『2.記憶』
『日曜日、由奈と映画行ったの? 最初っから言えばよかったのに』
三個目のパンをぱくついている嵐を見ながら、日向はその言葉を飲み込んだ。
三時限目の休み時間、香澄からあのことを聞いてから、喉元を行ったり来たりしている言葉。
香澄は『三人、仲いいもんね』と言った。
確かにその通りだった。中学の3年間同じクラス、高校も一緒でも一緒。いつも三人で遊んでいた。日向が嵐と付き合い始めたのは中学卒業の少し前。
デートはもちろんしているが、由奈と三人で遊ぶこともたくさんある。だから由奈が嵐と二人で遊ぶことがあったって構わないと思っている。
だが当日「いけなくなった」と電話があったときの嵐は本当に焦って、大変そうだった。
(…嘘とは思えない。でも)
だけど、なぜ二人が映画に行っていたのか、それがわからないのだ。
(なんで……?)
ジュースが通れないほどストローをかみながら、日向は委員会で教室にいない由奈の席を眺めた。
ため息が出て、嵐が口をもごもごさせながら目を向けた。
「なに? ぜんぜん食べてないじゃん。またダイエット?」
ニヤニヤ笑う嵐。
日向はまたため息をついた。
(この能天気バカ! いったい誰のせいで食欲ないと思ってんのよ)
苦々しく思う。だけどその一方で、嵐のいつもと変わらない様子が、日曜日のことはたいした意味はないんじゃないかと思わせる。
そう思ったら、すんなりと言葉が出てきた。
「日曜日って嵐、本当は葬儀の手伝いサボってたんじゃないの〜?」
嵐の口元から、パンが袋の中に落ちた。
一瞬、嵐の動きが止まる。
そしてパンをゴソゴソ指で押し上げて、また食べ始める。
パシャパシャ、パンの袋のこすれる音が、耳に障る。
「……いやー…」
残り二口分ほどのパンを一気に口の中に詰め込む。頬一杯になって、窮屈そうに飲み込みながら、ようやく口を開いた。
「みんなにこき使われて、すんげぇ忙しかった…」
「…………」
100%オレンジジュースを一口飲んで、嵐はその濃さに顔をしかめる。
「若いっていいねー、って言われながら使われまくり」
苦笑いを浮かべる嵐に、日向はのろのろと腕を机にのせ、頬を包み込むように頬杖をつく。
そして、意味なく笑った。
「面白かった? 映画」
学級日誌をつけていた由奈は、顔を上げた。
机にノートを立てて、それに寄りかかるように身を乗り出して日誌をのぞきこむ。
「日曜日『偶然』嵐と会って、映画見たんでしょ?」
明るくもなく暗くもなく、普通の軽い口調、軽い笑み。
戸惑い気味の由奈はぎこちなく笑みを作る。
目が、どう答えようか迷うように左右に動く。
「……うん。映画館の前で嵐に会ってね。ひまついでに」
「ウソ」
語尾に重なる。
由奈は驚いたように日向を見た。
数秒、沈黙が流れる。
そして日向はにっこりと笑った。
「ほらー、ここ間違ってるよ。漢字」
と日誌の一部を指で押さえる。
「え?」
「『嘘』書いちゃダメだよ」
日向は由奈のペンケースから消しゴムを取り出す。
「美術の神尾は『上』じゃなくて『神』だよ」
その一部分を消す。
白い塊から、黒い文字を含んだカスが、パラパラ出てくる。
その消しカスを払いながら、日向はまるで自分の心のようだと思った。
ちょっとのことで動揺して、黒ずんでしまった心。
由奈にたいして『意地悪』をしている自分。
「ありがと」
