強く首を絞められて、苦しかった。
 首に吸い付くように絡まった指がマリアーヌの意識を遠のかせる。
 すべての音が、ひいていく。
 苦しくて苦しくて頭が麻痺するように軋んだ。
 助けて。
 そう思うけど、それと同時に、早く死にたい、とも思った。
 霞んだ目に映るのは母親の強張った顔。
 何を必死になっているのかと、そう思う形相だ。
 早く、終わらせて。
 マリアーヌは目を閉じて苦しみを受け入れた。
 だけど、次の瞬間、大きな音がして、指が離れていった。
 マリアーヌに馬乗りになっていた母親の気配がなくなり、床に打ち付けられるような大きな物音が響く。
 急に開放された首。
 すっと空気が入ってきて、激しくむせた。
 目を開けると、ぼんやりとした視界の中でいくつかの人影が動いて、そして急に音が復活した。
 床を軋ませる足音。
 怒声。
 そしてマリアーヌのもとに屈みこんだ老婆の安否を問う声。
 マリアーヌはゆっくりと首を傾けた。
 床に突っ伏して泣く母親の姿が映った。
 母親の姿を見たのは、それが最後だった。



















 ようこそ、おいでくださいました――――。

 そう言ったのは初老の男だった。
 執事、そんな言葉を思い浮かばせる男は微笑するでもなく、ただ淡々と言った。
 だがその言葉はとてもひどく不似合いに思えた。
 いや、実際浮いていた。
 マリアーヌがその言葉をかけられたとき立っていたのは薄暗い地下廊だったのだから。
 ひんやりした空気と、どこからか吹いてくる風に静かに揺れている蝋燭の灯。
 等間隔で置かれた蝋燭にそれなりに明るかったけど、それでも闇は拭えてない。
 壁のそこかしこから闇が染み出てくるような気がした。
 そしてマリアーヌはというと、つぎはぎだらけの服を着、裸足だった。
 髪もボサボサで、お風呂になどずいぶんと入っていなかったから、自分自身でも臭かったほどだ。
「どうぞ、こちらへ」
 男は言って、促すように歩き出した。
 マリアーヌは黙って男のあとに従う。
 男の行く先が、これからのマリアーヌの住処となるところなのだ。
 いや、働く場所、か。
 いずれにせよマリアーヌにはどうでもいいことだった。
 石廊に、男の足音が冷たく響く。
 少し歩くとさらに地下へと続く階段があり降りていく。そしてしばらく歩いたところで止まった。
 男の前には一つの扉。
 重厚で艶やかな表面をした扉を男は静かにノックする。
 やや間をおいて、中からの返事をまたずに男は扉を開いた。
 あふれる眩い光にマリアーヌは目を細めた。
 薄闇の地下に慣れた目には強烈過ぎる光。
 扉をあけたまま薄闇にたたずむ男はすっと手で中へ入るよう促した。
 一歩、一歩とゆっくりマリアーヌは部屋の中へ足を踏み入れた。
 硬い地面から離れた足が柔らかな床に沈む。
 目に入ったのは真っ赤な絨毯。
 部屋中に敷き詰められた赤い色。そして視線を上げていくと正面壁にもうひとつの扉。その横に大きな柱時計、書棚とならんでいる。左端にはべルベット地のソファー。向かい右側に机があり、そこに一人の男が座っていた。
 カタン、静かにマリアーヌの後ろで扉が閉まる。
 マリアーヌは座っている男に視線を向けた。
 艶やかなプラチナブロンドの髪。エメラルドグリーンの瞳。顔立ちは美形とまでもいかないが整っており、精悍よりは柔和な感じのする男だ。20代前半ぐらいに見える。
 男は目を細めマリアーヌを見、立ち上がった。
「こんにちわ」
 向けられた笑みは穏やかで、向けられた言葉もまたのんきなものだ。
 この店の主の秘書かなにかだろうか。
 マリアーヌは返事をするでもなく、ちらり男を見て、そして視線を逸らした。
 男は机によりかかるように立ち、ソファーへと手を差し向けた。
「マリアーヌ・クレール。そこに座っていいよ」
 いかにも高級そうなソファー。ベージュのベルベット地に薔薇の刺繍が施されている。
 薄汚れた自分が座ればその価値も下がってしまう。
 マリアーヌはわずかに首を横に振った。
 男はとくに気にする様子もなく、そう、と言ってマリアーヌを見つめる。
「はじめまして、僕はハーヴィス。この店"オセの家”のオーナー」
 明るいでもなく暗くもなく、なにかセリフでも読んでいるかのような口調。
 マリアーヌは驚いたようにハーヴィスを見上げた。
 阿片・売春の館―――、魔窟"オセの家″。
 悪名名高いこの店のオーナーがこんなにも若い男だとは想像もしていなかった。
 ハーヴィスはマリアーヌの考えを読んだかのように、ふっと笑う。
「僕のようなひ弱そうな男が主だなんて意外だよね」
 ひ弱そう、そうは思わない。だがマリアーヌはなにも言わなかった。
「この店については知っている? たまに知らずに来る子もいるんだ」
 まぁ君は知っているようだけど。
 マリアーヌの返事を待つことなく一人喋るハーヴィス。机の上にある吸いかけの葉巻を口にくわえる。ふわりと立ち上る煙とともに甘い香りが漂う。
「この店……この屋敷では棟によってわけられてるんだ。阿片の棟、娼婦の棟、あらゆる商品の売買をする棟、なんていうふうにね」
