーヴィスは言い、とりあえずスープでも持ってきてもらおうか、と立ち上がろうとした。

「――――ハーヴィス」

 ここへきて1ヶ月と少し。
 初めてマリアーヌはその名を呼んだ。
 離れそうになったハーヴィスの手を、強く握り締める。
 ハーヴィスは不思議な面持ちでマリアーヌを見下ろした。

「………あの」

 マリアーヌは自分の行動に戸惑いながら呟く。
「なにか食べたいものがある?」
 穏やかに訊いてくる声に、マリアーヌは小さく首を振る。
 

「―――――お願い」


 長い沈黙のあと、消え入るような声でマリアーヌは言った。



「そばに………いて?」



 なぜそんなことを言ったのかわからない。

 耳まで赤くしてうつむくマリアーヌ。
 それに答えるように強く手を握り返される。
 
 暖かな手。

 そろそろと顔を上げると、柔らかな笑顔が向けられていた。






 ―――――君の望むままに。
 そう、ハーヴィスは胸の内で囁いた。














 そしてこの夜から1年の月日が流れた。

 
 
 




第一部・終
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2006,2,7