由奈が小さく笑った。
「うん」
傾きかけた陽が、日向の表情を隠す。
日向は前の席にイスに座った。
「まだ、行かないの?」
教室の中には日向と由奈しかいなかった。
次の時間は図書室で自習なのだ。
「日誌、全部書いてから行くよ。日向先に行ってていいよ」
「えー? 待ってるよー。だって友だちじゃん」
由奈は顔をほころばせた。
日向も笑顔を向ける。
比較的暖かな陽が身体の左側に絶えずあたる。だからじわじわと暑い。日向はウチワがわりにノートをあおぐ。下敷きならまだしも、ノートは幅があるので固く、しわを寄せながらゆれる。
沈黙とは違う静かな空気。
会話がなくても、苦ではない。
いつもなら…。
日向は前髪をつまんで、枝毛を探すように目だけを動かして見る。
ぼんやりと髪の毛を眺めながら、心の中でそっとため息をついた。
胸のあたりにもやがかかったように、息苦しかった。
髪から手を離し、ため息をあくびに変えて、口元に手を当てる。
そして頬杖をつく。
(なんで嘘つくかなぁ…。嵐)
昼食のときの嵐を思い出し、心の中で呟いた。
頬杖した指先に知らず力が入り、肌に食い込んだ。その痛みに、慌てて手を離す。
「………」
日向はじっと由奈を見つめた。
そして、ちょっとした『イジワル』を思いつく。
「ねぇ、由奈ぁ」
壁に寄りかかりながら、呟く。
「なーにー?」
シャープペンを動かしながら、言う。
日向は目を閉じる。胸がドキドキしたいた。
子供の頃、いたずらをしたときの緊張感に似ている。
「わたし」
一呼吸、置く。
そして、
「嵐と別れようかな」
間があって、由奈が息を呑んだ。
「……な………日向…?」
かすれた声。
日向はその声を聞きながら、遠く校舎のとなりに見えるグラウンドを見ていた。
陽光がクルクル旋回するように降り注いでいた。
砂埃に景色がかすんで、陽炎のように男子生徒たちがサッカーをしている様子が小さく見えた。
微かに、掛け声が風に流され、聞こえてくる。
日向の瞳は、その景色を写している。
それなのに、日向の意識は由奈の一挙一動に集中していた。
「別れようかな、って…考えてるの」
念を押すように強く、けれども軽い口調で言う。
カサリ…、紙のゆがむ音が響く。
由奈の知らず日誌を握り締めた手。
「もし、別れたら」
日向は強く、手で覆うように顔を押さえた。
指の隙間から見える頬が、緩む。顔中が痙攣したように、笑いそうになる。
それを悟られないように、頬の筋肉を押さえ込もうとして、身体が震えた。
「そうなったら…由奈はどっちにつく?」
ピリピリした空気。
「もし別れたら…。もう友だちではいられないでしょう? たしかに由奈はわたしと嵐の友だちだけど、やっぱりぎこちないじゃない? 由奈が嵐と話してるのを見るのも、嵐がわたしたちのことを見るのも」
胸が締め付けられてるのか、由奈の呼吸が少ない。ときおり苦しそうなため息がもれる。
「…だから、もし…。わたしと嵐がわかれたときは、どうする?」
頬の緩みも収まり、日向の気持ちは水を打ったように冷静になった。
突然の高揚は、突然冷める。
そしてこの自分の『意地悪』に眉を寄せる。
確かにいま由奈に言っているのは、悪い冗談だ。
嵐が嘘をついたことへの嫉妬。そして由奈の気持ちを探るためのもの。
だが。
よく考えれば、それは現実にあることだ。
もし日向が嵐と別れたら?