 マリアーヌはこの部屋へは館の裏口から直接地下へと来た。馬車から降りてすぐだったため屋敷の全貌は見えていなかった。だが夜闇に延々と続いていそうな塀の広さだけは覚えている。
 いったいどれほどの敷地を有しているのか。
 それほど大きな屋敷なのだとして、こんなにも大っぴらに営業できるのだろうか。
 この店に興味などなかった。だがそんな疑問がわいてくる。
「棟、といっても主に地下に部屋はあるんだけどね。1階、2階は社交場になっている。いたって健全なね」
 にっこりとハーヴィスは言う。
「だから、選んでいいよ。君はここに売られてきたわけど、職種の選択くらいはどうぞ。社交場で女中として働くもよし、地下で娼婦として働くもよし」
 その言葉に、今度ははっきりとマリアーヌは怪訝そうな顔をした。
 選べる?、疑問に思わずにいられない。
 売られた子供に選択の余地などないはずなのに。
 不思議そうなマリアーヌの視線の中で、ハーヴィスは美味しそうに葉巻を吸っている。
 どういう店なのだ、そう思いながらマリアーヌはようやく口を開く。
「………娼婦として働くと聞いてた」
 それ以外に使い道などないだろう、マリアーヌ自身そう思う。
 ハーヴィスは「ああ、そう。だったらそれでいいかな」と言い、手招きした。
 マリアーヌは黙ってハーヴィスの前に立つ。
 近くにくるとハーヴィスからは葉巻からとは違う甘い香りがした。
 すっとハーヴィスの手が伸び、マリアーヌの顎をつかみ持ち上げる。ゆっくりとマリアーヌを眺める。
 視線が合い、マリアーヌは感情のこもらない瞳を向けた。
 ハーヴィスが身をわずかに身をかがめ、マリアーヌの唇に口づけする。
 口付け、というには激しいもの。マリアーヌは動じるでもなく、黙って受け入れる。
 これも品定めのひとつなのだろうから。
 口内に唾液とともに交じり合う葉巻の香り。すべてをねじ伏せるような蹂躙するような口付けだった。
 受け入れ応じるだけだったが、それでもハーヴィスの口付けから開放されたとき、マリアーヌの息は微かに弾んでいた。
「まぁまぁ、かな」
 艶も潤いもないマリアーヌの髪に触れながらハーヴィスは目を細めた。
「とりあえずお風呂に入って身づくろいをしてもらうかな。ここは一応高級店なのでね、娼婦としてデビューしてもらうまでには下準備の期間がしばらく――――」
 ふとハーヴィスの言葉が止まった。
 チリン、軽やかな鈴の音がひとつした。
 ハーヴィスが音のしたほうへと視線を向ける。
「カテリア」
 ほっと息をつくような声でハーヴィスは囁くように言った。
 マリアーヌから離れるバーヴィス。
「珍しいね、どうしたんだい」
 親しみのこもった声に、マリアーヌは視線を向けた。
 そこには愛しそうにハーヴィスに抱きかかえられた―――猫がいた。
 真っ白な猫だ。毛並みはきれいに整えられ、青い目がじっとマリアーヌを見ている。
 凛とした気品さえ感じさせる猫だった。
 ハーヴィスよりもきつく品定めするようなカテリアの眼差し。
 細く伸びやかな声でカテリアが一声鳴いた。ハーヴィスがそっとカテリアを床に下ろす。
 カテリアはマリアーヌの足元へ来、見上げる。
 マリアーヌは黙って見返す。
 しばらくしてカテリアがマリアーヌの足へと擦り寄ってきた。
 柔らかな毛並みが足にくすぐったい。マリアーヌは汚れ黒ずんだ自分の足にまとわりつくカテリアをどうすればいいのかわからず立ち尽くした。
 カテリアはややしてマリアーヌから離れ、しなやかな動きで机の上に飛び乗った。
 ハーヴィスがカテリアの頭をなでる。カテリアがまるでなにかを告げるようにハーヴィスを見ている。
「…………お気に召したのかい?」
 頷くように、カテリアが鳴いた。
 ハーヴィスはマリアーヌに視線を向け、微笑した。
「残念だけど、君の第一希望は却下だ」
 意味がわからずマリアーヌは眉を寄せる。
 ハーヴィスはカテリアを抱き上げ、その毛並みを撫でながら告げた。
「君には、カテリアの世話役になってもらう。さぁ、そうと決まれば早速準備を整えなければ」
「な――――」
 なに?、そうマリアーヌは言おうとが、それより先にハーヴィスは机の上の鈴を鳴らした。間をおかず入ってきたのは、ここまで案内してきた初老の男。
「ステファン、今日から彼女がカテリアの世話役だ。部屋の準備をしておいてくれ」
 ステファンは一瞬マリアーヌを見、かしこまりました、と返す。
「そして彼女をお風呂に連れいってあげてくれ」
 再度ステファンは頷く。
 ハーヴィスは優しい笑顔を浮かべると、マリアーヌの髪をとって口付けした。
「さぁ行っておいで」
 そっと背を押され、マリアーヌは状況を理解できないまま、再び部屋をでてステファンのあとに従った。
 猫―――カテリアの世話、とはどういうことなのだろう。
 マリアーヌは訝しく思うも、あの眩い部屋から薄闇の廊下に出られたことに、ほっとため息をついた。









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