由奈はどうするのか。
改めて日向はその問いを、自分自身に向けてみた。
(…由奈は……)
「わたしは……」
震えた由奈の声。
「わたしは」
軽い冗談、軽い意地悪が、気が付けば自分の目の前に突きつけられている。
由奈を困らせることが、実は自分を苦しめる質問だったことに、日向は今気づいた。
トゲが刺さったように、現実的な痛みとして胸がうずく。
ドキドキして、日向はいまの質問を大声で撤回したい衝動に駆られた。
反射的に声を上げそうになった日向を、由奈の抑揚の無い声が我に返らせる。
「わかんないよ」
由奈の言葉に日向は身体から力が抜けるのを感じた。
妙な疲労に思考力が鈍くなる。
「わかるわけないじゃない……、そんなの…。わたし……は」
コクン…、と由奈の喉下が上下する。
「わたしにとっては…日向も…嵐も……大切な親友で……。そんなこと…言われたって…」
日向はなにか言わなければと思って、口を開きかけた。
半開きの唇はあてのない言葉を捜す。
ぎゅっと唇をかみ締め沈黙する由奈。
数秒して由奈は、強ばったままの身体で日誌を書き出した。
「……ごめん…。由奈」
小さな、力のない声で日向は言った。
嵐と由奈に対してあった不信感はあっという間に消えてしまっていた。
由奈が抱いた不安に比べれば、自分の感じていたものなど一抹にも満たない。
自業自得もいいところだ。
「ごめんね……。軽い冗談…だから」
努めて軽く、だけど心底申し訳ない気持ちで日向は口を開く。
由奈は少し顔を上げ、日向をじっと見つめた。
「本当にごめん…。由奈…」
かみ締めるように言われた言葉に、由奈が微笑を浮かべた。
「いいよ、もう」
書く手を止め、目を細める。
差し込む陽光に、顔の輪郭がにじむように真白に輝く。柔らかな笑顔に、日向はほっとした。
「由奈……、ありがと……」
「なにしてんだ? まだいたのかよ」
さえぎられた言葉。
友だちと体育館で遊んでいた嵐が、荷物を取りに教室へ戻ってきたのだ。
上着を机に放り投げ、筆記具とノートを用意している。
「そういう嵐だって、今から行くんでしょ」
由奈が言う。
「まぁねー」
「おい、嵐〜。いくぞー」
友だちの呼び声。
「はいはい。じゃあな、早く来いよ」
そう言い残して、嵐は突風のように教室を出て行った。
嵐が出て行った後の教室は、妙にシンとした感じがした。
「元気だね、嵐は」
クスクスと笑いながら言った由奈に、日向も笑みを作る。
再び日誌を書き出した由奈に、日向の声が降りかかった。
「心配しなくていいよ、由奈」
きょとんとして顔を上げる由奈。
日向は嵐の席を眺めていた。その視線をゆっくりと由奈に止める。
そして、にっこりと笑った。
「わたし絶対に、嵐とは別れないから」
穏やかな声は無意識に出されたもの。
その笑顔も無意識に出たもの。
そして無意識に出た、牽制の言葉だった。
暑くて、肌寒い。
強い陽射し、冷たい空気。
冷たい空気だから、身体を動かしても汗は大して出てこない。
シュッ…、シュッ。
空気を裂く音。
空中をシャトルコックが弧を描いて飛んでいる。
パシッ。
たいした手ごたえもなくラケットにぶつかり、跳ね返ってゆく。
日向の額から首筋に、一筋汗が流れ落ちた。
汗はすぐに肌に吸い込まれるが、その通った部分はひんやりした感触を残している。風が当たって、気をぬけば微かに身震いしてしまう。
荒く吐かれる息は白い。
身体中がジリジリと熱くなってきたとき、ピーっと笛の音がグラウンドに響いた。
途端にドッと女生徒たちの話し声が大きくなる。
「あ〜つかれた〜っ」
倒れこむように腰を下ろして、日向はうっすら浮かんだ汗をぬぐった。
砂埃が、わずかに上がっている。
次の班が練習を始めていた。
「にしてもー。…いっつも思うけど一時間目の体育ってきつくない? しかもグラウンドでバトミントン…。体育館でさせてよってかんじじゃない? 由奈〜」
腕まくりしていたジャージを元に戻しながら日向は言った。
反応がなくて、由奈を見るとトマトのように真っ赤な顔をしている。「どうしたの? 由奈。顔真っ赤だよ」
由奈はトロンとした眼差しで日向を見た。
「…んー…。ちょっと熱いの、朝から」
「暑い?」
微妙なイントネーションの違い。
日向は手をくにゃくにゃ振って、風を送る。
「お、どうした? 由奈。完熟トマトになってるぞ」
すぐそばで授業をしていた男子生徒の群れの中から、嵐がやってきた。
屈みこんで、日向と由奈を交互に見る。
「暑いんだって」
嵐は首をかしげ、由奈を覗き込む。
「暑い? 熱い?」
スッ、と嵐の手が伸びる。
日向の胸がドキッとした。
少し土で汚れた手は遠慮がちに、由奈の額に触れる。
由奈の頬がさらに赤くなったような気が、日向はした。
疑いの目で二人を見る自分がいる。
そんな自分に気づかないフリ。
だが知らず知らずに嵐の一挙一動を、由奈の表情の変化を観察し、疑っている自分がいる。
「熱、あんじゃない?」
二人の様子を伺うことばかりに気をとられていて、反応が少し遅れた。
「え…? あ、熱?」
目をしばたたかせながら、由奈の顔色を見直す。
日向も由奈の額に手を当ててみる。たしかにわずかな熱を感じた。
「ほんとだ。保健室行かなきゃ、香奈」
由奈はのろのろ顔を上げ、小首をかしげる。
「大丈夫だよ。具合悪くないもん……。ちょっと熱いだけで」
安心させるように笑みを浮かべる由奈。
だが明らかに熱をもったと息をつく由奈に、日向と嵐は顔を見合わせて、ため息をついた。
「その熱いのがダメなんだろー、由奈」
「そうだよ。由奈、ちょっと休むだけでもいいから保健室行こ。ついてくから」
詰め寄る二人に、由奈はしぶしぶ頷く。
支えながら由奈を立たせる。
「嵐、先生に言っといて」
日向が言うと、嵐はすぐさま女子体育の担任教師に大声で保健室行きを告げた。
そして歩き出した、日向たちの横をそ知らぬ顔でついてくる。
「なに」
ついてきてんの、と日向が嵐を見る。
「え、だって心配じゃーん。それに俺もちょっと寝不足…」
とヘラヘラ笑った嵐に、教師から授業に戻れとの、お叱りの声。
「だってさ。じゃあねん。嵐くん」
がっくりと肩を落とす嵐を置いて、二人は保健室へと向かった。
「どうだった?」
休み時間はいろいろと準備があって、話す暇がなく、嵐が由奈のことを聞いてきたのは3時間目に入ってからだった。
美術の授業で、生徒たちは自由に席を移動して、絵を描いている。
「んー、熱は三十七度一分。保健室で休ませて様子見るっていってた。次の休み時間になったら様子見に行ってくる」
「ああ。…しかし由奈が風邪かぁ。珍しいよな」
嵐はスケッチブックを開きながら言った。
日向はすでに先週の続きを描きはじめていた。
「そうだね。由奈って健康管理ちゃんとしてるしね。…でも嵐も風邪引かないよねー」
「まぁなぁ。俺も健康管理ちゃんとしてるし」
日向は思わずバカにしたような笑みを浮かべて、嵐を見る。
「ああ、なんとかは風邪引かないって言うしね」
嵐がムッとして、日向の髪を引っ張る。
「なんですかー。そのなんとかって?」
「馬と鹿が関係した言葉です」
「日向さん、性格悪〜い」
嵐が日向の頬を軽くつねった。
ツン、と顔を背け、絵に集中する日向。
会話は途切れたけども、それは嫌な感じの沈黙ではない。喋らなくても、リラックスできる空気。
嵐はなんども消しゴムで消したり描いたり。
落ち着きなく絵を描いている。
少したって、嵐がボソッと呟いた。
「由奈は真面目すぎんだよな」
心地よい静けさの中で、集中していた日向は、声がかけられたことに気づくのに少しかかった。
意識の切り替えをし、日向もやっと声を出す。
「なに? ごめん、聞こえなかった」
聞こえたことは聞こえたが、もう一度確認で聞き返した。
「融通がきかないよなって、由奈は」
同じ意味合いで違う言葉。
日向は頷きながら、疑問に思う。
由奈が風邪をひくということと、融通がきかないという言葉の接点が見つからなかったからだ。
「なんで? 急に」
嵐はすでに課題に飽きたらしく、鉛筆を放り出している。
頭の後ろに腕をまわして、固いいすの背に目一杯もたれかかりながら、小さく笑った。
「由奈のことだから、どうせ悩んでばっかりいるんだろうな、って思ってさ」
描くのをやめて、日向は嵐を見た。
「睡眠もあんまりとってなさそうだし」
日向は嵐の描きかけの絵に目を落とし、無表情に相槌を打つ。
「そうだね」
ふいに、窓から冷たい風が吹きぬけた。
日向は髪を押さえながら、
「ほんと、大変だね」
意味なく日向の口から吐き出されたその言葉に、嵐は大きなため息をついた。
そして優しい眼差しを、日向に向ける。
「ほんと大変だよな…。両親は離婚するかもしれないし」
嵐の心配している気持ちが、日向に伝わる。
「そんなときに弟の慎一は入院しちゃうしさー。…悪いことって重なるよな。ほんと」
ふたりで『ほんと』って、何回言ったかな、と日向はぼんやり思った。
「両親はもめるのに忙しくて、慎一の面倒は由奈にまかせっきりだろ」
「………」
「家と病院…。心休まるのは学校だけ、って感じだよなぁ。俺も日向もいるしな」
笑顔を向けられて、日向はわずかに目を細めた。
嵐は頬杖ついて、
「もっと俺らを頼ってさー。熱出すくらい思いつめてたらだめだよねー。日向ちゃん」
軽い口調で言うことに、逆に心底心配しているということがわかる。
日向は強ばった頬を軽く引っ張る。
人差し指を頬につけて、ぐにゃり、と笑みにも似た筋肉をつくる。
「そう。大変だね」
冷静な口調。
日向は冷めた眼差しで嵐から視線をはずした。
嵐は、由奈についてもっと反応をするだろうと思ってたのに、日向の反応がいまいちで戸惑いを覚える。
なぜか妙に、不安になった。
「…ひな……」
思わず漏れたその声は、無意識の中で感じた後悔と悪い予感のせい。
なぜか、胸がざわつく。
「トイレ行ってくる」
日向が立ち上がった。
「あ、うん…」
嵐はすたすた歩いていく日向の後姿を見つめる。
そして数十秒後、席を立った。
女子トイレのほうに一直線に向かう。
日向の姿はすぐに見つかった。
教室から離れた場所にあるトイレのそばにはベンチと中庭へ出るドアがある。
そこに日向は座っていた。
授業中なので足音がしないよう気をつけて、嵐は日向へ近づいた。
日向は薄く目を細めて、嵐を見上げた。
「どうしたの」
日向の横に腰を下ろす。
「トイレ」
「ここ女子トイレだよ」
嵐はあいまいな笑みを浮かべる。
なぜ、追ってきたか。
なんとなく、だ。
なんとなくなにか『言い訳』をしなければ、と思って。
(言い訳……?)
嵐は眉を寄せた。
そしてふと気配を感じて横を向くと、日向の顔が目前にあった。
唇が触れそうなほどに近い。
だが触れ合ったのは鼻先と鼻先。
目を閉じた日向をぼんやり見て、嵐はキスしようと顔を動かしかけた。
だが、次の瞬間、日向がゆっくり目を開けた。
視線がぶつかり、はじける。
心の底に踏み込んでくるような日向の視線を正面から受け、嵐はまばたきさえも忘れて凍りつく。
(……なんか、俺、悪いこと、したか…?)
心臓の近くでしこりのように固まっている、その疑問に、嵐は息苦しくなる。
数秒、そのままの状態が続いて、日向は嵐から離れた。
身体を動かせないで入る嵐は、黙って遠ざかっていく足音を聞いていた。
その表情は、強ばっている。
嵐は、日向の瞳に見つけたものに、唖然としていた。
日向の突き刺すような『敵意』の眼差し。
嵐の首筋に一筋の汗が流れていった。
傷になるかもしれない小さな歪みを、無理に広げようとしているのが自分であることに、日向は気づいていた。
だが、そう気づいても止めることが出来ない。
嵐の由奈に対する愛情さえも感じる友情。
そして由奈の嵐に対する信頼。
わかっている。
すべては自分の過剰反応であることは。
ずっと三人、親友だったんだから。
由奈が嵐に頼って、嵐が由奈をいたわる。
友だちなんだから、当たり前のこと。
(だけど―――――――)
日向は知らなかったのだ。
由奈の両親が離婚するかもしれないことを。
由奈の弟が入院していたことを。
なぜ、知っているのが自分じゃなくて嵐なのか。
自分だけが知らなかったということが、日向を不安にさせる。
どうして嵐なのか。
どうして由奈なのか。
由奈への嫉妬。
嵐への嫉妬。
無意識に、歩く早さが早まる。
日向は走り出しそうになる、叫びだしそうになる気持ちを必死で抑えて、歩いていった。
「ありがとうございました」
由奈が保健室が出たのは、休み時間の余韻がまだ残る頃だった。
二時間睡眠をとって、かなり体調は良くなっていた。
だがまだ少し眠たさが残る。
保健医は寝不足と疲労が重なって発熱したのでは、と言ったから、そうやすやすとこの眠気は取れないだろう、と由奈は思い欠伸を噛み締める。
ゆっくりと歩きながら、由奈は目の端に映った影に足を止める。
下足センターとその通路のそばにあるベンチに嵐が座っていた。
珍しく深刻そうな表情の嵐。
由奈は声をかけるのをためらいながら、静かに近づいた。
足音に嵐が顔を上げる。
「なにしてんの? こんなところで」
嵐は空を仰ぎ、目を細める。
「別に」
抑揚の無い声。
由奈は隣に腰を下ろす。
「先生に見つかったら、怒られるわよ」
由奈はなんとなく言いにくそうに嵐を見た。
返事が返ってくるまでに、しばらくかかった。
「じゃあ……帰ろっかな…」
いやに暗くなっている嵐に由奈は驚く。
由奈が声をかけようとするよりも先に、嵐は立ち上がると裏門のほうに歩き出した。
「嵐っ」
あわてて嵐に走りより、その横顔を見上げる。
「どうしたの? なにかあったの?」
嵐はカチカチと爪を噛む。拳で唇を押さえつけ、苛立ち混じりのため息をつく。
「日向……」
「えっ…?」
急に早くなる心臓に、由奈は胸を押さえる。
「なーんか、やばい雰囲気なんだよねぇ。今日」
頭の後ろで腕を組み、わざと明るい口調で言う。
だがすぐに重い空気にかき消される。
「………やっぱり二人だけで…映画に行っちゃったこと…気にしてるんじゃないの…」
ポツリと由奈が言った。
ビクッとして嵐は口元をゆがめる。
「…日向…知ってたんだ」
驚いて嵐を見る由奈。
「俺…嘘ついちゃったんだけど…」
嵐は自嘲するような笑みを浮かべた。
由奈は言葉を詰まらせる。
由奈とその話をしたときのことを考え、唇を噛み締めた。
「でも…まぁ、な。別に見にいったぐらい…。本当に偶然会ってのことだし。それにあの時は…」
嵐は繕うように、苦笑して言う。
「………私…、嵐に頼りすぎちゃったのかな」
由奈がうつむいて、言った。
嵐はポケットに手を突っ込み、由奈を見る。
「家族のこととか…、日向には心配かけたくなくて…いえなかったから…」
嵐はわずかに頬をひきつらせ、ポケットの中で手を握り締める。
なにか妙に喉が渇く。嵐はそっと息をついた。
襟元を緩め、息苦しそうにしている嵐の横で由奈はうつむき、続ける。
「ずっと…家のことで苦しくて…。日曜日偶然嵐に会ったとき、なんか……」
そう、偶然、あの日、映画館の前で会った二人。
ひどく落ち込んでいた由奈を映画に誘ったのは嵐だった。
「急に寂しくなって…。嵐に甘えちゃったんだね…」
それから何度か、嵐には相談にのってもらっていた。
由奈はふと目頭が熱くなるのを感じて、目を伏せた。
二人は裏門の方へと来ていた。
由奈は校舎と裏門への道の途中で、うずくまった。
「おい、大丈夫か? 熱あるんだろ?」
由奈はわずかに首をふった。
首筋に手をあてて、「もう熱はないよ」と、笑う。
それでも嵐は由奈の前に屈みこんで、由奈を覗き込む。
「本当に、大丈夫なのか? 無理すんなよ」
由奈は心配そうに自分を見る嵐に、ため息をつく。
(…あの時も…同じことを言ったな…、嵐。……私が悩みを打ち明けたときも)
「ありがとう、嵐」
そう言いながら、由奈は胸を押さえる。
どうしようもなく、頭がもやもやして、気分が悪かった。
それは体調が悪いせいではない、嵐と映画を見に行った日のことを思い出したから。
あの日、自分が言った、言葉を思い出したから。
自分を気遣ってくれる嵐の優しさが嬉しくて、ふいに口をついて出た言葉。
『私、嵐って好きだな』
それは、ごく自然にでた言葉だった。
「あの時…」
ん?、と嵐が由奈を優しい眼差しで見る。
(…なんであんなこといったんだろう)
由奈はなにか罪悪感をおぼえて、呟いた。
「あの時ね…、好きだって言ったのは、友達としてだからね」
そう言って、顔を上げたとき。
日向と目があった。
嵐がいた。
由奈がいた。
学校なんていたくない、と思って裏のほうへ来た。
そしたら二人がいた。
由奈はもう熱はいいんだろうか、とぼんやりと思う。
嵐はなに授業サボってるんだろう、とぼんやり思った。
声はかける気がしなかった。
二人が深刻そうに話をしていたから、声をかけようと思っていても、かけにくかったったのだが。
だから、二人を黙ってみていた。
そして由奈の言葉が聞こえてきたとき、少し笑ってしまった。
好きだから友達。
嫌いな人と友だちしている人なんているんだろうか。
それをわざわざ『好きだといったのは友達として』だそうだ。
そんなわかりきったことを、いちいち否定してたら、逆に疑われちゃうよ、由奈。
そう思いながら無性に苛ついた。
そして由奈が顔を上げた。
目があった。
日向は嵐と由奈の横を素通りしていく。
嵐は驚いたようにその後姿を見、由奈は数秒して立ち上がる。
「嵐は待ってて」
素早く嵐に言い、由奈は日向を追いかけた。
走っているのではないかと思うほどの速さで裏門を出て行く日向。
由奈は走りながら、呼びかける。
「日向、待って」
由奈の声を無視して、日向は前方に見えるバス停へ向かう。
(バス、すぐ来るかなー)
日向は早く家に帰りたい気分だった。
バス停までは曲線を描く一本道で、両側は短く刈られた芝生になっている。
日向はアスファルトと芝生を交互に踏み歩いていた。
後方では由奈が小走りで日向についてきている。
日向はバス停の近くまで来て、歩みを遅くする。
微かに息を乱した由奈が日向と肩を並べた。
「……日向、あの、もしかして、誤解してたら…」
考えのまとまっていない由奈は、しどろもどろに言葉をつむぐ。
額に手を当て、目を落ち着きなく日向に向けたり地面に落とす。
「あの、嵐のことなんだけど」
上擦る由奈の声。
「あのね、日向、誤解してるの」
日向はちらりとも由奈のほうを見ようとしない。
(なんの誤解なんだろ。由奈がなんか勘違いしてんじゃないのかなぁ)
冷めた心で、思う。
「あの、嵐と…映画に言ったっていうのは、ほんとに偶然なの」
(だれもそんなこと聞いてないじゃん)
「たまたま会った…それで」
(なんで言い訳してんの、由奈? いいじゃない、悩みを打ち明けられるほどの大親友の嵐と映画を見に行ったぐらい)
「日向。私は日向の親友なんだから、日向のこと裏切るようなことは」
由奈は、日向の前に回りこむ。
その目を必死に見つめて、言った。
「絶対にしないよ」
日向は自分をまっすぐに見つめる親友を、覚めた目で見る。
そして、小さく笑った。
「誰もそんなこと、聞いてないって。由奈」
その笑みは、とても冷めていて、その声は、とても冷たくて、由奈は、黙った。
日向は由奈の横を通り、バス停へと再び歩み出した。
ほんの数秒。
そして由奈が、日向を追いかけ、その肩に触れた。
「日向。ねえ…」
由奈に触れられた肩から、その温かな体温を感じて、日向はなぜか鳥肌がたった。
うっとうしくて、触れられたその体温が嫌で、日向は由奈の手を振り払った。
びくっと顔を強ばらせる由奈。
「―――――」
由奈の唇が、言葉をつむごうと開きかけた。
ああ、もう、うるさい。
お願いだから、ほっといてよ。
イライラ、ザワザワ、頭が締め付けられる。
「うるさいッ」
日向はそう鋭く声を発して、由奈の肩を叩いて、身をひるがえす。
思いがけず力は強くて、由奈が道路に転んだ。
その姿が日向の目の端に映った。
だが日向は、それを無視して行こうとしていた。
だけど、行こうとしていたけど、日向の無意識の部分がそれを躊躇させ、振り向かせた。
転んだ由奈。
車道と歩道は白線しか区切りがなくて、由奈は転んでいて。
由奈が日向を見ていた。
転んだ状態で、困ったような表情で、悲しそうな表情で、日向を見ていた。
日向は由奈を見て、そしてその目の端に、もう一つの存在を、見ていた。
そして考える間もなく、それは訪れた。
うららかな秋の昼下がり。
授業中の学校のすぐそばで、妙な音が、響いた。
日向の目に、ふわりと宙に投げ出された由奈が映った。
一回転するように、身体が回って、そして地面に落ちる。
キキキーーッッッ…という、耳障りな、奇妙な音。
ドン、という奇妙な、耳障りな音。
それはほんの一瞬のことだったのに、日向にはスローモーションのように思えた。
由奈の一つに束ねてあった髪が、地面に散らばっていた。
―――――――――――?
止まった思考を、動かしたのは、叫び声だった。
嵐が、血の気の引いた顔で、由奈の元へ、走っていっていた。
倒れた由奈の身体のほんの先で止まった車から、男が慌てたように走って来ていた。
日向は動けなかった。
救急車を、と誰かの声が言っていた。
男がケータイを震える手で取り出していた。
そして目があった。
立ちすくむ日向を愕然と見た嵐と目があった。 だがすぐに、嵐は視線をそらせ、由奈にむかって、なにか叫んでいた。
ねえ、なんなのこれ―――――――――?
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